第4話 赤いランプの教え
地下鉄の最寄り駅の階段を一段ずつ登るたび、重く湿った空気が首筋に纏いついてきた。
地上に出ると、午前6時前の商店街は静まり返っていた。街灯の黄色い光が、誰もいないアスファルトの上で滲んでいる。シャッターの降りた果物屋の軒先からは、腐りかけた甘い桃の匂いと、濡れた段ボールの湿気た匂いが漂っていた。
泰司は擦り減った革靴の底を音もなく引きずりながら歩いた。
脳裏には、まだ製図室の蛍光灯の白い光が焼き付いている。三角定規が紙を擦るシャッという音、ロットリングペンのペン先がインクを吐き出す微細な振動、そして透視図の上に塗り重ねた鮮やかなアクリル絵の具の色彩。
『いいか杉本、都市ってのは止まらないんだ。青信号のあいだに次のビルのイメージを描き上げなきゃ、後ろから来る奴らに踏みつぶされるぞ』
入社初日、課長が言った言葉が、頭痛の波とともに何度も何度も鼓膜を揺さぶる。
東京という街は、走ることをやめない人間だけで構成されているようだった。緑色の歩行者信号が点滅すれば、人々は背負った鞄を揺らしながら横断歩道へ駆け出す。締め切りは常に昨日であり、開発計画は常に前倒しされた。より高く、より新しく、より豪華に。パースの中に描かれる街路樹はどこまでも青々と茂り、住人たちは永遠の満開の笑顔を浮かべていなければならなかった。
その「前進」の陰で、立ち退きを迫られた路地の古い木造家屋が重機で砕かれ、そこで暮らしていた人間の思い出ごと黒いゴミ袋に詰め込まれて消えていくのを、泰司は知っていた。その土塵を、自分は美しいパステルカラーで塗り潰してきたのだ。
止まってはならない。追いつかなければならない。乗り遅れてはならない。
足枷を付けられたかのように重い足を交互に前へ踏み出しながら、泰司は自問していた。自分は一体、どこへ向かって走っているのだろうか。
住宅街へと続く緩やかな坂道の途中で、道幅が急に狭くなった。
角を曲がった瞬間、暗闇の奥で「カチッ、カチッ」という規則正しい小さなリレー音が響いているのに気づいた。
道路の片側が黒い鉄パイプのフェンスで囲われ、削り取られたアスファルトの断面が剥き出しになっていた。土の湿った匂いと、揮発油のツンとした匂いが夜の空気に混ざり合っている。水道管の交換工事か何かだろうか。掘り返された深い溝の手前に、黄色と黒の斑模様をした一本のカラーコーンが立っていた。
その頂点に設置された、電池式の赤いランプが、闇の中で静かに明滅していた。
パッ、パッ、パッ——。
規則的な周期で放たれる赤一色の光が、夜の湿気を含んだ空気を小さく穿ち、足元のアスファルトを朱色に染め上げた。
泰司は、吸い寄せられるようにその赤い灯りの手前で足を止めた。
ランプは、何の主張もしていなかった。大音量の警告音を鳴らすわけでもなく、誰かを威圧するように強く光るわけでもない。ただ、数秒に一度、自分の存在を仄かに知らせるように発光し、そして闇へと戻る。
その赤い光が足元を照らすたび、カラーコーンに貼られた白い反射テープの文字が浮き上がった。
『この先 足元注意』
『立ち止まれ』
泰司の胸の奥で、何かが静かに途切れる音がした。
会社でも、大学でも、そしてこの東京という巨大なシステムの中でも、自分に突きつけられてきたのは常に「青信号」だけだった。「進め」「遅れるな」「もっと先へ行け」。青信号は親切な顔をしながら、人間から立ち止まる権利を奪い、休むことを敗北だと脅迫してくる。点滅する青信号を見れば、誰もが息を乱して走り出し、足元の段差や散らばる傷に気づく余裕すら失ってしまう。
だが、目の前にあるこの赤い灯りは違っていた。
「ここから先は危険だ。立ち止まれ」
そんなふうに、暗闇の中で誰かを引き留めているように見えた。
「進むことだけが、正解じゃない……」
泰司は赤い灯りを見つめた。
それは拒絶ではなかった。
これ以上進めば傷つくと、名も知らぬ誰かに静かに教えてくれている。
泰司は、自分の足元を見た。
工事現場の作業員が、夕暮れ時にこのランプのスイッチを入れたのだろう。見知らぬ誰かが、深夜にここを通るであろう顔も名前も知らない誰かの安全を思い、暗闇の中に灯しておいてくれた赤。
それは、自分が描いていた「人を騙すための豪華な絵」とは対極にある、嘘のない誠実なデザインだった。
泰司は自分の手を見つめた。
街灯の光と、赤い点滅の光が交互に落ちる右手。人差し指の腹と爪の隙間には、洗っても落ちなかった青いインクが残っている。この手で、どれだけの「嘘の青信号」を描いてきただろう。危険な穴が開いている土地の上に、何事もないかのような花壇を描き、崩れかけた壁を美しい大理石のテクスチャで覆い隠してきた。そうやって誰かを前進させ、自分自身も止まることを許さず、心の地盤が崩落する寸前まで自分を追い詰めてしまった。
もう、走らなくていいのだ。
胸の奥を塞いでいた重く冷たい塊が、ゆっくりと泥のように溶け出していくのを泰司は感じた。
この会社を去ろう。
逃げるのではない。敗北するのでもない。自分の中に灯った「赤い信号」に、正しく従うのだ。壊れてしまう前に、足を止めること。それは逃走ではなく、自分という人間をこれ以上傷つけないための、最初で最後の勇敢な選択なのだと知った。
辞表をどこに提出し、上司がどんな顔で怒鳴りつけ、同僚たちがどんな冷ややかな視線を向けてくるか——そんなことは、もうどうでもよかった。彼らが信じる青信号のレースに、自分はもう参加しない。
カチッ、カチッ、と点滅を刻む音が響く。
パッ、パッ、と赤が点灯する。
泰司はその場に立ったまま、深く、深く息を吸い込んだ。土の匂いと、明け方の冷気が肺のすみずみまで行き渡り、麻痺していた感覚が少しずつ身体に戻ってくるのが分かった。
ふと空を見上げると、ビルとビルの間の狭い隙間が、かすかな茜色へと移り変わり始めていた。朝が来る。東京の過酷な一日がまた始まろうとしている。
泰司はポケットから両手を出し、小さく拳を握りしめた。
一度だけ、工事現場の赤い灯りに向かって静かに深く頭を下げると、泰司は走るためではなく、ただ自分の足で確実に踏みしめるために、自宅のアパートへと歩き出した。




