第21話 心を開く瞬間
「……信じられないな。あの頑固者が、自らケージの外に出てくるなんてね」
低い店主の声に、皆人はハッと息をのんだ。 膝を折って座る皆人のすぐ脇で、あの白と灰色の猫が、柔らかな腹を床に押し当てるようにして横たわっていた。最初はケージの最奥で目をつむり、世界全体を突っぱねるように丸くなっていた毛玉が、今や皆人のジーンズの裾に小さな頭を預け、喉をゴロゴロと小さく鳴らしている。
無理に手を出さず、相手の恐怖が消え去るまでただ空間を共有し続けた一か月間。 成果を急がず、相手のペースに自分の時間を差し出すという「不器用なプロセス」の果てに届いた、確かな体温だった。
「……本当に、膝に乗ってきちゃったじゃない」
少し離れた丸椅子で、理学部の分厚い専門書を開いていた翠が、呆れたような、しかしどこか誇らしげな吐息を漏らした。 氷の溶けきったアイスティーのグラスを指先で揺らしながら、翠は兄の膝の上で安らかに目を細める猫をじっと見つめている。
その時、奥のテーブル席でガタリと小さな音がした。
老経営者・樫山征一郎が、静かに席を立ったのだった。 樫山は長年連れ添った文庫本をコートのポケットに収めると、使い込まれたナラ材のテーブルを、まるで感謝を伝えるかのように指先で一撫でして受付へと向かった。
会計を済ませる際、樫山は店主に向かって穏やかな声をかけた。
「今日も良い時間を過ごさせてもらったよ。……あのケージの奥にいた子も、ずいぶん柔らかい顔をするようになったね」
「ええ、樫山さん。あそこにいる杉本くんが、毎週欠かさず通って根気強く付き合ってくれたおかげなんです」
店主の言葉に、樫山はゆっくりと振り返った。 その深みのある双眸が、猫を抱く皆人の横顔と、しっかりと重なり合った。
樫山が去った後のカフェには、再び窓を打つ静かな雨音と、穏やかな時間が満ちていた。
父・泰司との激しい衝突の記憶は、まだ胸の奥で痛む。 父の言葉を「冷たい諦め」だと決めつけ、己の臆病さを隠すために父を傷つけたあの夜の傷痕は、簡単に消えるものではない。 しかし、この小さなカフェで猫たちの体温に触れ、傷ついた見知らぬ客たちと静かな時間を共有する中で、皆人の胸には一つの確信が芽生え始めているのだった。
社会がどれほど効率とスピードを求め、青信号で走り続けることを強要してこようとも。 赤い信号で立ち止まり、傷ついたものが自分の足で歩き出すのをじっと待つ時間は、決して無駄でも敗北でもない。
「……そろそろ、帰ろうか」
皆人は膝の上の猫を優しくケージのベッドへと戻すと、ゆっくりと立ち上がった。
「うん。お母さんが、今夜は煮込みハンバーグだって言ってた」
翠が立ち上がり、重い鞄を肩に掛け直した。 二人は雑居ビルの急な木製階段を下り、雨上がりの街へと踏み出した。




