第16話 壊さない距離
「……うん。誰も悪者にしたくなかったから」
「それは、お前が全能になろうとしすぎたんだよ」
泰司の言葉が、胸の奥へすっと染み込んでいく。
「相手の領域に土足で踏み込んで仕切るのも違うが、傷つくのが怖くて無感情な壁を作るのも違う。大事なのはな、相手の形を壊さない距離に立つことだ。無理に問題を解決してやろうと踏み込む必要はない。だけど、見捨てて逃げるわけでもない。『そこにただ、傷つけずに居合わせる』。それだけで充分な手助けになることがあるんだよ」
争わないことは、逃げることではない。必要なときだけ静かに寄り添う。
父の職人目線のような言葉に触れた瞬間、皆人の頭を覆っていた冷たい霧が、音を立てて晴れていくようだった。自分は「正しさ」で誰かを裁く仲裁者になる必要も、嫌われるのを恐れて透明人間になる必要もなかった。ただ、自分という人間を保ったまま、適切なディスタンスを保てばいいのだ。
「……ありがとう、父さん」
皆人が立ち上がると、泰司は「遅いからもう寝なさい」と、いつもの穏やかな笑顔で見送ってくれた。
*
翌朝、6時の光がリビングを白く満たしていた。
皆人はベランダで、昨日途中でやめていたモンステラの葉を拭いていた。
「おはよ」
背後で声がした。振り返ると、大学へ行く準備を整えた翠が立っていた。紺のストライプシャツに、リュックを背負っている。
ふたりの視線が重なった。
「翠」
皆人は雑巾をバケツの上に置き、まっすぐに妹を見つめた。
「ありがとう。僕が自分の臆病さから目を背けてたこと、ちゃんと教えてくれて」
翠は一瞬だけ目を見開いた。クールな理系女子の仮面がわずかに崩れ、動揺が走る。
「……別に、感謝されるようなこと言ってないよ。言い過ぎたと思ってたし」
皆人は、胸の奥に滞っていた息をゆっくりと吐き出すと、小さな笑みを浮かべた。
「俺、今日のバイトから、もう少し違うやり方を試してみる。誰かの問題を引き受けるわけじゃないけど、逃げずに、ただそこに静かにいるような距離感を探してみるよ」
翠は視線を戻し、兄の表情をじっと見つめた。そこにはもう、昨日までの怯えたような迷いはなかった。
「……ふうん」
翠はいつもの素っ気ない調子でそれだけ言い残すと、玄関へ向かい、スニーカーの踵をトントンと鳴らして外へ出て行った。
ドアが閉まる静かな音を聞きながら、皆人は深く息を吸い込んだ。
胸の奥にあった卑屈な焦りは、すっかり消えていた。自分は自分なりのペースで、この実家という大切な足場から、外の世界との「心地よい距離感」を作り出していけばいい。
皆人は洗面所で顔を洗うと、作業着の入ったバッグを手に取り、まっすぐな足取りで玄関のドアを開けた。朝の光が、どこまでも爽やかに広がっていた。




