第3話 地下鉄の沈黙
泰司は、地下鉄へと続く階段を下りながら、何度も右手の親指で人差し指の腹を擦っていた。紙をこする摩擦熱と、乾ききった皮膚の痛みが、麻痺しかけた神経に細く刺さる。
午前5時を過ぎた都心の空気は、アスファルトのかすかな照り返しと排気ガスの匂いを濁らせて残していた。オフィスビルの五階にある製図室には、なおも数人の先輩デザイナーたちが蛍光灯の鋭い光の下に蹲り、三角定規とロットリングペンを走らせていた。
デスクの端には、泰司が先ほど仕上げたばかりのB全サイズの透視図が乾かされていた。緑豊かな街路樹、木漏れ日を浴びて微笑む若い親子、そしてその背景に聳え立つ全邸南向きの最新型高級マンション。
『綺麗に描けたな、杉本。これなら客もコロッと騙される』 上司の軽い言葉が、耳の奥で金属音のように残り続けている。
階段を下りきると、地下ホームには重く湿った鉄の匂いが満ちていた。蛍光灯の白光が、煤けた線路とコンクリートの床を硬く照らしている。ベンチに腰を下ろす気力もなく、泰司はステンレスの柱に背を預けた。服の生地越しに伝わる金属の冷たさが、熱を持った背骨を少しずつ冷やしていく。
暗闇の奥から、轟音とともに風が押し寄せてきた。二条の光の束が地下道を穿ち、滑り込んできた車両のドアが、プシューという短いエアの音とともに開いた。
車内は、拍子抜けするほど空いていた。
緑色のモケットが張られたロングシートに腰を下ろすと、深く落ち込んだ身体を緩やかな温もりが包み込んだ。泰司は大きくひとつ息を吐き、膝の上に置いた鞄を抱え直した。鞄の中には、描き直しの指示が出た二枚目のパースの下書きが入っている。
泰司から二つほど席を空けた隣には、くたびれたスーツを着た中年男性が座っていた。ネクタイの結び目を少し緩め、薄くなった頭頂部を壁に預けて目を閉じている。その手首には安価な革ベルトの腕時計が巻き付けられ、男の膝には、皮の剥げかけたアタッシュケースが乗っていた。
斜め向かいの座席には、プリーツスカートを履いた若い女性がひとり、ぼんやりとドアのガラス窓に映る自分の顔を見つめている。彼女の足元には買い出しの袋らしき紙袋が置かれ、そこからセロハンに包まれた一輪のガーベラが覗いていた。
誰も、誰とも目を合わせない。
男性はただ疲労の底に沈み、女性はただガラスの歪みに視線を遊ばせ、泰司はただつま先の擦り減った革靴を見つめていた。
車内に流れるのは、ガタゴトと規則正しく響く車輪と軌条の摩擦音だけだ。乗客たちの呼吸音すら、走行音の波間に溶けて消えていく。
ここでは、誰ひとりとして他人の領域に足を踏み入れようとしなかった。互いの視線が交錯しそうになると、まるで磁石の同極同士が弾き合うように、ごく自然にそっと視線が外される。
泰司は、その沈黙の作法に救われる心地がした。
オフィスでは、常に言葉と視線が錯綜していた。「もっと豪華に見せろ」「ここに住む人間の幸福感を描き込め」「この坪単価ならターゲットは富裕層だ」。言葉は刃物のように空気を引き裂き、視線は成果物としての図面を品定めするように刺さった。嘘のイメージを捏造するために、際限なく他人の欲望や痛みに踏み込み、解体し、色を塗らなければならなかった。
だが、この揺れる箱の中には、言葉も視線もない。
隣に座る男が、ふっと小さく身じろぎをし、浅い溜息を漏らした。タバコの残り香と微かな缶コーヒーの匂いが泰司の鼻腔をくすぐる。
泰司はその匂いに顔を背けることもなく、ただ同じ空気を吸った。男がどんな会社に勤め、どんな上司に叱責され、どんな家庭へ帰ろうとしているのか、泰司は知る由もない。そして男もまた、泰司の爪の間に青いインクが詰まっている理由や、彼が誰かの居場所を奪うための美しい嘘を描いてきたことなど、知るはずもないのだ。
知る必要がない。尋ねる必要もない。ただ、同じ夜の底で限界まで摩耗した二つの身体が、数十分間だけ同じシートの上に並んでいる。
電車が大きなカーブに差し掛かり、車体が緩やかに傾いた。遠心力に従って、泰司の肩がほんの少しだけ隣の男の肩に触れそうになる。泰司が無意識に身体を固くしようとした瞬間、男もまた自然な動作で、わずかに身体の重心を反対側へと戻した。
他者のプライバシーを暴く下品さも、過剰な親密さを強制する息苦しさもない。互いの間に存在する透明な境界線を、誰もが暗黙の了解のもとで慈しむように守っている。
『次は、新宿、新宿——』
車内アナウンスの平坦な声が、低いノイズ混じりに響いた。
ドアが開き、斜め向かいの女性が紙袋を抱えて静かに立ち上がった。彼女が降りたあとの座席には、微かな温もりが一瞬だけ残った。それもまた、ドアが閉まる音とともに地下鉄の冷たい風にかき消されていく。
泰司は深く背もたれに身体を預けた。
電車の揺れに合わせて、頭が微かに左右に揺れる。瞼の裏で、昼間塗りつぶした鮮やかなパステルカラーが、地下鉄の暗闇の中に少しずつ溶けて消えていくようだった。
ここには、何もない。評価も、競合も、奪い合いも、嘘もない。ただ、言葉を持たない安全な距離だけが、傷ついた泰司の皮膚を優しく包み込んでいた。




