ピエロの正体
「順子さん。
弟がこんな状態になったのは君に電話をかけて直ぐだった。
たぶん、こうなることは弟も分かっていたんだろう。
だから、話せるうちに自分の思いを君に伝えたかったのだと思う。
順子さん、
弟に声をかけてやってくれ。
あと数か月の命と医者から宣告されたんだ。
意味不明の支離滅裂な言葉を口ずさんでいるがこれは病気のせいだ。
勘弁してほしい。
何でもいいから弟に語ってくれ。
兄の俺からのお願いだ。
どんなことでもいいから。
弟の名前は博史という」
俺は、順子に懇願した
弟に順子の存在を身近に感じさせたかった。
だから、順子を病室に連れてきたのだ。
そして生の声を聞かせてやりたかった。
順子をここに連れてくることが俺が最後にできる弟への罪滅ぼしだ。
順子はビニールの酸素テントに近づいた。
テント内にある雑多な医療機器。
そこから規則的に、そして無味乾燥な機械音が単調に繰り返し聞こえる。
順子は横たわる男を見た。
男の体はベッドに備わっているベルトで固定されていた。
ベッドにくくりつけられているのだ。
細くやせ細った右腕には点滴のチューブ。
腰の部分からは尿道を確保するカテーテルの管が出ている。
そして頭には脳内の水を抜くチュ-ブが。
時折、発作が始まり体全体が痙攣を起こす。
だから、チューブが外れないように体を動かさないように縛られている。
一体何時間、いや、それとも何日、仰向けのまま横たわっているのか。
苦しくないのだろうか、それとも身動きできないその体勢に慣れたのだろうか。
人形のように微動だにしない体、
ただ眼と唇だけが細かく震えるような動きを繰り返している。
自分はまだ生きているのだと訴えているようだs。
「博史さん。あの時は…ありがとう」
順子は呟いた。
その囁くような順子の声に反応するかのように
横たわった男の小刻みに動いていた瞳が止まった。
顔がゆっくりと順子の方へ向き始めた。
男の瞳は、はっきりと意思を持って順子を見つめたのだった。
無表情の顔が一瞬笑みを作ったように見えた。
奇跡が起きた。
俺は目を見張った、
横たわる弟が反応したのだ。
しかし俺が喜んだのはほんの束の間だった。
博史は、再び自分の世界に入り込んでしまった。
眼は天井の一点を見つめ始める。
腫瘍のせいで、瞳は小刻みに動く。
意味不明の言葉の羅列を再び唱え始めた。
その後、俺と順子は何も語らず博史を見つめていた。
その間、穏やかな時間が流れていった。
言葉は必要なかった。
二十分程度の面会を終え俺と順子は病院から出た。
俺は順子を病院のすぐ隣にある喫茶店に誘った。
そこは心なしか、
老人と、血色の悪い人達ばかりがやたらと目に付いた。
「悪かったね。せっかくの日曜日を潰してしまって」
「いいえ」
「弟が君を見て微笑んだときは、驚いた。
微かだけどね。
博史があんな表情をしたのは久しぶりだよ。
君を連れてきて良かった。
ほんとに感謝している」
順子は首を振った。
「あのとき、私に電話を掛けたのは弟さん、博史さんが掛けたのね」
俺は頷いた。
「まだあの時は、意識はしっかりしていた。あんな風じゃなかった。君に電話を掛けた後さ、容態が急変したのは」
順子の顔は沈んだ。
「前も言ったように
あいつも、自分がこうなることを、覚悟していたんだ。
だから、電話したんだと思うよ。
自分がまともなときに自分の思いを吐露したんだ。
君にぶつけたのさ。
あいつにとって君への思いが生きている証だったんだ。
君にとっては迷惑な話だろうけど」
順子は激しく首を振った。
「とにかく、ありがとう」
そう言って俺は、腕時計を覗いた。
もう昼近くだ。
順子を食事に誘おうか、と思ったが気の利いた場所が思いつかない。
第一、弟に会わせた後
すぐ別れるつもりでいた。
それに、彼女を待っている奴がいる。
そう思ったとき、ふと、あのにやけた顔が目に浮かんだ。
「順子さん。この事は、できたら誰にも言わないでほしい。これは、昔、君を慕った男がいたということで胸に秘めておいてほしいんだ。
とくに、君の彼氏には絶対に言わないでくれ。
弟のためにも」
「あの人とはもう…」
順子は囁くように言った。
が、最後の言葉が聞き取れなかった。
「さあ、もう出よう。」
俺はレシートを取って席を立った。
いつの間にか店内は人で溢れていた。
老人特有のしわがれた声と、咳き込む人達で満席になっていた。
どこか違った意味で活気に満ち溢れているのだった。
レジで自分も払うと順子が言った。
そんなことはできなかった。
こちらから誘ってしかも病人の見舞いまでさせてしまったのに、挙句の果てに割り勘では男の面目丸潰れだ。
ここでも、
半ば強引に俺が払った。
木枯らしが吹く歩道を二人で歩いた。
途中、不覚にも俺の腹の虫が鳴り出した。
しかも、特段にきわめて大きく苦しそうに。
俺は、それをきっかけに断られるのを承知で尋ねた。
「どう、食事でも?」
順子は優しい笑みで頷いてくれた




