第14話 泥をかぶらない人
その平穏が破れたのは、午後3時の休憩直前だった。
「だから! 俺が昨日言った通りの棚番号に仕分けされてねえだろ!」
詰所の脇から、鋭い怒声が響いた。ベテランのパート作業員である五十嵐が、若いアルバイトの佐々木の胸元を指さして詰め寄っていた。五十嵐の赤ら顔からは汗が噴き出し、怒気で肩が大きく上下している。一方の佐々木は、薄い唇をかみ締め、不満げに視線をそらしていた。
「僕は指示された通りの伝票を見て作業しただけです。五十嵐さんのメモがわかりにくかったんじゃないですか」
「何だと? 人のせいにすんのか!」
積み上げられたプラスチックコンテナがガシャリと揺れ、周囲の作業員たちが息をのんで足を止めた。フロア全体に、刺々しい緊張感が張り詰める。
皆人は、テープカッターを握りしめたまま、数歩離れた場所で立ち尽くした。胸の奥で、警報のような動悸が速くなる。誰かが怒声を張り上げる空間は、それだけで皆人の呼吸を浅くさせた。争いは何も生み出さない。互いの主張をぶつけ合えば、どちらかの尊厳が泥に塗れるだけだ。
(誰も悪くない。ただ、行き違いがあっただけなんだから……)
皆人は意を決して、二人の間にゆっくりと歩み寄った。だが、どちらかの側に立つつもりもなかった。攻撃的な熱を帯びた空気を、できる限り穏やかに中和することだけを望んでいた。
「五十嵐さん、佐々木くん、二人とも落ち着いてください」
皆人は、努めて穏やかで柔らかい声を出した。両手を軽く前に出し、荒立つ感情をなだめるような仕草を作る。
「五十嵐さんの言うことも分かります。今日の出荷スケジュールは厳しかったですから、焦るのも当然ですよ。でも、佐々木くんも悪気があって間違えたわけじゃないと思うんです。伝票の記載が少し紛らわしかったのも事実ですし……ね? ここは一旦、僕が余剰の荷物を積み直しますから。二人とも、少し休憩を入れて頭を冷やしませんか」
返ってきたのは、静まり返った沈黙だった。
五十嵐は、庇うような発言をした皆人を忌々しそうに睨みつけると、「チッ……いい年して、どっちつかずの綺麗事言いやがって」と吐き捨て、背中を向けて去っていった。残された佐々木もまた、感謝するどころか、不満げに鼻を鳴らした。
「杉本さんって、いつもそうですよね。何が言いたいのか全然わからないです」
佐々木もまた、吐き出すように言い残すと、皆人を残して立ち去ってしまった。
ぽつんと取り残された皆人は、自分の差し出した手が空を切ったような、奇妙な虚しさを覚えた。だが、その場はひとまず収まったのだと、自分に言い聞かせようとした。争いを回避し、誰も責めなかったのだから、これで良かったのだと。
だが、事態は皆人が考えていたよりもずっと醜く、歪んだ形で進行していた。
*
夕方、作業が終わり、着替えのためにプレハブの休憩室に入ったときだった。ドアの隙間から、低く漏れ出てくる会話が皆人の足を止めさせた。
「……結局、俺が立ち会って、佐々木に頭下げさせることになったよ。五十嵐さん、マジでキレてて収拾つかなくなったからさ」
声の主は、シフトリーダーの現場社員・中野だった。疲弊しきったため息が混ざっている。
「杉本がさ、昼間に適当なこと言って間に入っただろ? 『どっちも悪くない』みたいな顔してさ。おかげで余計に話がこじれたんだよ。五十嵐さんは『あいつは佐々木を庇った』って怒るし、佐々木は『杉本さんが言ったから自分は間違ってない』って居直るし。結局、俺が悪役買って出て、佐々木を説教して頭下げさせる羽目になった」
「あいつ、いつもそうだよね」
別の同僚が、冷ややかな声で応じた。
「争いを避けて、いつも優しそうな顔をして笑ってるけどさ。結局、自分だけ泥をかぶらないように逃げてるだけじゃん。本当に揉めたとき、一番ズルい立ち回り方するよね。誰も責めないふりして、面倒な仲裁とか嫌われ役は全部他人に押し付けてるんだから」
金属ロッカーの鍵がチャリと鳴る音が、皆人の耳の奥で鋭く響いた。
血の気が引いていく感覚があった。指先が凍りついたように冷たくなり、息がうまく吸えなくなる。
泥をかぶらない人。ズルい立ち回り。嫌われ役を他人に押し付けている——。
そんなつもりは、まったくなかった。ただ、誰かが傷つくのを見るのが辛くて、空間が荒れるのを防ぎたくて、争わない道を選んだはずだった。父から受け継いだ「勝ち負けに囚われない優しさ」を実践しているつもりだった。
だが、同僚たちの目には、それが「自分だけが傷つかないための卑劣な自己保身」としか映っていなかったのだ。
ドアを開けることができず、皆人はゆっくりと数歩後退した。夕闇が迫る物流倉庫の外壁に背中を預けると、冷たいコンクリートの感触が服越しに伝わってきた。自分が守ってきたつもりの「優しい世界」が、足元から音を立てて崩れ落ちていくようだった。
その日以来、アルバイト先での皆人の居場所は急速に失われていった。
誰も皆人を直接攻撃することはなかった。しかし、そこには以前のような穏やかな雑談はなく、どこか遠巻きにされるような、冷ややかな距離が置かれていた。必要な業務連絡だけが淡々と交わされ、休憩時間になると、同僚たちは皆人を避けるように別のテーブルへ移動した。
「波風を立てない」という皆人の態度は、周囲から「本音を見せず、責任を取らない人間」という烙印を押されたことを意味していた。
重い足取りで実家に帰りついたのは、夜の8時を回った頃だった。
玄関の引き戸を開けると、出汁の香りと共に、静かな暮らしの匂いが皆人を迎えた。母の由紀子は銀行の残業でまだ戻っておらず、離れの作業場からは、父の泰司が木枠を削る鉋の規則正しい音がかすかに響いていた。実家は相変わらず、外界の風雨を遮断し暖かく迎えてくれた。
だが、今の皆人にとって、その温もりはかえって胸を締め付ける拷問のように感じられた。
「おかえり」
台所で温かいお茶を注いでいた翠が、皆人の足音に気づいて振り返った。
翠は皆人の顔を一瞥するなり、小さな眉をひそめた。彼女には、兄の佇まいに纏わりつく異様な重苦しさが一目で分かったのだろう。
「なに? バイトで何かあったの」
無駄のない、直線的な問いかけだった。
「……いや、別に。何でもないよ」
皆人は努めて明るい声を出し、視線をそらしながら靴を脱ごうとした。これ以上、自分の見苦しい問題を家族に持ち込みたくなかった。
「何でもない顔じゃないよ。顔色、すごく悪い」




