第24話 不器用なおにぎり
皆人は、階段の踊り場の陰で自然と足を止めた。気配を消そうとしたわけではない。ただ、暗闇の中で身体が動かなくなったのだ。
「……お兄ちゃん、大丈夫かな。ちょっと言い過ぎたかも」
台所の薄暗がりの中で、ぽつりとこぼれ落ちたのは、妹の低く細い呟きだった。
昼間の鋭いロジックも、兄を追い詰めた硬い仮面も綺麗に剥がれ落ちた、素の翠の声。言葉の端々に、隠しきれない後悔が滲んでいた。
母の由紀子は、すぐに返事をしなかった。しばらくして、「あの子はね、翠。不器用なだけで、折れやすいわけじゃないのよ。……あなたのおかげで、あの子もちゃんと自分の足元を見つめ直せるわ」 「でも……あんな顔、させたくなかったのに」
翠の声がかすかに震えていた。
皆人は暗闇の中でそっと息を殺し、胸の奥が熱く絞めつけられるのを感じていた。自分は妹に、どれほど余計な心配をかけさせているのだろう。正しさで人を追い詰めるように見えた妹の厳しさは、世間の無慈悲な競争から兄を庇おうとする、必死の防波堤だったのだ。
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自室に戻った皆人は、電球の傘から下がるコードを引き、部屋を小さな橙色の灯りだけで満たした。
机の上には、父・泰司がかつて手入れしてくれた小さな観葉植物の鉢が置かれている。青々とした葉の丸みを指先でそっとなぞる。父の手仕事の温もりと、母と妹が持ち込む鋭い論理。その二つの間で育った自分は、勝ち負けのない居心地の良さを重んじる一方で、いつだって衝突から逃げ出し、波風を立てないことだけを理由に生きてきたのかもしれない。
「感情だけじゃ、勝てない」
翠の言葉が、耳の奥で何度も反芻された。そうかもしれない。効率とデータで武装したコンビニの波が押し寄せてくれば、この古い店など一たまりもなく飲み込まれてしまうだろう。けれど、自分からその「感情」や、近所のお年寄りたちとの泥臭い繋がりを取ってしまったら、この場所に何が残るというのだろう。
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深夜一時を回った頃だった。静まり返った廊下から、遠慮がちな軽い足音が近づいてきた。
トントン、とドアが二回、控えめに叩かれた。
「はい」
皆人が応えると、木製の引き戸が数センチだけ滑り開いた。隙間に現れたのは、部屋着のTシャツを着た翠の姿だった。彼女は皆人と直接目を合わせようとせず、視線を壁の木目に向けたまま、右手に持った小さな和皿を差し出してきた。
「夜食作ったら多く出来すぎたから。……冷めないうちに食べて」
皿の上には、ラップに包まれた出来たてのおにぎりがひとつ、ちょこんと載っていた。不揃いで、少し大きめの三角形。
「あ……ありがとう」
皆人が受け取ると、翠は返事も待たずに「じゃあね」と短く言い捨て、素早く扉を閉めてしまった。バタバタと自分の部屋へ戻っていく足音が、廊下に響いて遠ざかる。
皆人は小皿を机の上に置き、ラップをそっと剥がした。
立ち上ったのは、炊きたての白米の芳醇な甘い香りと、天日干しの海苔の香ばしい匂いだった。
手に取ると、掌から指先へ、ズシリとした重みとともに温もりがじんわりと伝わってきた。少し固めに結ばれたおにぎりは、料理が得意とは言えない翠が、熱さに耐えながら素手で一生懸命に握ったことが嫌でも伝わってくる形をしていた。
「多く出来すぎたって……ひとつだけかよ」
皆人は苦笑し、暗い部屋で一人、小さく呟いた。
一口噛みしめると、米粒の温かさが喉を通って、冷え切っていた胃の底へと染み渡っていく。
データや確率、グラフの折れ線。それらは確かに正しく、時代を支配する冷徹な現実だ。翠の突きつけた刃は間違っていなかった。けれど、この掌の中にある不器用なおにぎりの温もりは、どんな最新のアルゴリズムでも計算できない、人の手だけが生み出せる確かな事実だった。
父が傷ついた備品を愛おしそうに修繕していたあの背中。
買い出しの途中で足を止め、急かされることもなく世間話をしていくお年寄りたちの笑顔。 そして、兄を心配するあまり正論で傷つけ、深夜に一人で熱い米を握っていた妹の優しさ。
皆人はおにぎりをもう一口噛みしめながら、静かに目を閉じた。合理的な大波が押し寄せてこようとも、自分はこの手の中にある温もりを、この場所で守り抜く方法を探さなければならない。




