第2話 嘘の未来を描く筆
泰司のデスクの端には、営業部から回されてきた一枚の白黒写真が置かれていた。今回の開発予定地——城南地区の、現在の姿を写した資料写真だった。
そこに写っていたのは、泰司が今まさに透き通るような空色で塗り潰そうとしている「現場」の、生の爪痕だった。
写真は、暗くじめついた路地裏をとらえていた。
ひび割れたアスファルトの隙間から雑草が伸び、築数十年は経っているであろう木造のアパートからは生活感が漂っている。軒下には、小さな素焼きの鉢植えがいくつも並べられていた。ゼラニウムの花だろうか。白黒の影の中でも、誰かが毎日丁寧に水をやり、慈しんできた生活の匂いが確かに残っていた。
アパートのトタン壁には、赤ペンキで殴り書きされた文字と、それを隠すように乱雑に貼り付けられた「立ち退き予告」の紙が重なり合っていた。雨に濡れて端が剥がれかかったその貼り紙の横に、小さな子供用自転車が倒れている。サドルは破れ、スポンジが飛び出していた。
さらに別の写真には、住み慣れた土地を手放すことを拒み、玄関先で営業マンと言い争う老人の姿が写り込んでいた。老人の顔は深く刻まれた皺で歪み、背中は丸く縮こまっている。そのすぐ後ろで、黒いスーツを着た若い営業マンが、冷ややかな笑みを浮かべながらポケットに手を突っ込んで立っていた。
泰司は、その写真を静かに裏返した。
しかし、一度網膜に焼き付いた泥臭い現実の像は、消えることがなかった。
泰司はトレーシングペーパーを白黒写真の上に重ね、マスキングテープで固定した。そして、定規を当て、鉛筆で正確な透視図法のグリッド(方眼)を引いていく。
歪んだ路地は、幅十五メートルの滑らかな舗装道路へと置き換えられる。 傾いた木造アパートと軒下の鉢植えは消し去られ、そこには全面ガラス張りの高級ショッピングモールが聳え立つ。 破れた自転車が倒れていた場所には、噴水から跳ね上がる白い水飛沫と、パステルカラーの服を着た仲睦まじい親子連れのシルエットが配置される。
泰司がペンを走らせるたび、アクリル絵の具の鮮やかな色彩が、写真の中の老人や鉢植えやトタン壁を覆い隠していった。
「自分は、一体何をしているんだろうか」
胸の奥で、鋭い針で刺されたような痛みが走った。
泰司は、手元のパースペクティブを見つめた。そこには、完璧な遠近法に基づいた、眩いばかりの「未来」が広がっている。太陽の光を浴びて輝く最新の建築物、緑豊かな街路樹、豊かな暮らしを満喫する人々の笑顔。
だが、それは夢などではなかった。
それは、土地を追われる人々の悲鳴や、数十年かけて育まれてきた人間の営みを、綺麗に塗り潰して見えなくするための「洗練された塗料」に過ぎないのではないか。強引な地上げの暴力性を、地主たちの涙を、都市開発という名の欲望の歪みを、美しいグラフィックという名の嘘で包み隠しているだけなのではないか。
(自分は街を豊かにしているのか。それとも、誰かの居場所を奪う片棒を担いでいるのか)
問いが、頭の中で激しい濁流となって渦巻いた。
泰司は幼い頃から、物のプロセスや手仕事のぬくもりを愛する性質を持っていた。実家の古い家具の木目を眺めたり、使い込まれた道具の手触りに安心感を覚えたりするような子供だった。デザインという仕事を選んだのも、世界に存在する美しいものや大切なものを、より良い形にして人に届けることができると信じていたからだ。
しかし、今自分が握っているロットリングペンは、何かを創り出すための道具ではなかった。誰かの思い出や生活を削り取り、その上から無機質なプラスチックの仮面を被せるための、冷徹な凶器だった。
「夢を売っているんじゃない。俺は、罪を塗って隠しているんだ」
声に出さず、唇だけを動かして呟いた。その言葉は、冷たい鉛の塊となって泰司の胃の底へ落ちていった。
罪悪感は、毒のようにゆっくりと、だが確実に泰司の心身を侵食していった。
連日の徹夜作業による肉体の疲労以上に、内面で渦巻く葛藤が彼の生命力を削り取っていた。まかないの弁当を食べようとしても、米粒がゴムのように感じられ、喉を通らない。胃の奥から酸っぱい液がせり上がり、胸焼けが収まらなかった。
パースを描くために定規を当てると、手がわずかに震えるようになった。直線を引き損じそうになるたび、冷や汗が背中を伝った。
「杉本、どうした? 顔色が悪いぞ」
明け方近く、隣のデスクで版下をカッターで切っていた先輩社員が、煙草の煙を吐き出しながら声をかけてきた。目の下にどす黒い隈を作った先輩の目は、濁りきっていた。
「……いえ、少し目眩がしただけです」
「そうか。まあ、最初は誰もが通る道だ。この業界、体力が勝負だからな。気合で乗り切れよ。今週のノルマを達成すれば、うちの課は社長賞だからな」
先輩はそう言って笑うと、再びカッターナイフの刃を紙に突き立てた。シュッ、シュッ、という規則的な切断音が室内に響く。その音は、まるで誰かの皮膚を切り刻んでいる音のように泰司の耳に届いた。
この場所にいる人間たちは皆、狂気の中にいた。過労で倒れるギリギリの境界線に立ちながら、金と数字と誇大広告の熱量に酔い痴れていた。街がどう変わるか、そこに住んでいた人々がどうなるかなど、誰一人として考えていなかった。考えているのは、来月のボーナスの額と、ライバル会社より早く土地を買い占めることだけだった。
泰司だけが、その熱気についていけずに立ち尽くしていた。
彼の中に残っていた人間的な倫理観、他者の痛みに寄り添おうとする感性が、この狂乱のシステムに対する強烈なアレルギー反応を起こしていた。
午前五時。東の空がゆっくりと白み始め、ビルとビルの狭間から灰色の光が室内へ差し込んできた。
蛍光灯の光と朝の光が混ざり合い、制作室の中は死体安置所のような不気味な色彩に染まった。デスクの上に散らばったアクリル絵の具のチューブ、使い古された溝引棒、そして完成したばかりの「城南開発プロジェクト」のカラーパース。
泰司は、出来上がったパースを見つめた。
そこには、朝日に輝く豪華な高層マンションが完璧な構図で描かれていた。絵の具はすでに乾き、表面は滑らかで、一切の汚れもない。あの暗い路地裏も、折れた鉢植えも、立ち退きを迫られた老人の姿も、何一つ残っていなかった。
すべては綺麗に装飾され、嘘の夢となってそこに鎮座していた。
泰司は製図板の上に両肘をつき、顔を覆った。
手のひらから、アクリル絵の具と乾いたインクの匂いがした。どれほど石鹸で洗っても落ちない、重たい罪の匂いだった。自分の心が、爪先からゆっくりと壊れていく音が聞こえるようだった。
窓の外では、早朝の工事車両が地鳴りのような重低音を響かせて走り始めていた。東京という巨大な怪物が、今日もまた誰かの居場所を喰らい尽くすために、その目を覚まそうとしていた。




