第7話 手描きの感謝カード
六月の半ば、夕刻の商店街を突然の激しい夕立が襲った。黄ばんだアーケードの波板に雨粒が打ちつける叩きつけるような音が響き、アスファルトの表面から立ち上る土と湿気の匂いが、夕暮れの空気を重く満たしていた。
泰司は、アーケードが途切れる角にある古い文房具店の軒下で、雨宿りを兼ねて立ち尽くしていた。文房具店から頼まれ、古びた木製の立て看板のぐらつきを直すために、持参した小さなドライバーでネジを締め直していたところだった。
「あら……杉本さん」
不意に横から、少し濡れた声が届いた。振り返ると、折りたたみ傘をすぼめた由紀子が、濡れた軒下に滑り込んできたところだった。濃紺の制服の上に薄いカーディガンを羽織り、小さな鞄を胸元で抱え込んでいる。銀行の業務を終えたばかりなのだろう、その肩には微かに疲労の影が落ちていた。
「あ……長谷川さん。すごい雨になりましたね」 「ええ。バスを待とうかと思ったのですけれど、ついでだから歩いてしまおうと思って」
由紀子は少し困ったように微笑み、自分の肩についた細かな雨滴を指先でそっと払った。二人の間に、数歩分の空間が開いていた。アーケードから漏れる雨垂れが「ぽつん、ぽつん」と音を立て、二人の沈黙をそっと埋めていく。
「それ……直していらしたんですか?」
由紀子の視線が、泰司の手元にある古びた立て看板に向けられた。
「ええ。角の金具が緩んでいて、風が吹くとがたついていたので。少し締め直して、傷のついた木枠に油を塗っていたところです」
「丁寧なんですね」
由紀子はそう言うと、静かに泰司の横顔を見つめた。銀行の窓口にやってくる泰司は、いつも視線を落とし、周囲を憚るように身を縮こまらせている。だが、こうして木枠に向き合っている彼の指先には、迷いがなかった。擦り減った木目を愛おしむように撫で、傷を隠すのではなく、傷の角を優しくなだめるようにヤスリを滑らせる丁寧な手つき。
銀行という場所で、数字の合致と処理速度を求められ、連日ピリピリとした空気に晒されている由紀子にとって、その泰司の手仕事の時間は、まるで別の世界から流れてきた豊かな静寂のように見えた。
「あ、晴れてきましたね」
由紀子が傘を持ち直し、柔らかく微笑んだ。
「お気を付けて。道が滑りやすくなっていますから」
「ありがとうございます。」
由紀子は小さく頭を下げると、濡れたアスファルトを踏みしめて歩き出した。
遠ざかっていく彼女の背中を見送りながら、泰司の胸の奥には、雨上がりの街を包む澄んだ空気と同じ、あたたかく静かな光が満ちていた。
*
「この人と話していると、自分の心が落ちつくな……」
ある秋の初め、夕刻の西日が銀行の重厚な大理石の床を赤銅色に染める中で、由紀子はふと、胸の奥でそう気づいた。
泰司が語る言葉は、どれも小さく、素朴だった。
「商店街の裏手に、古い柿の木があるのを知っていますか」
「あの、八百屋さんの裏の……」
「ええ。今日、通りかかったら、柿の実が少しずつ熟し始めていました。鳥に突かれた跡があって、なんだか秋が来始めたんだなと」
「そうですね。朝晩は急に冷え込むようになりましたから」
そんな会話を交わすだけで、由紀子の胸に溜まっていた殺伐とした数字の垢が、さらさらと音を立てて洗い流されていくようだった。評価や実績で人間を測らない泰司の静かな眼差しに触れるたび、自分もまた「ただの長谷川由紀子」という一人の人間として、そこに立っていることを許されているような安心感を覚えたのだった。
泰司もまた、由紀子がくれる安らぎの深さを噛み締めていた。
彼女は、泰司が立ち止まったことを責めなかった。「若いのに、もっと外へ出て働かないのか」という世間の無遠慮な好奇の目とは違った眼差しだった。
言葉にならない感謝が、泰司の胸の底に少しずつ、少しずつ溜まっていった。
(この人に、何かを返したい)
だが、お金や豪華な贈り物、あるいは大層な告白の言葉などは、二人を守っているこの完璧で静かな距離感を壊してしまう気がした。必要なのは、相手の負担にならず、けれど自分がいかに彼女の存在に救われているかをそっと伝えられるような、言葉以前の「かたち」だった。
*
十月の終わり、日暮れがすっかり早くなった夜、泰司は実家の裏手にある離れの四畳半に籠もっていた。
部屋には、古くなった紙の匂いと、水彩絵の具の仄かな甘い匂いが満ちていた。
畳の上に置かれた小さな製図机の上には、厚手の洋紙が数枚散らばっていた。実家の店で売れ残っていた、少し黄ばんだスケッチブックの端切れだった。
泰司は細い筆を取り、アクリル絵の具の管から、ほんの少しだけ塗料をパレットに絞り出した。
東京にいた頃、泰司が使っていたのは、人間を誘惑し、購買意欲を煽るための鮮烈で刺激的な原色だった。だが、今、手元で混ぜ合わせているのは、落ち着いた渋柿のような朱色と、秋の深まりを感じさせる深緑、そして優しいクリーム色だった。
筆先を水につけ、紙の表面にすっと滑らせる。
描いたのは、豪華な建物でも、満開の街路樹でもなかった。
三番窓口の小さな窓から見えていた、銀行の裏手にある古いレンガ壁と、そこに差し込む斜めの秋の日差し。そして、その日差しの中で小さく揺れる、名前も知らない一筋の野草だった。
派手な描写は何ひとつなかった。絵の具の濃淡だけで表現されたその小さな絵は、派手さとは程遠かったが、紙の余白には泰司が何時間もかけて静かに積み重ねた、丁寧な時間の気配が宿っていた。
絵の横に、泰司は黒いインクで、小さく文字を添えた。
『いつも、静かな時間をありがとうございます。季節の移ろいを、この窓から教えてもらっています』
それだけの、短く素朴なカードだった。
自分の名前を小さく署名し、絵の具が完全に乾くのを待った。インクが紙の繊維に染み込み、表面が少しだけマットな質感に変わっていくのを、泰司は静かに見守っていた。
これは、自分の復職の宣言でもなければ、強引なアプローチでもない。密やかな感謝の記号だった。
翌週の雨の午後、泰司は実家の定期預金の記帳のために、三番窓口を訪れた。
店内は雨のせいで客も疎らで、薄暗い天井に静かな雨音が響いていた。
手続きが終わり、由紀子が「お預かりしていた通帳です」と、木製のトレーの上に通帳を置いた。
泰司はポケットの中で温めていた、小さな半紙に包んだ手描きカードを取り出した。指先が微かに震えていたが、泰司は落ち着いて、その小さな包みをトレーの端にそっと滑らせた。
「あの……これ」
由紀子が少しだけ目を見開いた。
「これ、実家の店にあった画用紙の切れ端に、描いたものです。大したものではありませんが……いつも、丁寧に手続きをしてくださるので」
泰司はそれだけ言うと、深く頭を下げた。
由紀子は息を呑み、トレーの上の小さな包みを見つめた。薄い半紙越しに、暖色系の柔らかい絵の具の色が透けて見えていた。
彼女はすぐには開けなかった。両手でそれを優しく掬い上げるように持ち上げると、指先で紙の厚みと、そこに込められた凹凸を確かめるように、愛おしそうに包みを握りしめた。
「……ありがとうございます、泰司さん」
由紀子の声は、雨音に溶けてしまいそうなほど静かだった。
だが、その瞳の奥には、泰司がこれまでの人生で一度も見たことがないような、深く、温かい光が宿っていた。アクリル板を挟んだわずか数十センチの空間に、言葉を超えたお互いの想いが、静かに、そして確実に行き来していた。
泰司は何も言わず、もう一度だけ小さく頷くと、濡れた長靴の底を鳴らさないように注意しながら、銀行の重い扉に向かって歩き出した。
外に出ると、冷たい雨が商店街のアーケードを叩いていた。
だが、泰司の胸の奥には、あの小さな手描きカードに塗ったアクリル絵の具のような、ぬくもりのある朱色が、いつまでも静かに灯り続けていた。




