二重スパイ
「いやあ、ミスターX」
そう声を掛けてきたのは、ドイツ訛りの英語を話すフローレンス・グロスと言うアメリカ兵だ。GHQの中で民間諜報局に属している上層部の人間だ。
「君が集めた元諜報員等のおかげで巷に蔓延る麻薬組織を一網打尽にできた。感謝するよ」
フローレンスは、タバコをくわえたまま、いつものさげすむような眼で俺を見つめた。
フローレンスの年齢は二十八。俺とさほど変わらないのに、考え方はまるで幼稚だ。自己中心的で、利己主義で貪欲な男だ。この男が若くしてGHQの上層部に入れたのは、親の七光り
のおかげだ。
確か、親は上院議員の有力な政治家という噂だ。
要するに俺の一番嫌いなタイプの人種という事だ。
「ミスターグロス、お役に立てて光栄です。ただ…」
Xの表情にいつものジャパニーズスマイルが消えている。もちろん、この男の笑顔には笑っていない部分があるのは分かっていた。
眼だ。この男の眼にはいつも怒りが燻ぶっている。
それは十分にグロスは理解していた。
が、今回は憎悪の目だけが輝いてる。
「ん?どうしたX、今度の件で何か気がかりな事でもあるのか」
「ミスターグロス。私は、佐藤 和夫という日本名がある。Xというような記号で呼ばないでほしい」
男の意外な返答に、グロスは思わず咥えたばこを落としそうになった。
グロスはXの顔を見つめ、憐れむ様な目で言った。
「佐藤和夫は中野学校出身の特殊秘密諜報員の一人だ。中国国籍を非合法に手に入れ、我々連合国のスパイとして諜報活動をしていたが、実は日本のスパイとして我々
を裏切り続けた二重スパイ。君のおかげで、我々の作戦がどれだけ潰れ、多くの犠牲者が出たか知っているか?
君の名前や素性をここで公表してもいいのだぞ。君は即刻、軍法会議に掛けられ、死刑か、よくて終身刑がいいところだ。いや、それとも君を中国に差し出そうか?
もう一度、あの国で過酷な拷問にあいたいか?あの国は君を簡単には死なせてくれない、という事を君が一番よく知ってるはずだ。
瀕死の重傷を負った君を見つけ、救った我々の恩を無に帰すのか?」
グロスの言った事は事実だ。
終戦の二年前から、俺は中国にいた。アメリカからの援助物資が入ってきた中国軍は勢いを増し日本軍は前線で敗退を繰り返していた。
南方の戦線では日本軍の苦戦の状況が次から次へと耳に入ってくる。
日本は四面楚歌の状態で周りから支配地を少しづつ剥ぎ取られていく状態であった。
俺達二重スパイは、中国軍の参謀本部の司令官を暗殺する命令を受け敵の中心部にいたのだ。
中国軍の上層部を攪乱し、この負け戦をなんとか巻き返そうと苦肉の策を考えたのだ。
スパイは兵士ではない。まして民間人でもない。敵に正体がばれれば終わりだ。
正当な捕虜として扱われることはない
まるで動物のごとく、いたぶられ、ゴミ屑のように捨てられるのが常だ。
そのうえ、スパイが持っている情報を聞き出そうとありとあらゆる手段で拷問を掛けてくる。
どんなに鍛えた体と、強靭な精神力を持った人間でも、熾烈な拷問を受け続ければ、痛みと恐怖と苦痛から解放されたいと願う。
だから、そういう時が来たら、ためらわずいつでも自分の始末をつけるように青酸カリを常備していた。
だがあの日だけは、それを口に入れる暇がなかった。
それほど、奴等の反撃は俊敏だった。
早い話が、俺達の計画は、敵側に漏れていたのだ。




