第19話 人馴れの時間
「急に近づくと、その子はもっと奥に入っちゃうよ」 声をかけてきたのは、エプロンをつけた店主の女性だった。
「以前の飼育環境で酷い目に遭ったらしくてね。人間が手を伸ばしてくると、叩かれると思って固まっちゃうの。今は少しずつ、人間は危険な生き物じゃないって覚えてもらう『人馴れ訓練』をしているところなんだよ」
「人馴れ訓練……」
皆人はその言葉を噛みしめるように呟いた。
「僕に、何かできることはありますか。……ただ、ここにいるだけでもいいなら」
それが、皆人が無償のボランティアとして保護猫カフェに通い始めるきっかけだった。
何をするでもない。見返りなど最初から求めていなかった。 皆人は休日になるとカフェへ通い、古びた木製ケージの前にいつものように腰を落とした。 他人の視線や評価を競い合う就職活動の場では、誰もが自分を大きく見せ、言葉で飾り立てることを求められた。しかし、この小さな暗がりにおいては、いかなる饒舌さも意味をなさなかった。むしろ言葉や急な動作は、猫の警戒心を煽る凶器にしかならない。
皆人はただ、そこにじっと坐した。 猫が鼻先をぴくつかせ、こちらの匂いを確かめるまで待った。 手作業の途中の工程を慈しむように、焦らず、急がず、時間そのものが満ちていくのを待つ。自分の身体から余計な緊張を抜き、空気と同化するように息を整える。それは、幼い頃に実家の離れで、父が古い木枠の傷を削りもせず、黙々と文字の配置を組み直していたときの背中と、どこか重なる時間でもあった。
「……なにしてんの、お兄ちゃん。床に突っ伏して、土下座の練習?」
カフェに通い始めて三週間ほどが過ぎたある日、背後から少し尖った、聞き覚えのある声が落ちてきた。 振り返ると、肩に重そうな鞄をかけた妹の翠が、呆れたような目を向けて立っていた。
「翠……なんでここに」
「お母さんに聞いたの。休日のたびにどこ行ってるのかと思ったら。こんなところで猫相手に土下座の練習みたいな格好してるなんてね」
翠は軽く笑うと、受付で注文したアイスティーのグラスを片手に、皆人のすぐ後ろの丸椅子に腰掛けた。言葉の端々は冷ややかで硬いが、その瞳には兄の滑稽なほど真重な佇まいを面白がるような、軽やかな色が浮かんでいた。
「触らないの?」
翠がグラスのストローを指先で弄りながら訊ねる。
「触ろうとすると逃げるんだ。……僕の手が伸びてくるだけで、この子は身構えるから」
皆人は目線を猫から外さずに答えた。
「だから、僕がここにいても害がないって、この子が自分で納得するまで待つしかないんだよ」
「ふーん」
翠は短く相槌を打ち、氷の溶ける音を立てた。 合理的な思考を持つ彼女からすれば、見返りも成果の保証もないボランティアに時間を費やす兄の姿は、あまりに効率が悪く映るのかもしれなかった。しかし、翠はそれ以上兄の行動を茶化したり、正論で詰問したりはしなかった。
「まあ、お兄ちゃんらしいんじゃない」
翠はぽつりとそう呟くと、文庫本を取り出してページをめくり始めた。
ケージの奥で、小さく毛玉が動いた。 固く伏せられていた耳が少しだけ前を向き、黒目がちな瞳が、ゆっくりと皆人の出している指先へと向けられる。 皆人は息を殺した。指先を動かさず、猫が自らの意思で距離を縮めてくるのを、ただ静かに待った。
数センチの隙間を隔てて、猫のピンク色の鼻先が、皆人の皮膚の温度を確かめるように微かに揺れた。 ほんの少しだけ、二つの世界の境界線が重なった瞬間だった。




