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第20話 急がず待つ時間

 保護猫カフェの最も奥まった壁際、使い込まれたナラ材のテーブル席には、いつも同じ初老の男性が静かに座っていた。 樫山征一郎——それが彼の名前だった。地元で六十年続く老舗木工メーカー「樫山木工」を率いる二代目オーナーであり、白髪交じりの短髪に、目立たない濃紺のカーディガンを羽織ったその佇まいは、まるで雑居ビルの風景の一部のように溶け込んでいた。

 樫山の前には、常に使い古された文庫本が開かれていた。だが、彼の意識はページの文字だけに向いているわけではない。眼鏡の奥の穏やかな双眸は、本を読むふりをしながら、店内の人間模様を静かに追っていた。 地域の保護活動の陰の支援者でもある樫山にとって、このカフェは日常の喧騒から離れて思索に耽る場であると同時に、「人間が他者や弱き存在に対して見せる、飾りのない素の立ち振る舞い」を観察する観察処でもあった。

 時代の波は、あらゆるものに効率と数値を求めていた。製品の生産速度、コスト削減の割合、目に見える実績——。しかし、樫山が自らの会社で何より重んじてきたのは、数値には表れない「人の手の丁寧さ」であり、傷のある木材の歪みを読み取って活かす職人の「人間性」だった。効率ばかりを追い求める現代のビジネスモデルの中では、人間が本当の意味で心を休められる場所も、他者への真の寛容さも失われていく。樫山は常々、そんな危機感を抱いていた。

 だからこそ、彼の視線は、部屋の片隅で膝をつく一人の青年に留まり続けていた。

 杉本皆人。 その青年の名前を樫山が知ったのはずっと後のことだが、彼がこのカフェに通い始めてからの佇まいを、樫山は何度となく静かに目撃していた。

 皆人の振る舞いは、他のどの客とも違っていた。 店を訪れる多くの客は、猫の可愛らしさを愛でるためにやってくる。猫を撫で、抱き上げ、写真を撮り、自分たちの都合で愛情を押し付けようとする。それは悪意ではないにせよ、どこか「所有」や「消費」の欲望が混ざった振る舞いだった。 だが、皆人は違った。

 皆人はいつも、人の手が届きにくい最奥のケージの前で、静かに床に膝を折る。 決してケージの隙間から無理に手を差し入れようとはしない。ケージの奥で丸くなり、全身の毛を逆立てて警戒する猫の目線まで丁寧に腰を低く落とすと、そのままじっと動かなくなるのだ。

 見返りなど何一つ求めていない横顔だった。 「撫でさせてほしい」とも、「懐いてほしい」とも望まない。ただ、己の身体から一切の威圧感を抜き、透明な空気のようにそこに佇む。猫がこちらの存在に気づき、鼻先を小さくぴくつかせ、自分の意思で一歩を踏み出すまで、時には何十分でもじっと待ち続ける。

(……あの男の根底にあるのは、職人の粘り強さだ)

 樫山は文庫本を繰る手を止め、眼鏡の縁をそっと押し上げながら、心の中でそう呟いた。 木材加工の現場でも同じことが言える。乾燥の甘い板材に無理やり鉋をかければ、木目は裂け、刃はこぼれる。木が持つ特有の縮みや曲がりが落ち着くのをじっと待ち、木肌の声を聴くように刃を滑らせる——皆人が怯える猫に向ける眼差しと時間は、樫山が愛してやまない「手仕事の誠実さ」そのものだった。

 世間の就職活動や出世競争の現場であれば、こうした皆人の「急がず、押し付けず、引き下がる」姿勢は、ともすれば欲のなさや要領の悪さとして評価されないのかもしれない。しかし、この小さな暗がりにおいては、彼の保つこの姿勢こそが、傷ついた命を救う唯一の薬となっていた。

 雑居ビルを揺らす秋の雨が強まり始めたある日曜の午後、カフェの重いドアが細く開き、一人の少女が入ってきた。

 濡れた制服の裾、肩をすぼめた猫背、頑なな瞳。中学生らしきその少女は、学校や家庭の人間関係に擦り減り、不登校になっている最中であることが、その強ばった肩口から痛いほど伝わってきた。 少女は受付で小さな声を絞り出すと、部屋の最も暗い隅にある一人用の椅子に、縮こまるように身を寄せた。

 スタッフが気遣うように声をかけようとした瞬間、店内には目に見えない緊張の糸が張り詰めた。追い詰めた人間にとって、親切心から発せられた無邪気な質問や励ましこそが、最も鋭利な刃物となって心に突き刺さることを、少女の強ばった背中が物語っていた。

 その時だった。 ケージの前で腰を落としていた皆人が、静かに立ち上がった。

 皆人は少女の方を直接見ようとはしなかった。声をかけることも、痛々しい表情を浮かべることもしない。ただ、少女の視界に入らない絶妙な角度を保ちながら、猫用の器具の手入れを始めたのだ。

 皆人はまるで「最初から自分はここにいた」という顔で、淡々と、しかし極めて丁寧な手つきで猫用の器具の手入れを続けた。少女の存在を無視するのではなく、かといって過剰に意識するのでもない。ただ「同じ空間に存在することを互いに許容する」という、透明な無干渉の膜を張り巡らせていく。

 少女の肩から、ほんの少しだけ力が抜けたのを、離れた席の樫山は見逃さなかった。 自分を値判する視線も、同情の言葉も飛んでこない安全な領域。皆人がその場所に生み出した空気だった。

 雨の音が、カフェの窓を優しく叩き続けていた。 店内には、湿った木製品の匂いと、静かに淹れられた焙煎珈琲の香ばしい気が満ちている。

 清掃の手を止めることなく、淡々と手を動かし続ける皆人の背中を、雨に濡れてやってきた不登校の少女は盗み見るように追っていた。 誰も自分を問いたださない。理由を尋ねようともしない。「学校はどうしたの」「何かあったの」という、善意の皮をかぶった踏み込みが一切存在しない空間。皆人が醸し出す「ただそこにいていい」という無言の許容が、少女の強張っていた肩を、雪解けのように緩やかに解かしていった。

 やがて、皆人が人馴れ訓練のために開けておいたケージから、一匹の老猫がゆっくりと這い出してきた。耳の端が少し欠けた黒猫だった。老猫は足音もなく床を横切り、少女の足元で一度立ち止まると、丸くなった彼女の靴の横に、まるで最初からそうする決まりだったかのように腰を下ろした。

 少女が息を飲み、そっと手を伸ばしかける。だが、自分の手が猫を驚かせてしまうのではないかと恐れ、空中で指先をこわ張らせて止めた。 その瞬間、少し離れた場所で床を拭いていた皆人が、そっと視線だけを投げた。 そして、決して少女の顔を直視することなく、ごく自然な低い声で、誰に言うでもなくぽつりと呟いた。

「その子はね、手のひらを上に向けて、床に置いておくと安心するんだ」

 押しつけがましさの欠片もない、雑談のような一言だった。 少女はハッとしたように唇を噛み、言われた通りに右手をそっと床に平置きにした。 老猫は鼻先をぴくつかせると、少女の温かい手のひらに、自分の湿った鼻をそっと押し当てた。少女の瞳から、ボロリと大きな涙の粒がこぼれ落ちた。

 こうした光景は、一度や二度ではなかった。

 別の日の夕暮れ時、肩を落としたスーツ姿の男性が店にやってきたことがあった。 革靴のかかとを引きずり、鞄を抱え込むようにしてソファの端に座ったその男の全身からは、現代社会の苛烈な競争や評価に破れ、疲弊しきった者の匂いが漂っていた。男は運ばれてきた紅茶にも手をつけず、ただ虚ろな目で壁の一点を見つめていた。

 その時も、皆人は変わらなかった。 男の暗い雰囲気に気圧されることもなく、かといって無理に明るく接して元気づけようともしない。男のテーブルからほどよく離れた位置で、観葉植物の傷んだ葉をハサミで一枚ずつ丁寧に摘み取り、古びた木製スツールのぐらつきを、小さなドライバーで黙々と直していた。

その音が部屋の静寂に溶け込んでいくにつれ、スーツ姿の男の強張っていた背中から、ゆっくりと力みが抜けていくのが分かった。男はやがて深く息を吐き出し、ぬるくなった紅茶を一口飲み、足元に寄ってきた猫の頭を、小さな動作で撫で始めたのだった。

(あの青年は、成果や勝利という『結果』を愛しているのではない。『途中の工程』そのものを慈しんでいるのだ)

 樫山は確信していた。

「杉本、皆人くん……か」

 樫山は手帳の隅に、密かに書き留めてあった青年の名前を指先でなぞった。 雑居ビルの窓の外では、秋の雨がゆっくりと小降りになり、雲の隙間から柔らかい光が街へと差し込み始めていた。

 ケージの前では、あの白と灰色の猫が、皆人の伸ばした指先に、初めて自らの頭をこすり付けていた。 皆人は歓声を上げるでもなく、誇らしげな顔をするでもない。ただ、少しだけ目元を緩め、まるで当然の季節が巡ってきたかのように、猫の小さな額を、愛おしそうに静かに撫でていた。

 離れた席でその瞬間を目撃した樫山征一郎は、深く、静かに頷いた。 彼の中で、迷いは完全に消え去っていた。

 秋の終わりの光は、水槽の底に差し込む光のように透明で、どこかひんやりとした静けさを帯びていた。 カフェの窓際に置かれた観葉植物——少し葉先の傷んだサンスベリアの鉢植えから、湿った土と青い葉の匂いがほのかに立ち上っている。皆人が通い始めてから、店主の許可を得て古くなった葉を摘み、日当たりの良い場所へ移動させてやった鉢だった。

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