第22話 迫る白い光
平成二十五年。二十八歳になった杉本皆人の指先には、祖父母の代から続いてきた真鍮の店鍵の、冷たく滑らかな感触がしっくりと馴染んでいた。
小さな個人商店の店頭に本格的に立つようになったのは、八十歳を超えた祖父母の足腰が急速に弱まったのがきっかけだった。最初は単なる留守番のつもりだった。だが、引き戸を滑らせて入ってくる近所のお年寄りたちが、買い出しの手を休めてぽつりぽつりと漏らす世間話に、ただ静かに耳を傾ける日々を重ねるうちに、気づけば店の鍵を委ねられるようになっていた。
店内に漂うのは、昭和の面影を残す古い木製の陳列棚の匂いと、箱入りの洗濯石鹸、そして天日干しされた海苔や昆布が入り混じった、どこか甘く香ばしい匂いだ。ガラス戸越しに差し込む薄い西日の中で、皆人は客を急かすこともなく、言葉の間に漂う沈黙ごと、その時間を丸ごと受け止めていた。
誰かと競って勝つことに価値を見出せない自分でも、この小さな空間でなら、だれかの居場所にそっと寄り添っていられる。そう思い始めていた。
そんな静かな日常の足元を揺るがす出来事が起きたのは、初夏の風が通りを吹き抜ける頃だった。
二区画ほど離れた幹線道路沿いの角地。かつて古い木造民家が身を寄せ合っていた場所が、あっという間に更地へと変貌し、真っ白な背の高い施工用囲いで覆われた。囲いの表面に掲出された工事標識と、真新しい青と白のロゴマークが、容赦ない現実を告げていた。合理的なマニュアルと緻密な消費データで全国を席巻する、最先端コンビニエンスストアチェーンの進出計画だった。
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同じ平成二十五年。樫山木工の本社社長室で、樫山征一郎は眼鏡を外し、デスクの上の厚いバインダーに落としていた視線を上げた。
担当社員が時間をかけて作成した『新事業コミュニティスペース 責任者候補・選定レポート』。そこには、市内の大型施設で賑やかなワークショップを成功させてきた小野寺や、コミュニティカフェの立ち上げ経験を持ち、高いコミュニケーション能力と集客力を誇る元起業家の坂井といった、魅力的な候補者の名が過去の実績とともに整然と並んでいた。
担当社員は自信満々に「彼らでしたら若い世代の集客も、明るいイベントの開催も間違いありません」と推薦してきた。
だが、樫山は静かに首を振った。
(数字や集客力、コミュニケーション能力としては文句ない。……だが、これではどこにでもある賑やかなハコモノになり、本当に孤独で、静かな居場所を求めている人間がかえって足を踏み入れづらくなってしまう)
欲しいのは、人をイベントで集める力ではない。他者の領域を侵さず、ただそこに静かに「居合わせる」ことができる空気感なのだ。
樫山の脳裏に浮かんだのは、かつて保護猫カフェの片隅で、怯える猫や不登校の少女の前に静かに時間をかけて待っていたあの青年の佇まいだった。しかし、優しさだけでは、事業は続かない。予算も、人員も、想定外のトラブルもある。
レポートを静かに閉じると、樫山は深くなった夜の窓外へ視線を向けた。
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昼夜を問わず鳴り響く解体と重機の重苦しい駆動音。やがてそこに建ち上がるのは、二十四時間絶え間なく白い照度で街を照らし出し、洗練された流通機構で商品を集積する巨大な合理性の城だ。一律の陳列棚と無駄のないマニュアルで武装した「黒い波」が、自分たちの小さく古い店を飲み込もうと刻一刻と迫ってきていた。
その日の夕食後、居間の机の上に置かれたノートパソコンの液晶画面を、妹の翠が淡々とした手つきで叩いた。




