第25話 同じ土俵
新しく出来たコンビニエンスストアの白い蛍光灯は、夜が深まるほどに鋭さを増し、旧街道沿いの暗がりを無遠慮に押し広げていた。その強烈な光は、皆人の営む小さな店の軒先にも届き、古びた木枠のガラス戸に白々とした影を落としている。
カウンターの奥では、二十八歳になった皆人が、蛍光灯の明かりの下で電卓を叩き続けていた。カチカチと乾いたプラスチックの音が、狭い店内に規則正しく響く。机の上に散らばっているのは、問屋から届いた卸値の一覧表と、大手の特売チラシだった。
「仕入れを倍に増やせば、単価はあと五円下げられる。営業時間を夜の十時まで延ばせば……」
皆人の声は低くかすれていた。丸められた背中、握りしめたシャープペンの芯がポキリと折れる音。焦りと疲労でこめかみの筋肉がぴくぴくと痙攣している。向かいの街道沿いに出来たコンビニの猛威に対し、皆人は価格競争で対抗しようと必死だった。棚の数を増やし、規模を広げ、相手と同じ土俵に上がって戦わなければ淘汰される——その強迫観念が、息子の若い身体を内側から締め上げているのが、泰司には痛いほどよく分かった。
泰司は少し離れた柱の陰から、黙って息子の背中を見つめていた。その姿に、三十年前の自分の影が恐ろしいほどの鮮明さで重なった。
「皆人」
泰司は静かに声をかけ、息子の側へ歩み寄った。木枠の棚に置かれた観葉植物の青々とした葉が、ふたりの間で静かに揺れている。
皆人は折れたシャーペンを握ったまま、顔を上げた。その目は血走り、追い詰められた動物のような怯えと焦燥が混ざり合っていた。
「父さん、やっぱりあの規模と価格には勝てないよ。でも、引いたらこの店は……僕たちの場所はなくなってしまう」
「無理に同じ土俵で戦う必要はないんだよ」
泰司は低く、包み込むような声で言った。言葉の端々に、かつて東京で自分自身を死の淵から連れ戻した記憶の温もりが宿っていた。
「焦って価格を下げて、店を広げて、夜遅くまで身を削る。そうやって相手の真似をして追いかけても、待っているのは擦り減っていく自分だけだ。皆人、前に進むことだけが正解じゃないんだ」
皆人が息をのむ。
「焦って同じ土俵で戦う必要はない。立ち止まることも、自分を守るための選択なんだ」
皆人は、手に持っていた芯の折れたシャーペンを静かに机の上に置いた。
店内を沈黙が満たす。表の街道を、トラックの赤いテールランプが夜の闇を切り裂きながら走り去っていく。
皆人は深く、深く息を吐き出した。強張っていた肩の力がゆっくりと抜け、丸まっていた背中が本来の自然な弧を描く。
「……引く、勇気」
皆人が呟いたその言葉には、もう焦りは含まれていなかった。コンビニの猛攻に対し、無理な規模拡大や価格戦という泥沼に飛び込むのをやめ、一度立ち止まって自分たちの「適量」を見極める——父の放った一言が、息子の心に静かな安全地帯を作り出した瞬間だった。
ガラス戸の向こうで、コンビニの眩しい看板が輝いている。だがもう、その光がこの店の中にいるふたりを脅かすことはなかった。
カウンターの上に広げられた売上帳の、青い罫線が引かれた紙面を、蛍光灯の白々しい光が容赦なく照らし出していた。
皆人は、数字の並びを見つめていた。一文字一文字、祖父の手で愚直に書き留められた丸っこい筆跡は、目に見えて弱々しくなり、余白には時折、擦れたようなインキの濁りが混じっている。昼間、二階の居間で湿布の匂いを漂わせながら腰を摩っていた祖父の背中が、皆人の瞼の裏に焼き付いて離れなかった。八十を超えた祖父母の体は、すでにこの古い木造商店を維持する限界を迎えている。
「父さん」
棚の隅で日用品の在庫数を数えていた皆人が、小さなメモ用紙を手に戻ってきた。二十八歳になった息子の顔には、先ほどまでの「引き返す勇気」を巡る緊張の余韻が残っていたが、その手元はどこか手持ち無沙汰に震えていた。
皆人は、目の前にある帳簿を静かに閉じた。パタンという小さな音が、旧街道沿いの暗がりから漂う夜の静寂の中に落ちる。
泰司の胸の奥で、冷たい重石のような決断が形を成しつつあった。
今、押し寄せてきているのは、一個人の優しさや気遣いだけで跳ね返せるような波ではない。向かいに立つ巨大なコンビニの看板が放つ光は、この店が積み重ねてきた緩やかな時間を残酷に照らし出し、無価値だと切り捨てようとしている。
これ以上、この店に執着すれば、高齢の両親の命を縮めることになる。そして何より、傷つき、ようやく息を吹き返しつつある皆人に、勝ち目のない消耗戦の泥を被らせることになる。自分の敗北の記憶を、息子の人生にまで覆いかぶせるわけにはいかない。
「……皆人」
泰司は意識して声を落とした。掠れたその響きには、自分自身でも驚くほど力がこもっていなかった。
皆人が立ち止まり、泰司の手元に視線を落とす。
「もう、この店を閉めてもいいんだぞ」
喉の奥が乾いていた。言葉を口にした瞬間、自分の背骨からすっと芯が抜け落ちていくような虚脱感が泰司を襲った。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、もう限界だ。お前がここで無理をして、あの大きな店と戦って、心や体を壊す必要なんてどこにもない。……元々、この店はお前が背負うべきものじゃないんだ。」




