第23話 交差する赤と青の線
二十五歳になった翠は、地元の大学で技術補佐員として働いており、その眼差しには常に客観的で鋭い理性が宿っている。彼女が画面に映し出したのは、色鮮やかに色分けされた自作の分析グラフだった。
「半径五百メートルの人口動態と、うちの購買履歴。それにコンビニの標準的な売上予測モデルを掛け合わせたシミュレーション結果よ。」
翠は感情を排した硬い声で言い、液晶を皆人のほうへ向けた。画面上の曲線は、新店舗のオープンとともに実家の店の売り上げが右肩下がりに落ち込んでいく未来を、冷徹な精度で示していた。
翠の細く白い指先が、画面上の特定の場所を示した。
鮮やかなマルチカラーで色分けされた幾何学的なグラフ。その中央で、赤と青のラインが残酷な角度で交差し、そこから急勾配を描いて右下へと落ち込んでいた。それは、祖父母が五十年かけてこの街に根を張り、いま皆人が毎朝鍵を開けている小さな個人商店の、目に見える「終焉」を可視化した線だった。
皆人は黙ってその曲線を見つめた。言葉を出そうとすると、胸の奥で固まった冷たい塊が喉を塞いだ。 「……お年寄りが、買い出しのついでに世間話をしていくんだ」
皆人は自分でも驚くほど小さな声で呟いた。
「あの場所は、ただ物を売るだけの店じゃない。おばあちゃんたちが、一日のうちで誰かと声を交わすための……」
「お兄ちゃん」
翠が皆人の言葉を鋭く遮った。その声の硬さに、皆人は思わず口をつぐんだ。
翠の丸い眼鏡の奥にある黒い瞳が、まっすぐに皆人を射抜いていた。いつもはクールに澄んでいるその目の奥で、抑えきれない焦燥と、小さな痛みが揺れているのを皆人は見逃さなかった。
「感情だけじゃこの確率には勝てないよ」
その一言は、居間の空気を一瞬で凍りつかせた。
正論だった。ぐうの音も出ないほどに正しく、冷徹な現実だった。大学で研究者たちのデータ分析を支える翠の頭脳が弾き出した数値は、皆人が日々店頭で感じている「人の温もり」や「ささやかな居場所」といった曖昧で柔らかなものを、一蹴するだけの精度を持っていた。
だが、その言葉の刃が深く刺されば刺さるほど、皆人は気づいていた。翠がなぜ、これほどまでに緻密なグラフを夜遅くまでかかって作成したのかを。
地元の銀行で働き、家族の経済的土台を力強く支えてきた母・由紀子と、理路整然とした正論を語る妹。二人の強い女性の言葉が飛び交う家庭で育った皆人は、論理や言葉には現れない人の微細な空気感や痛みを察する感性を、自然と研ぎ澄ませてきた。
翠は、実家の店が潰れることそのもの以上に、不器用で誰かと競って勝つことに価値を見出せない兄が、時代の無慈悲な波に飲み込まれて無残に打ちのめされる未来を恐れていたのだ。直視したくない現実をあらかじめ冷酷な数値として突きつけることで、兄が傷つく前に踏み止まらせようとする。それは、正論という鎧をまとった、翠なりのあまりにも不器用で苛烈な心配の裏返しだった。
「……わかってる」
皆人は、液晶画面の青い光から静かに目を背け、ぽつりと言った。
「わかってるよ、翠」
それ以上、言葉は続かなかった。翠は小さく唇を噛み、ノートパソコンをパタンと大きな音を立てて閉じた。金属音が寂しく響き、青白い光が消えると、居間には昭和の面影を残す電球色の柔らかな灯りだけが残された。
*
夜が深まり、居間の灯りが消された。
自室へ戻るため、皆人は古い木造家屋の階段をゆっくりと上りかけた。ギシと軋む踏み板の音が、暗がりの中に溶けていく。
一階の台所から、かすかな水音が聞こえていた。母の由紀子が、夕食の片付けの最後の手間を終え、スポンジを置く音だ。
その台所の入口近くで、かすかな足音が止まった。翠の気配だった。




