第15話 氷のような正論
翠は木製のコップをテーブルに置くと、腕を組み、静かに皆人の前に立ちふさがった。その瞳には、誤魔化しを許さない硬質な光が宿っていた。
「言いたくないならいいけど。でも、お兄ちゃんがそうやって一人で抱え込んで、変に気を遣ってる姿を見るほうが、周りは重いんだけど」
「……気を遣ってるわけじゃないよ」
皆人は力なく笑おうとしたが、頬の筋肉がうまく動かなかった。喉の奥に溜まった鬱屈が、抑えきれずに零れ落ちそうになる。
「ただ……僕は、誰も責めたくなかっただけなんだ。バイト先で揉め事があってさ。どちらの味方もしないで、穏やかに収めようとしたんだよ。それが『優しさ』だと思ってた。でも……周りからは、自分だけ泥をかぶらないズルい奴だって言われた」
絞り出すような皆人の声が、静かな廊下に響いた。
皆人はどこかで、妹からの同情や、言葉の慰めを期待していたのかもしれない。「お兄ちゃんは悪くないよ」「周りがおかしいんだよ」という温かい言葉を。
だが、翠の口から出たのは、氷のように冷たく、刃のように研ぎ澄まされた一言だった。
「当たり前じゃない」
翠は眉ひとつ動かさず、静かに兄を見つめていた。
「お兄ちゃん、それ、本気で『優しさ』だと思ってたの?」
「え……?」
「両方の言い分を聞いて、どちらも責めないなんて、ただのポーズだよ。揉め事っていうのは、どちらかが折れるか、共通のルールを決めるかしないと解決しないの。それを『みんな悪くない』なんて言ったら、一番困るのは現場の責任を取る人でしょう」
翠の言葉は、昼間に同僚たちが陰口で言っていた批判と、残酷なほど一致していた。
「単に、人に踏み込んで嫌われるのが怖いだけでしょ。安全な場所から出ないだけじゃないの」
廊下に落ちた静寂は、まるでは開けたばかりの氷水のように冷たく、重かった。
「……安全な場所から、出ないだけじゃないの」
翠の言葉が、皆人の鼓膜の奥で反復し、ゆっくりと胸の深部へ浸透していく。
「……そうか」
皆人は絞り出すような低音で応えた。口の中がカラカラに乾いていた。
「そうだな。僕が……間違ってたよ」
それ以上、妹の顔を見ることができなかった。皆人は視線を床の木目に落としたまま、静かに横を抜け、階段を上った。
二階の自室に入り、ドアをそっと閉める。カチリとラッチが噛み合う音が、外部の世界との接続を完全に切断する合図のように聞こえた。薄暗い部屋の中で、皆人は壁に背をあずけ、床に直接崩れ落ちるように座り込んだ。
窓辺には、今朝拭き上げたばかりのモンステラが、夕暮れの淡い光を受けて静かに佇んでいた。緑の葉はつややかに光っていたが、今の皆人には、それが温室の中で外気から守られ、ただ甘やかされて育っている自身の姿そのものに見えた。
*
階下の台所では、水道の蛇口から滴り落ちる水滴が、ステンレスのシンクに規則正しく「ぽとん」と音を立てていた。
翠は、兄が去ったあとの空虚な空間を見つめたまま、微動だにせず立ち尽くしていた。手に持った木製のコップは、指先が白くなるほど強く握りしめられていた。
(なぜ……あんな言い方をしてしまったんだろう)
胸の奥で、鋭い刺痛がじわじわと広がっていく。
翠は自分の発言を後悔していた。事実を指摘しただけだ——そう自分に言い聞かせようとしても、兄のあの傷ついた眼差しが、脳裏から離れなかった。
翠は、誰よりも兄の性質を理解しているつもりだった。
かつて父の泰司が東京の企業狂気に潰されかけ、ボロボロになって帰ってきたことは、翠も幼いながらに聞かされていた。
そして、誰かを蹴落として内定を勝ち取るようなレースに参加せず、自分のペースを保っている兄。部屋の観葉植物を慈しみ、傷ついた道具を愛おしそうに手入れする兄の「結果より過程を重んじる視線」を、翠は決して嫌いではなかった。
今日、兄がアルバイト先で経験したというトラブルの話を聞いたとき、翠の胸に真っ先に湧き上がったのは、兄に対する歯痒さだけではなかった。
兄のあの不器用で、計算のない優しさを「ズルい」「泥をかぶらない」と切り捨て、嫌われ役を押し付けられたと憤る同僚たち——その浅はかな世間の側に、翠は激しい憤りを覚えていたのだ。
(お兄ちゃんのあの柔らかさを『ズルい』と決めつけるほうが、絶対に間違ってる。他人の傷みに過敏で、誰の尊厳も傷つけたくないからこそ立ち止まってしまうお兄ちゃんのことを、どうしてあの人たちは解ろうとしないの?)
争うことを善とし、責任となれば誰かに罪をなすりつけ合うような殺伐とした社会。そんな歪んだ場所の価値観で兄の佇まいを裁く連中に対して、翠は失望を感じていた。
なのに——。
その怒りを世間へぶつける術を持たない翠は、よりによって、傷ついて帰ってきた兄自身に向かって、その刃を振り下ろしてしまったのだ。「嫌われるのが怖いだけ」「安全な場所から出ないだけ」という、最も兄が気に病んでいた部分を、正論で突き刺してしまった。
「……ばかみたい」
翠は小さく呟き、木製のコップをコトンと乱暴にテーブルへ置いた。
兄の「優しさ」に、臆病さや逃避が混ざっていたのは事実かもしれない。だが、それを「ぬるま湯」だと一蹴し、踏み込むことだけを正義とする世間のロジックで兄を追いつめる権利が、自分にあっただろうか。自分自身だって、大学のラボという安全な城郭に閉じこもり、合理性という鎧を着て自分を守っているに過ぎないのではないか。
翠は深く息を吐き出し、自室へと向かう階段を見上げた。階段の先にある暗いドアの向こうで、兄がどんな顔をして息を潜めているかを思うと、胸が痛んだ。
*
それからの数日間、杉本家の中には、かつてない冷ややかな沈黙が流れていた。
皆人は、自ら心を閉ざしていた。
朝、家族が起き出す前に家を出て、夜は母が夕食の片付けを終える頃を見計らって静かに帰宅した。実家という場所が自分に与えてくれていた「シェルター」の安心感は失われ、むしろ「過保護な温室で甘やかされている自分」を突きつける残酷な鏡へと変わっていた。
アルバイト先での皆人の佇まいも、ガラリと変わった。
かつてのように、同僚たちの会話に柔らかく微笑みかけたり、ギスギスした現場の空気をなだめようと間に入ったりすることは一切なくなった。言われた作業だけを淡々と、機械のようにこなす。指示された伝票を確かめ、段ボールを組み立て、テープを貼る。
「杉本さん、今日の仕分け、そこ終わったらこっち手伝って」
「はい。分かりました」
声には感情の起伏がなく、視線は決して相手の瞳の奥へは届かない。波風を立てないニュートラルな態度すら捨て、ただの「無感情な作業員」になりきることで、皆人は自分を防御していた。
誰にも期待しない。誰の領域にも踏み込まない。そして、誰からも自分の領域に踏み込ませない。
「……あいつ、なんか急に冷たくなったな」
休憩室で、かつて皆人を「泥をかぶらない人」と批判した同僚たちがヒソヒソと囁き合っているのが聞こえた。だが、今の皆人にはその声すら遠いノイズのようにしか感じられなかった。傷つかない代わりに、世界全体から色彩が失われていくような感覚だった。
週末の夜、久しぶりに家族全員が揃った夕食の席でも、その重苦しさは続いていた。
食卓には、母の由紀子が作ってくれたアジのフライと、季節の野菜の煮物が並んでいた。香ばしい油の匂いと出汁の香りが部屋を満たしている。
「泰司さん、離れの作業場の屋根、来週の休みに業者さんが点検に来るって」
由紀子が静かな声で言った。銀行員としての長年の習慣が出ている丁寧で落ち着いた口調だった。
「ああ、分かった。木枠の乾かし場を少し片付けておくよ」
父の泰司は、手仕事で少し荒れた指先で箸を持ち、淡々と答えた。泰司の服からは、かすかに鉋くずの甘い木の匂いが漂っている。世間の狂騒から離れ、自分の領分を静かに守る父の佇まいは、いつも通り穏やかだった。
だが、皆人はその父の横顔を直視することができなかった。
(父さんも……東京の会社を逃げ出して、この家に逃げ込んできたんだ。僕と同じように)
黒い思考が、皆人の心を蝕んでいく。
(父さんの『争わない生き方』は、僕に受け継がれた。でも、それは優しさなんかじゃなく、ただの臆病さの連鎖だったんじゃないのか? 僕をこんな社会不能者にしたのは、この家のぬるま湯なんじゃないのか……)
そんな考えが頭をよぎるたび、皆人は猛烈な自責の念に駆られた。自分の甘えを棚に上げて、傷つき疲れ果てて家庭を守ってきた父の生き方まで否定しようとしている自分が、たまらなく惨めだった。
「皆人、ご飯残ってるけど、口に合わない?」
由紀子が心配そうに覗き込んできた。
「ううん、大丈夫。お腹が少し張ってるだけだから」
皆人は短く答え、茶碗を置いた。
斜め向かいに座る翠の視線を感じた。翠は箸を止め、じっと皆人の顔を見つめていた。その瞳には、かつてのような冷徹な分析ではなく、痛々しいほどの躊躇いが浮かんでいた。何かを言いたそうに唇を少し開けたが、結局、翠は何も言わずに視線を落とし、黙って味噌汁を口に運んだ。
「ごちそうさま。先に部屋に戻るね」
皆人は立ち上がり、逃げるように自室へと向かった。
背後で、父が小さく「そうか」と呟く声が聞こえた。その声には、怒りも説教もなく、ただ静かに息子を思いやる温かさが含まれていた。その温かさが、今の皆人には何より痛かった。
自室の窓枠に肘を預け、皆人は暗い庭を見下ろしていた。
夜の冷気が、網戸の網目をとおして静かに部屋へ流れ込んでくる。時刻は夜の十時を回っていた。母の由紀子も妹の翠もすでに自室へ引き上げ、母屋の灯りは大半が消え落ちていた。しかし、庭の奥にある小さな離れの窓だけは、黄色く温かい電球の光を淡く漏らしていた。
トントン、と小さな槌音が聞こえる。続いて、シャリ、シャリ、と鉋が木肌を滑る規則正しい音が、夜の静寂を滑り落ちてきた。
父・泰司の作業音だった。
皆人は膝の上に置いていた両手に視線を落とした。バイト先で同僚から投げつけられた「自分だけ泥をかぶらない人」という批判と、翠から突きつけられた「嫌われるのが怖いだけでしょ」という氷のような一言。そのふたつの刃が、今も胸の深部で鈍い痛みを放っていた。
自分は「争わない優しさ」を選んでいたつもりだった。だが、それは本当に父の生き継いだ美徳だったのだろうか。ただの自己保身と逃避を、父の影で綺麗に装飾していただけなのではないか。
確かめたい衝動に突き動かされ、皆人は静かに部屋を出た。
階段を降り、勝手口から下駄を突っかけて夜の庭へ出る。湿った草の匂いと、夜露を含んだ土の冷気が足を包んだ。離れの引き戸の隙間から、木屑の香ばしい匂いと、塗料の甘酸っぱい気配が漂い出ている。
「父さん……」
引き戸をすこしだけ開けて声をかけると、裸電球の下で作業台に向かっていた泰司が、ゆっくりと振り返った。
泰司の手元には、どこかの古い店舗から引き取ってきたらしい、角の丸くなったアクリル看板の木枠があった。泰司は指先で木肌の擦り傷を愛おしむように撫で回しながら、小さなヤスリで丁寧に角を削り落としていた。
「皆人か。どうした、こんな夜遅くに」
「……ちょっと、父さんの手元が見たくて」
皆人は作業場の隅にある低い丸椅子を引き寄せ、小さく腰掛けた。
「何か、あったのか」
泰司は作業の手を止めず、淡々とした口調で尋ねた。問い詰めるような鋭さはなく、ただ夜の空気に言葉を溶かすような静かさだった。
「……バイト先でさ」
皆人は、自分の足元に落ちている鉋くずを見つめながら、ポツリポツリと話し始めた。人間関係のトラブルでどちらの味方もせずニュートラルでいようとしたこと
。それが結果的に嫌われ役を同僚に押し付ける形になり、「自分だけ泥をかぶらないズルい人間」だと批判されたこと。そして、翠から「嫌われるのが怖いだけで、安全な場所から出ていない」と指摘されたこと。
すべてを吐き出すと、作業場に再び鉋の滑る音だけが響いた。
泰司はしばらく無言で木枠を磨いていたが、やがて削り節をフッと息で吹き飛ばすと、腰を伸ばして皆人を見た。その瞳には、かつて己が葛藤し、傷ついてきた者だけが持つ、深い静寂が宿っていた。
「皆人」
泰司の声は柔らかかった。
「お前が言われたことは、きっと半分は当たっていて、半分は違っているよ」
「違ってる……?」
「ああ。嫌われるのが怖いという気持ちは、誰にでもある。私にもあった」
泰司は遠い目をして、裸電球のフィラメントを見つめた。
「昔、東京で働いていた頃、私は毎日が恐怖だった。周囲の熱狂についていけない自分、街を豊かにするふりをして誰かの居場所を奪う広告を描いている罪悪感。だけど、争いに飛び込んで誰かを踏みつける側になるのも怖かった。だから私は、逃げたんだ」
泰司が自身の過去をここまで直接的に語るのを、皆人は初めて聞いた。
「お前は、バイト先の争いに割って入って、どっちの主張も整えようとしたんだろう」




