第18話 夜の衝突
その言葉が茶の間の空気に放たれた瞬間、家の中の雑音がすべて遠のいた。 台所の水音がふっと途切れ、由紀子が手を止めたような気配が漂う。皆人はすぐには顔を上げなかった。ただ、鉢植えを撫でていた指先が凍りついたように止まり、背中全体が微かに強張っていく。
「……何て、言ったの?」
皆人の声は、喉の奥で乾いた音を立てて摩擦していた。 泰司は逃げずに、息子の正面を見据えた。座卓を挟んだ二人の間には、何年もかけて積み上げてきた「誰も踏み込ませない静かな距離」があったはずだった。
しかし今、泰司はその境界線を自ら踏み越え、息子の目を見つめ返していた。
「もう少し、外の世界へ足を伸ばしてみてもいいんじゃないかということだ。いつまでもこの家で、決まったアルバイトだけに収まっている必要はない」
その声はどこまでも穏やかで、泰司なりの真摯な温もりに満ちていた。 泰司は感じ取っていたのだ。だからこそ、泰司は背中を押したかった。傷つくことを恐れて立ち止まり続ける息子に、いつか自分の足で外の空気を吸い、新しい居場所を見つけてほしいという、切実な親心からの「踏み込み」だった。
だが、まさにその「図星」を突かれたことが、皆人の胸の奥にあったもっとも醜く、守りたかった殻を容赦なく叩き割った。
皆人の顔から、血の気が一瞬で引き散った。 (……図星だ) 頭の中で、何かが甲高い悲鳴を上げて弾けた。
己の見苦しい本性を、引きずり出される恐怖。 認めてしまえば、自分はただの「身勝手で臆病な居候」にすぎなくなる。その耐えがたい自己嫌悪から逃れるために、皆人の防衛本能は、もっとも凶暴で歪んだ形で牙を剥いた。
「突き放すのかよ……!」
立ち上がった皆人の膝が座卓を突き上げ、湯呑みがガタガタと大きな音を立てた。
「ここでお前を甘やかすのも限界だって、そう言いたいの? 『無理しなくていい』って言ってきたのは父さんだろ! 僕をこんな、外の空気を吸うこともできない臆病者に育て上げたのは、誰なの?」
泰司は息を呑んだ。皆人がこれほど大声を出したのを、一度だって聞いたことがなかった。
「皆人、私はお前を突き放そうとして——」
「聞こえのいい言葉で飾るなよ!」
皆人の叫びは、悲鳴に近かった。目の端に涙を溜めながら、彼は泰司を指差し、その腕を激しく震わせた。
「父さんはいつもそうだろ!『無理するな』『戦わなくていい』って……! そうやって優しく庇ってるフリして、結局、外に出るのが怖い僕を作ったのは父さんじゃないか! 自分だって東京から逃げてきたくせに!」
吐き出される言葉の一つ一つが、毒針となって泰司の胸を刺した。 しかし、泰司を最も打ちのめしたのは、叫んでいる皆人自身の表情だった。父を糾弾するその言葉の裏側で、皆人の瞳は自責の念によってズタズタに引き裂かれていたのだ。
皆人は己の額を強く叩いた。拳が当たる鈍い音が、静かな茶の間に響く。
皆人は裸足のまま玄関へ走り出た。引き戸が猛烈な音を立てて開かれ、夜の冷気が一気に茶の間へと流れ込んできた。靴を引っ掛け、闇の中へと逃げていく息子の足音が、舗装道路の乾いた音となって遠ざかっていく。
茶の間には、静まり返った空気と、開け放たれた玄関から吹き込む冬の風だけが残されていた。 泰司は、膝の上に置いた己の手をじっと見つめていた。ニスと塗料で汚れた職人の手が、微かに震えていた。 息子を温かく守ってきたはずの手。悲劇を繰り返させまいと差し出し続けてきた優しさ。それが、いつの間にか息子を追い詰め、その魂を檻の中に閉じ込める冷たい壁となっていたのだろうか。
漆喰の壁に、ぽつんと点灯した廊下の明かりが影を作っていた。
台所に突っ立っていた由紀子が、ゆっくりと息を吐き出しながら茶の間へと歩み寄ってきた。幾度も金融の荒浪をくぐり抜けてきた銀行員としての強い眼差しに、今は深い疲弊と戸惑いが滲んでいる。
「……追わなくていいの?泰司さん」
泰司はすぐには答えなかった。座卓の上に置き去りにされた湯呑みから立ち上る湯気が、寒気の中で儚く消えていくのをじっと見つめていた。
「……追っても、今の皆人には私の声は届かないよ」
絞り出すような泰司の声は、どこか遠くから響いているように低かった。
「あの子は私に怒っているんじゃない。あの子自身の中にある、一番見たくないものを見せつけられて、必死で傷口を隠そうとしているんだ……」
泰司は立ち上がり、離れの作業場へと続く渡り廊下へ足を向けていた。 暗がりの作業場に入り、蛍光灯のスイッチを入れる。青白い光が照らし出したのは、削り途中の古い木枠と、使い込まれた彫刻刀、そしてニスと塗料の匂いだった。
泰司は離れの作業台に両手を突き、深く頭を垂れた。 自分が差し出し続けてきたその優しさは、いつの間にか皆人の足枷になっていたのだ。泰司は「立ち止まること」を絶対の正義として息子に与えすぎたのか、と自問自答している。
*
夜の街を、皆人はただひたすら走り続けていた。 冷たい風が容赦なく頬を叩き、肺の奥が焼けるように熱い。ただ、自分自身の醜さから逃げたかった。
小さな公園のベンチに倒れ込むように腰を下ろした。 荒い息を吐き出すたび、白い吐息が夜の闇に散っていく。 「……クソッ……」 皆人は両手で顔を覆った。頭の中で、さきほど自分が父親にぶちまけた最悪な言葉が反響し続けていた。
「……情けない……本当に、情けないよ……」
涙が溢れ、冷えた頬を伝って顎からぽたぽたと滴り落ちた。 父の優しさを「冷たい諦め」だと歪んで受け止めなければプライドを保てないほど、自分は小さく惨めだった。二重の絶望の中で、皆人は暗闇の中で小さく丸まるしかなかった。
ふと顔を上げると、公園の向こうの交差点で、赤い信号灯がひとつ、闇に浮かんでいた。 誰の通過も許さないように、淡々と冷たい光を放ち続けている。
凍てつく夜風が、皆人の震える肩を通り抜けていく。 深く傷つき、擦り減った心を抱えたまま、皆人は翌週、導かれるように地元の「保護猫カフェ」に行くことになる。
*
父・泰司との激しい衝突の残像は、数日が過ぎてもなお、皆人の胸の奥に鈍い苦味を残していた。
「外の空気を吸うこともできない臆病者に育て上げたのは、誰なの?」——怒声にまかせて吐き捨てた己の声が、深夜の自室で何度もリフレインする。父の温かな眼差しや「無理しなくていい」という言葉を、自分は「お前には何の期待もしていない」という冷たい引導のように捻じ曲げて受け取っていた。だが本当に見苦しいのは、父の抱える古い傷を楯にして、自分自身が社会へ踏み出す恐怖から逃げ回っていたことだった。己のズルさと臆病さをまざまざと見せつけられ、実家というシェルターすら居心地の悪い檻へと変わっていた。擦り減り、逆立った心を抱えたまま、皆人は休日の午後の街をあてもなく歩いていた。
雑居ビルの急な木製階段を上った先に、目的の場所はあった。 扉を開けると、ほのかに甘い紅茶の香りに混じって、乾いた猫砂と消毒液、そして日陰に置かれた毛皮特有の、わずかに酸っぱい匂いが鼻腔を突いた。地元の雑居ビルの一角にある保護猫カフェだった。 店内は午後の斜陽が柔らかく差し込み、数組の客が低いソファで静かに本をめくっている。皆人は受付で入店手続きを済ませると、人の輪から最も離れた壁際のケージエリアへと足を進めた。
部屋の最奥、光の届きにくい段に置かれたスチール製のケージの中で、その猫は丸くなっていた。 白と灰色の毛色で、毛並みは少し硬そうだった。威嚇するように唸るわけでもなく、ただ自分の存在そのものを世界から消し去ろうとするかのように、体の中心に頭を深くうずめ、背中を強張らせている。人間が近づくかすかな足音が聞こえるたび、ピクリと耳を伏せ、全身の筋肉を硬化させるのが見て取れた。人間に怯え、固く心を閉ざした姿だった。
皆人はその前に立ち尽くし、息をのんだ。 ガラス細工に触れるような慎重さで遠巻きに見つめながら、胸の奥で冷たい水滴が弾けたような感覚を覚える。 引き出され、無理に触れられ、愛情という名の都合を押し付けられることに怯え、奥へ奥へと閉じこもっていくその佇まい。
(……今の僕と同じだ)
父の過保護に守られながら、同時にその優しさに圧迫され、外の世界へ一歩を踏み出せずに殻へ閉じこもる自分自身の無力さが、そのままケージの隅の毛玉の形をしてそこにあった。誰かを害したいわけではない。ただ、自分の領域を侵されることが怖くてたまらないのだ。
皆人はゆっくりと、床のフローリングに膝をついた。彼は猫の目線と同じ高さまで、丁寧に腰を低く落とした。 決してケージの隙間から無理に手を伸ばそうとはしなかった。ただ、床に膝をつき、猫の視線の水平線上に自分の存在を置くだけにとどめた。




