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第17話 踏み込まれた境界線

 夕刻が、静かに低く垂れ込めてきた。実家の離れにある作業机の前で、泰司は細い彫刻刀を動かす手を止めた。すりガラス越しに差し込む橙色の光が、削り出されたアクリル看板の木枠に長い影を落としている。泰司は手垢と小さな傷に覆われた木目を、愛おしむように指先で撫でた。世間では捨てられるような古びた枠組であっても、無理に削り平らげるのではなく、傷の深さに合わせて角を丸め、文字の配置を組み直せば、不思議と穏やかな収まりを見せる。それは、泰司が昭和の終わりに東京の狂気から逃げ帰り、この静かな街で手に入れた生き方の作法そのものだった。

 ふと視線を庭へ向けると、母屋の縁側で息子の皆人が腰を落としているのが見えた。小さな鉢植えの観葉植物に向き合い、丁寧な手つきで拭き取っている。

 週に三日ほど、ノルマのない倉庫の仕分けや深夜清掃のアルバイトへ出かける皆人の背中に、泰司はいつも温かな言葉を投げかけ続けてきた。

「皆人、無理しなくていいんだぞ」

「世間の速さに合わせる必要はない。お前はお前のままでいいんだ」

 それは、地獄のような東京で自分が喉から手が出るほど欲しかった救いの言葉であり、過酷な社会に揉まれて傷ついた我が子へ差し出せる、最大級の愛と守護のつもりだった。

 しかし——ここ数ヶ月、その言葉を口にするたび、泰司の胸には重く冷たい違和感が残るようになっていた。

 夕食前の茶の間には、出汁の香気とテレビの音が漂っていた。地元の有力地方銀行に勤めている由紀子が手際よく小鉢を並べ、翠が大学での研究について由紀子に語りかけていた。社会の中で確固たる足場を持っている二人の会話の横で、皆人はただ小さく肩をすぼめ、自分の膝を凝視するように座っていた。服からは倉庫のダンボールと冷えたコンクリートの匂いが微かに漂っている。

「皆人、お茶が入ったぞ」

 泰司は湯気の立つ煎茶の湯呑みを息子の前に置き、いつものように穏やかな声をかけた。

「今日も寒かったろう。無理はしなくていいからな」

 いつもなら笑みを返すはずの皆人の手が、ぴたりと止まった。 湯呑みに伸びかけた指先が空中で震え、硬直する。皆人は顔を上げなかった。ただ、深く息を吐き出す湿った音だけが、ニュース音量の隙間に静かに落ちた。

「……うん」

 絞り出すような低い返事。そこには温かな安らぎなど微塵もなく、固く冷たい石のような沈黙が混ざっていた。皆人は湯呑みを両手で包み込んだが、指先は血の気が引いたように白く強張っている。泰司が顔を覗き込もうとすると、皆人はすっと視線を避け、逃げるように庭側の縁側へ歩み去ってしまった。

 泰司の胸を、冷たい風が吹き抜ける。 自分はただ、過剰な競争の犠牲に、息子をさせたくないだけだった。

 だが、すりガラス越しに見える皆人の背中は、安堵ではなく逃げ場のない重い絶望に押し潰されそうになっている。縁側に座り込み、観葉植物の青々とした葉を見つめる息子の瞳は、どこか遠く暗い底を見つめていた。

 静かに日が落ち、街に夜のしじまが降り積もる。冬に向かう夜気は、底冷えのする静寂を伴って家の中に忍び寄ってくる。離れの作業場から母屋へと続く短い渡り廊下には、冷気を含んだ風が吹き抜け、アルミサッシの硝子戸を微かにカタカタと震わせていた。台所で夕食の器を洗う水音が規則正しく響き、二階の部屋からは妹の翠がノートパソコンのキーボードを叩く乾いた音が時折漏れていた。社会という確かな軌道の上で、それぞれの時間を正確かつ合理的に刻んでいる二人の気配。その空間の狭間で、茶の間の座卓に向かう皆人と、その対角線上に腰を下ろした父親の泰司の間だけに、重く淀んだ空気が滞留していた。

 泰司は、座卓の木目をじっと見つめている息子の横顔を静かに観察していた。 皆人の指先は、さきほど手入れを終えたばかりの観葉植物の小さな鉢植えの縁を、無意識になぞり続けている。

 ここ数日、泰司は息子の沈黙の質が明らかに変わったことに気づいていた。 単に過酷な外の世界で疲弊し、傷を癒やそうとしている静けさではない。

 泰司は深く息を吸い込み、「……皆人」 と声をかけた。静かな声だった。だが、そこに込められた質量に反応するように、皆人の指がぴくりと跳ねた。

「もう少し、外へ出た方がいいんじゃないか」

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