第12話 エントリーシートを折る日
離れの引き戸を開けると、薄暗がりの中で泰司が小さなスタンドライトの灯りだけを頼りに、木製の額縁の角を丁寧にヤスリで削っていた。木粉がふわりと舞い、香ばしい木肌の匂いが鼻腔をくすぐる。「父さん、ご飯だから母さんが呼んでるよ」「ああ、もうそんな時間か」泰司は作業の手を止め、メガネを外して目を細めた。使い込まれた道具が整然と並ぶ作業机の傍らで、皆人はふと、幼い頃に父から聞いた東京での話を思い出していた。外の世界がどんなにスピードや成果を求めて奔走しようとも、この家には「立ち止まること」を許してくれる父の過去と、それを温かく包み込んだ母の包容力があった。
しかし、季節が巡り、皆人が大学三年生を迎えた頃、彼を取り巻く平穏な環境に、少しずつ外の世界からの不穏な足音が忍び寄り始めていた。世間では長らく続いた就職氷河期がようやく底を打ち始めたなどと囁かれていたが、現場の冷え込みが急に和らぐはずもなく、企業の狭き門をめぐる厳しさと焦燥感に変わりはなかった。 秋の深まりとともに、大学のキャンパスの空気はそれまでの緩やかさを完全に失い、刺々しく尖り始めた。講義室の扉を開けるたび、皆人の鼻腔を衝いたのは、おろしたてのリクルートスーツが放つ独特の匂いと、強い糊の効いた白いシャツの匂いだった。昨日まで履き古したスニーカーとスウェット姿で並んで講義を受けていた同級生たちが、一斉に黒や紺の画一的な服に身を包み、背筋を強張らせて歩いている。「早期選考のWebテスト、もう受けたか?」「自己PRの『強み』、インターンの経験とどう絡めるかで迷っててさ」「お前、どこの業界受ける? 早期選考の枠、もう埋まり始めてるらしいぞ」大講義室のそこかしこで飛び交うのは、まるで戦場に赴く兵士のような切迫した言葉だった。投げかけられた問いに、皆人はまともな返事を返すことができなかった。
就職課が主催する説明会に参加した際、壇上でマイクを握った講師は声を張り上げて説いていた。 「他の人との差別化です! 市場での勝ち残り、自分の市場価値をどう高く見せるか、どんな貢献ができるのか。自分という商品を戦略的に売り込んでください!」スクリーンに映し出される「勝者」や「内定獲得」の二文字。周囲の学生たちが一斉にシャープペンシルを走らせ、カリカリという硬質で焦燥に満ちた音が教室中に響き渡る。その光景の中にポツンと座りながら、皆人は胸の奥から急速にこみ上げてくる冷たい目眩と不快感に耐えていた。
自分の部屋に戻り、机の上に広げたエントリーシートの白い紙を見つめる。『あなたが学生時代に成し遂げた最大の成果と、それを会社でどう活かせるかを記述してください』ペンを握る皆人の指先は、不自然に固まったまま動かなかった。成果。実績。自己アピール。皆人は握っていたペンを静かに置き、一度も文字を書き込むことのなかったエントリーシートをそっと二つ折りにした。みんなが我先にと駆け出していく就職活動という名のレースから、彼は完全に足を止めたのだった。
大学の卒業が近づいても、周囲が内定の報告に湧く中で、皆人の心はどこか遠い凪の海のように静かだった。しかし、完全に社会との接点を断ち切り、無職になって親に無用な心配や負担をかけることだけは避けたかった。自分の足で立ちつつも、決して過酷な競争の渦には巻き込まれない生き方――皆人が選んだのは、目立たず、出世もなく、ただ黙々と時間を切り売りする「低空飛行」の道だった。卒業を控え、大学の掲示板で見つけたノルマのない物流倉庫の荷別け作業と、ビル管理会社の深夜清掃のアルバイトに応募した。どちらも誰かと売上を競う必要もなければ、自分を華やかにアピールする必要もない、黙々と身体を動かすだけの静かな仕事だった。




