第5話 帰郷と看板磨き
昭和五十九年、初夏の匂いが混じり始める五月の風は、東京のそれとはまるで違っていた。
アスファルトの熱に油と排気ガスが混ざりついた都心の空気ではなく、この街の風には、海から吹き寄せる塩気と、山裾を掠めてくる湿った土の匂いが仄かに混ざり込んでいた。
泰司は、実家の個人商店の裏手にある離れの四畳半で、ぼんやりと天井の木目を数えていた。築四十年を超える古い木造家屋の天井板には、過去の雨漏りが作った歪なシミがあり、それが小さな島の形に見えた。
東京の大手不動産会社を逃げるように去ってから、半年が過ぎていた。
会社に辞表を送りつけ、荷物を段ボールふたつに詰めてこの街へ戻ってきたとき、泰司の精神は完全に磨耗しきっていた。
製図板に向かい、ロットリングペンで嘘のパースを描き続けた日々。今でも時折、思い出したように微かに震えた。
「泰司、起きてるなら表の看板、少し拭いておいておくれ」
母の力ない声が、格子戸越しに響いた。
実家は、地方都市の古くからある商店街の角で、小さな日用品店を営んでいた。洗剤や乾電池、手帳や文房具といった雑多な品々が並ぶ店先は、近所の大型スーパーの進出によってゆっくりと息の根を止められかけており、客足は途絶えがちだった。
泰司は返事の代わりに重い身体を起こし、使い古した雑巾を手にとった。
店先に出ると、薄暗いアーケードの天井から斜めに陽光が差し込んでいた。昭和の高度経済成長期に建てられたアーケードの波板プラスチックは黄ばみ、ところどころひびが入っている。そこから漏れ出る光の筋の中で、小さな埃の粒が静かに舞っていた。
店頭に置かれた木枠のアクリル看板を拭く。角の塗料が剥げ、日光で黄色く褪色した看板の表面に雑巾を滑らせると、少しだけ綺麗になった。
東京にいた頃、自分が手がけていたのは数十億円規模の都市開発の広告だった。高層マンションの全貌を、誰もが憧れるような洗練されたグラフィックに仕立て上げる仕事。それに比べれば、目の前にあるこの錆びた看板の手入れなど、何の価値もない無駄な作業に見えるかもしれない。
だが、泰司には、この色褪せた木枠を拭くことしかできなかった。
街を歩けば、近所のお節介な老人が「泰司さん、東京のデザイン会社は辞めちゃったんだって?」「これからどうするの」と無遠慮に視線を投げかけてくる。彼らにとって、二十代半ばで東京から戻り、実家の手伝いという名目でぶらぶらしている泰司は、ただの「挫折した青年」だった。
何かを説明する気力もなかった。自分は誰かを幸せにするためのデザインではなく、人を騙し、居場所を奪うための絵を描いていたのだと告白したところで、この平和な地方都市の人々には理解できないだろう。
人間が怖かった。言葉を交わし、笑顔を向け合うことの裏側にある、泥臭い欲望や身勝手な損得勘定が透けて見えるようで、泰司は誰とも目を合わせないようにして生きていた。
午前十時を回り、泰司は母から手渡された一冊の古びた預金通帳と委任状を上着のポケットに入れた。
店舗の運営に関わる口座の名義変更と、傷んだ店舗の屋根を修理するための小さな融資相談の手続きをするためだった。実家の店は父が倒れて以来、細かな事務処理が滞っており、母一人では銀行の手続きすら覚束なくなっていた。
「杉本さんちの泰司さん」として、顔を知られている街を歩くのは足が重かった。
商店街のアーケードを抜け、通りに出ると、舗装された道路の向こうに重厚な石造りの建物が見えてきた。地元の有力地方銀行の支店だ。昭和初期に建てられたというその支店は、重々しい真鍮のドアノブと、黒ずんだ大理石の階段を備え、この街の経済の中心として鎮座していた。
中に入ると、冷房の乾いた空気が肌を刺した。
外の蒸し暑さとは切り離された静寂がそこにはあった。行員たちの規則的な打鍵音、行員同士が交わす低い声、そして札束を数える「パチパチパチ」という機械的な音が、高い天井に反響して吸い込まれていく。
泰司は入口の機械から番号札を一枚引き抜き、プラスチックの硬い椅子に腰を下ろした。
周囲を見渡すと、農協の手帳を抱えた農家の老人や、商店街の店主らしきエプロン姿の女性が、静かに順番を待っていた。誰もが自分の番号が呼ばれるのをただ待っている。東京時代に経験したような、他人を押しのけ、成果を競い合うような殺伐とした空気はここにはない。
だが、泰司の胸はすこしも安らがなかった。
窓口の奥で働く銀行員たちのパリッとした制服姿を見るだけで、自分がどれほど社会の軌道から外れてしまったかを突きつけられるようだった。彼らは規則に従い、正当な数字を扱い、社会の仕組みの中で正しく生きている。それに比べて自分は、嘘の絵を描いて嫌気がさして逃げ出し、いまや実家の小さな口座の手続きすらおどおどしながらこなそうとしている。
「三十五番の番号札をお持ちのお客様、三番窓口へどうぞ」
頭上からの平坦なアナウンスに弾かれたように、泰司は立ち上がった。手の中の番号札を見る。『35』の数字が滲んで見えた。




