第13話 低空飛行の日常
卒業後、皆人は週に三日ほど、この二つのアルバイトを掛け持ちして働くようになった。一つは、郊外にある物流倉庫での荷別け作業だった。広大でひんやりとしたコンクリートの倉庫内には、常に段ボールの匂いとガムテープの乾いた香りが満ちている。皆人の役割は、ベルトコンベアから流れてくる大小様々な箱のバーコードを読み取り、指定されたエリアのパレットへ静かに積み替えていくことだった。そこにはノルマもなければ、営業目標も、誰かと売上を競う評価制度も存在しない。ただ目の前にある荷物を傷つけないよう丁寧に扱い、正しく分類して次の工程へ送る。「はい、それあっちの三番に頼むよ」「わかりました」指示を出す年配の作業員との会話も必要最低限で済み、互いの身元や過去に踏み込む者もいない。コンベアの機械音に包まれながら、黙々と身体を動かすその単純なプロセスの繰り返しは、皆人にとってどこか救いのように思えた。
もう一つは、市街地にあるオフィスビルの深夜清掃だった。夜の十時、すべての社員が立ち去り、静まり返った高層ビルに入館する。誰もいないフロアにモップを滑らせ、集塵機の低いモーター音を響かせながら、床のワックスの匂いに包まれて作業を進める。ガラス窓の向こうには、深夜の街が静かに広がっていた。世間の狂乱から遠く離れた静寂があった。誰かを言葉で追い詰めることもなく、誰かに自分をアピールする必要もない。ただ空間を清潔に整え、朝になれば何事もなかったかのように去っていく。その主張のない働き方が、皆人の無傷でありたい心にしっくりと馴染んだ。
月に一度、バイト代が支払われると、皆人は封筒から手元に残す最小限のお小遣いと交通費を引き出し、残りの数万円をリビングのテーブルの上に置いた。「母さん、これ……少ないけど、食費として受け取って」夕食の準備をしていた母の由紀子は、包丁の手を少しだけ止め、テーブルの上の封筒と皆人の顔を交互に見つめた。地元の地方銀行で長く几帳面に勤めてきた母の目には、世間の物差しから外れ、フリーターの息子の姿がどう映っているのだろうか。一瞬の緊張が走ったが、由紀子は何も責めず、ただ「ありがとう、預かっておくわね」と静かに封筒を手に取った。
二階の自分の部屋へ戻ると、皆人は窓辺の観葉植物へ向かった。二十二歳の皆人は、自分だけの静かな生活を続けていた。
*
5月の澄んだ朝の光が、ベランダの床に整然とした格子模様を描いていた。
杉本皆人は、低いスツールに腰を降ろし、暖かいお茶を淹れていた。この時間は、皆人の心に静かな安らぎをもたらしていた。
「お兄ちゃん、そこ、水が垂れてる」
網戸の向こうから、硬質で滑らかな声が届いた。
振り返ると、翠が、台所のカウンター越しにこちらを見下ろしていた。白地に細い紺のストライプが入った綿のシャツに、濃紺のストレートパンツ。無駄な装飾のない服装は、彼女のスラリとした、涼やかな佇まいを際立たせていた。
翠は今年、地元の大学の理学部生物学科に進学したばかりだった。表向きは愛想笑いを好まないクールな「理系女子」であり、言葉の端々には常に曖昧さを排除する客観性が宿っている。彼女はガツガツとした就職競争や、若者らしい派手な交友関係には一切の興味を示さなかった。代わりに、大学の図書館を自らの拠点と定め、講義の空きコマには厚い専門書を開き、基礎実験のレポート整理や植物標本の観察記録をつける時間に黙々と没頭していた。いずれ配属される研究室や、大学内で募集される技術補佐員の枠を見据え、1年生のうちから着実に自立への足場を固めようとしているのだった。
翠の自立は、皆人のそれとはまるで質が違っていた。
「今日の午後、基礎生物学実習のレポートと文献調査で図書館に籠もるから遅くなる」
翠はトーストに無塩バターを薄く塗りながら、淡々と言った。
「母さんには伝えてあるの?」
「朝、出ていく前に言っておいた。お父さんにも離れの作業場で声かけたから大丈夫」
無駄のない伝達だった。
母の由紀子は銀行の窓口業務へ向かうため出発し、父の泰司は母屋から離れた作業場に籠もり、古くなった木枠やアクリル看板の修繕作業に没頭している。
翠は、皆人が就職活動を放棄したことについても、週3日のバイトでぶらぶらしていることについても、一度として軽蔑の言葉を口にしたことはなかった。問い詰めることもない。「お兄ちゃんはそういう選択をした」という事実を淡々と受け止めているように見えた。その干渉のなさこそが、皆人にとってはこの家の中で息をつくための救いでもあった。
だが、その居心地の良さのすぐ裏側に、冷たく粘りつくような異物が潜んでいることに、皆人は気づき始めていた。
「……翠は、すごいな」
皆人は、水滴の拭き跡が残るベランダのタイルを擦りながら、ぽつりと呟いた。
「なにが?」
翠はマグカップを手に取ったまま、眉ひとつ動かさずに聞き返した。
「いや、ちゃんと自分のやりたいことを見つけて、大学を拠点にしてさ。無駄なく自分で自分の道を作ってるじゃないか。俺なんて、ただ日々をやり過ごしてるだけなのに」
口に出した瞬間、自分の声に含まれた惨めな響きに、皆人自身が胸を突かれた。
翠はマグカップをテーブルに置くと、少しだけ首をかしげ、直視する視線を皆人に向けた。その瞳は澄み切っていて、何の容赦も含まれていない。
「別にすごいことじゃないよ。必要だからやってるだけ。自分の足で立てない状態のほうが、私にとってはリスクが高くて気持ち悪いから」
正論だった。寸分の狂いもない、硬質な事実としての正論。
「お兄ちゃんは、今の暮らしに満足してるんじゃないの? 家賃もかからないし、お父さんもお母さんも何も言わないし」
「……まあ、そうだけど」
「ならいいじゃない。比較する意味がないよ。」
翠はそう言い捨てると、空になった食器をシンクへ運び、蛇口をひねった。水流がステンレスの底を叩く激しい音が立ち上る。
彼女の言葉に悪意がないことは分かっていた。むしろ、兄を慰めようとも攻撃しようともせず、ただ純粋な合理性に基づいて事実を整理してくれたのだと理解できる。
同じ実家に暮らし、同じ親の庇護を受けながら、妹は自分の足で未来へと向かって確かに歩んでいる。一方の自分はどうか。「世間の勝ち負けに価値はない」「争わない生き方が大事だ」という父の価値観を都合よく盾にし、ただ傷つくことを恐れて殻に閉じこもっているだけなのではないか。
爪の間に残る、倉庫で扱った段ボールの紙粉の感触が、急に惨めなものに思えてくる。
週3日の清掃や仕分けの仕事場で、自分はいつも「争いを避ける親切な青年」の顔をしていた。だがそれは、他者と深く関わって嫌われるのを恐れているだけの臆病さに過ぎないのかもしれない。
「じゃあ、行ってくる」
リュックを肩にかけた翠が、玄関でスニーカーの紐をきゅっと結び直した。
「いってらっしゃい。気をつけて」
皆人が声をかけると、翠は「うん」と短く応え、木製の重い玄関ドアを開けた。
朝の光が玄関の土間に一瞬だけ眩しく差し込み、次の瞬間、ドアが静かな音を立てて閉まった。鍵がカチリと回る金属音が、残された空間に重く沈み込む。
しんと静まり返った室内で、皆人は自分の両手を見つめた。
モンステラの葉を拭いていた指先は、青くさい植物の汁で少し湿っていた。
妹が放つ圧倒的な健全さと自立の気配。それに触れるたび、自分の中に湧き上がるのは、妹への誇らしさだけではない。醜く粘りつくような、卑屈な焦りだった。自分だけが、時間の止まった温室の中で腐っていくのではないかという恐怖。
皆人はゆっくりと立ち上がり、洗面所へ向かった。鏡に映る自分の顔は、どこか頼りなく、ぼんやりと霞んでいるように見えた。水道の蛇口を強くひねり、冷たい水で何度も顔を洗ったが、胸の奥にくすぶる熱い焦燥感は、どうしても消えてくれなかった。
*
皆人は、物流倉庫にいた。乾いた紙粉と、排気ガスの匂いが漂う広大なフロア。ここでは、無数の荷物がバーコードの数字だけで分類され、効率という名のベルトコンベアに乗って次々と流れていく。誰の人生にも深く踏み込まず、自分の領分だけを静かにこなしていれば、1日は何事もなく過ぎていくはずだった。




