↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/24

第6話 銀行の三番窓口

 三番窓口へ向かって歩む足取りは重かった。窓口のカウンターは磨き上げられた厚い木製で、行員と客とを隔てる低いアクリル板が立てられている。その向こう側に、一人の女性行員が静かに立っていた。

 濃紺の制服の襟元から、白いブラウスの襟が几帳面に覗いている。髪を後ろでひとつにまとめ、無駄のない動作で前の客の書類を整理していた彼女が、泰司の接近に気づいて顔を上げた。

 泰司は視線を落としたまま、ポケットから通帳と委任状を出し、木製のトレーの上に置いた。

「あの、実家の店舗の……口座の手続きと、名義の変更で来ました」

 声がかすれていた。人とまともに話すのが数日ぶりだったせいかもしれない。泰司は自分の手元だけを見つめていた。爪の隙間には、もう東京でのインクは残っていないはずなのに、今でも自分が泥汚れに塗れているような気がして、手を丸めるように隠した。

 沈黙が数秒、流れた。

 アクリル板の向こうで、書類を受け取る紙の摩擦音が聞こえないことを不審に思い、泰司が恐る恐る視線を上げかけた、その時だった。

「あ……」

 小さく、柔らかい吐息のような声が漏れた。

 泰司が目を上げると、窓口の女性行員が、少しだけ目を細めて泰司の顔を見つめていた。

 整った眉と、涼やかな目元。過剰なメイクや装飾を削ぎ落としたその顔立ちには、どこか聞き覚えのある懐かしさがあった。

 長谷川由紀子だった。

 実家同士が同じ地域にあり、同じ商店街の振興会や祭りの話題の中で、「長谷川さんちの由紀子さん」として名前だけは何度も耳にしていた。泰司より二つほど年下で、地元の高校を出てからこの銀行に就職したと聞いていた。幼い頃、商店街の夏の打ち水の中で、小さなバケツを持った彼女の姿を見かけた記憶が、薄墨の絵のように脳裏に浮かび上がった。

 泰司は息を詰めた。

(自分が東京で挫折して戻ってきたことを、この人も知っているのだろうか)

 身構えた。近所の人々が見せたような、哀れみや好奇の混ざった視線が注がれるのだと覚悟し、奥歯を強く噛み締め、背筋を固くした。拒絶の膜を自分の周りに張るように、身を縮こまらせた。

 しかし、由紀子の瞳に浮かんでいたのは、下劣な好奇心でも、薄っぺらな同情でもなかった。

 彼女は、静かに手元を整えると、アクリル板の隙間から泰司の表情をそっと覗き込むようにして、小さな微笑みを浮かべた。

「あ、……杉本さんのところの、泰司さん……ですよね?」

 声のトーンが、銀行員としての機械的な接客用の声から、ごく自然な、この街の風の匂いを含んだものへと優しく切り替わった。

「ご無沙汰しております。」

 その言葉は、あまりにも静かで、拍子抜けするほど穏やかだった。

『なぜ帰ってきたのか』とも『東京で何があったのか』とも尋ねなかった。

 東京の街では、会社を去るときも、上司は「逃げるのか」と罵り、同僚たちは自分たちの保身のために目を逸らした。走ることをやめた人間、青信号に従わなくなった人間は、ただ脱落者として闇の中に消えていくだけだった。

 だが、目の前にいる由紀子は、泰司が立ち止まり、傷つき、逃げ帰ってきたその事実を蔑むこともなく、そのまま受け止めていた。

「……あ」

 泰司の喉の奥から、乾いた音が漏れた。

 言葉を返そうとしたが、胸の奥が熱く絞り出されるように詰まってしまい、声にならなかった。泰司はただ、何度も小さく頷くことしかできなかった。

 由紀子は泰司の動揺を察したのか、深く追求することもなく、手元の通帳と委任状へすっと視線を落とした。その手つきは驚くほど丁寧で、古びて端の丸まった実家の通帳を、まるで貴重な骨董品でも扱うかのように両手で優しく包み込んでいた。

「お母様、お一人でお店を切り盛りされていて、大変でしたでしょう。少しお時間がかかりますので、お掛けになってお待ちください」

 彼女の指先が、書類の余白をペンで確かめていく。

 その指先には、派手なマニキュアも装飾もなく、ただ清潔に切り揃えられた爪だけがあった。速さと効率だけを求めてペンを走らせていた東京のデザイナーたちの指先とは違う、正確で、それでいてどこか温かみのある動作だった。

「はい……よろしくお願いします」

 泰司はようやくそれだけの言葉を吐き出し、深く頭を下げた。

 ベンチに戻り、再び腰を下ろした泰司の膝の上で、握りしめていた手がゆっくりと解けていった。

 手のひらに残っていた汗が、エアコンの風に吹かれて冷たく乾いていく。

 胸の奥を重く塞いでいた冷たい塊が、少しだけ角を丸くしたような気がした。

 窓口の向こうでは、由紀子が静かに書類と向き合っている。彼女の横顔は淡々としていて、決して泰司の方を盗み見るような真似はしなかった。相手の領域に踏み込まず、かといって放り出しもせず、ただ必要な手続きを正しく進めている。

 その絶妙な「距離感」が、傷ついた泰司の皮膚には、どんな気休めの言葉よりも心地よかった。

 窓の外では、初夏の強い日光が商店街の通りを照らしていた。

 大理石の床に落ちる光と影の境界線を眺めながら、泰司は生まれて初めて、この街へ戻ってきたことが間違いではなかったのかもしれないと、静かに思い始めていた。

 *

 初夏の湿った風が通りを吹き抜けていく頃から、泰司は月に二度ほど、実家の雑用で地元の銀行へ足を運ぶようになった。

 店舗の小口現金の出し入れ、傷んだ日用品の仕入れに使う古い手形の落ち込み、母の手書きの伝票。東京にいた頃には思いもしなかった、数千円、数万円単位のささやかな数字を扱う作業だった。

 三番窓口の木製カウンターの向こうには、いつも長谷川由紀子がいた。

 二人の間に交わされる言葉は、拍子抜けするほどわずかだった。行員としての儀礼的な挨拶のあとに、せいぜい二言三言、天気の景色や季節の移ろいがぽつりぽつりと添えられるだけだった。

「今日は、午後は雨になりそうですね」

 手続きのハンコを捺しながら、由紀子がふとアクリル板の向こうの窓に視線を遊ばせる。

「ええ。店の客足が途絶える日になりそうです」

 泰司が答えると、由紀子の目元が柔らかく緩んだ。

「でも、雨の日の商店街は好きですよ。濡れたアスファルトに街灯の光が映って、少しだけ静かになりますから」

「そうですね。濡れた木枠の看板を拭くのは、嫌いじゃありません」

 会話はそれだけで終わる。後ろで待つ客に配慮するように、あるいは互いの間の透明な境界線を荒らさないように、それ以上の追及も無用な立ち入りもしなかった。

 二人は、恋人同士でも、特別な友人でもなかった。ただ同じ地域で育ち、同じ街の風を吸い、たまたま窓口と客という形で向かい合っている「顔見知り」に過ぎなかった。

 しかし、その「ただの顔見知り」という距離感が、東京で人間不信の塊となっていた泰司には、何よりの救いだった。

 泰司は、自分の過去を語ろうとはしなかった。大手不動産会社でどんな嘘の透視図(パース)を描いていたか、どれほど過酷な出世レースの中で他人を踏みつけ、自分自身も摩耗していったか。そんな泥臭い傷口を晒して同情を引くことは、泰司の自尊心が許さなかったし、何よりこの静かな女性の領分を、自分の暗い過去で汚したくなかった。

 だが、語らなくとも、泰司の佇まいそのものが多くを物語っていた。

 背筋を誇張して張ることもなく、かといって卑屈に丸めることもない。渡されたお釣りや通帳を両手で受け取り、指先で確かめるように丁寧に重ねる仕草。言葉を選ぶときに一瞬だけ置かれる間隔。そこには、他者を叩き落して上へ登ろうとする人間の持つ刺々しさの無い澄んだ静けさがあった。

 銀行は効率と数字、そして泥臭い人間関係が渦巻く世界だった。 支店長や営業の行員たちは、地元の地主や商店主のもとへ足繁く通っては、定期預金の獲得や融資のノルマに追われ、体育会さながらの気合いで数字を競い合っていた。店内にはどこか加熱した熱気が漂っていた。 一方で窓口の奥では、行員たちがそろばんと電卓を弾く正確さと速さを競い、午後三時にシャッターが下りると、伝票の一円の不一致も許されないピリピリとした緊迫感が支店全体を包み込んだ。一般職として働く由紀子もまた、その「正しさ」と「速度」の圧力に日々晒されていた。過ちのない計算、乱れのないお辞儀、笑顔の奥に隠した疲労。社会という巨大な歯車の一部として正しく機能することを求められる時間の中で、彼女の心も知らず知らずのうちに乾いていた。

 だからこそ、由紀子にとって、窓口に現れる泰司の存在は異質であり、同時に確かな救いとなっていた。

 世間の出世競争や評価の軸から完全に降り、実家の古びた商店の軒先で、傷ついた木枠を静かに拭いて暮らす男。彼の言葉には、自分を大きく見せようとする意図も、相手から何かを引き出そうとする下心もなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。