第1話 深夜の建築パース
午前三時を過ぎた室内には、重たく淀んだ煙草の煙が層をなして漂っていた。
蛍光灯の細いチューブが、電圧のわずかな揺らぎに合わせてジジジと低いハミングを刻んでいる。東京・銀座の裏手に構える大手不動産会社本社ビルの四階。宣伝制作室の空気は、昼間の熱狂がそのまま腐敗したかのような、甘ったるいヤニの匂いと冷え切った缶コーヒーの鉄臭さに満たされていた。
杉本 泰司は、傾斜した製図板の前に体を丸め、右手にはめ込んだロットリングペンの黒い軸を握りしめていた。ペン先はわずか0.18ミリ。呼吸を止め、定規の端に神経を集中させる。紙の表面を滑る硬質な金属針の感触とともに、漆黒のインクが細い毛細管現象を起こして上質紙の目に吸い込まれていく。一筋の歪みも許されない建築パースの透視図法。その一本一本の線が、まだこの世に存在しない高層マンションの幾何学的な影を立ち上げていた。
「おい、杉本! あすの朝イチで営業本部に回す『城南開発プロジェクト』のパース、どこまで進んでる!」
怒号に近い声が、室内を切り割った。デスクの山から顔を上げたのは、制作課長の黒田だった。ワイシャツの袖を捲り上げ、太い腕には金色の腕時計が光っている。首元から覗く肌は赤黒く上気し、鎖骨のあたりに汗の輪が浮いていた。この男もまた、二日前の夜から一度も家に帰っていない。
「あと、遠景の街路樹の点描と、ガラス壁面の反射光を入れれば終わります」
泰司は掠れた声で答え、一瞬だけペン先を止めた。喉の奥が焦げ付いたように乾いている。
「手早くやれよ。明日の役員会議で、専務が地主どもに見せる色校(カラー校正)に間に合わせなきゃならんのだ。あの土地のバカども、坪三百万じゃ首を縦に振らねえって突っぱねてやがる。だがな、この洗練された完成予想図を見せつけりゃ一発よ。『お前たちの古いゴミ溜めみたいな街が、こんな夢のような都市に生まれ変わるんだ』ってな」
黒田は大袈裟に両手を広げ、腹の底から笑った。その笑い声は、デスクに積み上げられた電話帳や、無数の版下、カッターナイフの刃が擦れ合うカチカチという金属音の渦に飲み込まれていった。
昭和五十七年、初夏。二十二歳の杉本泰司が、新卒のグラフィックデザイナーとしてこの会社に足を踏み入れてから、わずか二か月。
世はバブル経済の前夜、日本全体が果てしない右肩上がりの神話を信じ込み、土地という土地が金を生み出す魔法のカードへと化けていく狂乱の時代だった。「企業戦士」と呼ばれる男たちは、栄養ドリンクの空き瓶を足元に転がしながら、電話口で地上げの交渉を叫び、敵を蹴落とすように街を買い叩いていた。徹夜は美徳であり、過労による目眩は勲章だった。
美大を卒業した泰司が夢見ていたのは、人の心を静かに揺さぶるポスターや、本の手触りを慈しむような装丁の仕事だった。しかし、過酷な就職戦線を勝ち抜いて手に入れた「大手不動産会社宣伝部」という肩書が彼に与えた現実は、欲望の暴走を彩るための泥臭い装飾係に過ぎなかった。
泰司に回されてくる仕事の山は、どれもこれも人間の熱狂と欲望が濃縮されたものばかりだった。 「億ション」と呼ばれ始めた豪華マンションの折り込みチラシ、出資者を募るための絢爛豪華なパンフレット、社員たちの士気を鼓舞するための社内報、そして何よりも、強引な地上げによって更地にされようとしている街の「理想の未来」を描き出す建築パース。
裏にテープを貼ってわずかに浮かせた定規へ、烏口を滑らせてアクリル絵の具の鋭い直線を引く。筆の穂先で空の青を、樹木の緑を、陽光を反射するガラスウィンドウを描き出していく。
泰司の指先は繊細だった。美大時代に培ったデッサン力と、線の太さひとつに妥協を許さない手仕事の丁寧さは、制作部の中で注目されていた。黒田や営業の人間たちは、泰司が描き出す鮮やかで狂いのないパースを「客の心を鷲掴みにする武器」と称賛した。
だが、深夜の静寂の中で一人製図板に向かっていると、泰司の指先から体温が少しずつ失われていくような感覚に襲われた。
爪の間にこびりついた青いアクリル絵の具の匂い。エアブラシの細かい粒子が鼻腔の奥に付着し、息を吸うたびに化学塗料の甘く不快な感覚が鼻腔の奥に広がった。眼球の裏側がジリジリと焼け付くように痛み、耳の奥では、絶え間なく街が壊されていく幻聴のような不協和音が鳴り響いていた。




