第10話 小さな体温
地元の産婦人科の廊下で、泰司は一人、ベンチに腰掛けていた。
薄い緑色に塗られた壁、壁面のひび割れ、消毒液のツンとした匂い、そして遠くで聞こえる病院特有の足音。深夜の地下鉄で揺られていた頃の、他者と完璧な距離を保っていた静寂とはまるで違う、命がこの世に踏み出してくるための切迫した気配が、空間を満たしていた。
壁の時計の針が刻むカチ、カチという音が、泰司の鼓膜に重く響く。
かつて自分が逃げ出した過酷な競争の世界。これから生まれてくる自分の子どももまた、いつかあの狂気のようなレースに巻き込まれてしまうのだろうか。自分のように傷つき、追い詰められ、立ち止まらざるを得なくなるのだろうか。
——いや、違う。
泰司は強く拳を握りしめた。
自分がここで「立ち止まることの優しさ」を証明し続ける限り、この子は勝ち負けの檻に閉じ込められずに済むはずだ。
分娩室のドアが開き、甲高い産声が廊下に弾けた。
昭和60年。無事に産声を上げた長男は、「皆人」と名付けられた。
ガラス越しに対面した赤ん坊は、驚くほど小さく、しわくちゃで、赤みがかった皮膚を固く縮めさせていた。抱き上げた瞬間、その軽さと、内に秘められた圧倒的な体温の重みが、泰司の腕を通じて胸の奥深くへと伝わってきた。
小さな手が、空を泳ぐようにして泰司の親指をぎゅっと握りしめた。
柔らかく、けれど確かな力強さを持った指先。
「……皆人」
泰司はその名を小さく呟いた。
*
離れに戻った三人での生活は、静かで、どこか満ち足りた規則性を持って動き始めた。
由紀子が育休を終えて銀行の窓口業務へ復帰すると、二人の役割分担はよりいっそう鮮明になった。朝、きっちりと仕立てられたスーツに身を包んで出勤していく由紀子を見送り、泰司は赤ん坊の世話をしながら、離れの作業机でデザインの仕事をこなした。
ミルクを温める鍋から立ち上る湯気。おむつを乾かすために庭に張られたロープ。風に揺れる白い布の影。
近所の年配者の中には、「男が昼間から家で子守をして、女に稼がせるなんて」と眉をひそめる者も少なからずいた。だが、泰司も由紀子も、そうした世間の「正しさ」や「型」にはまったく心を動かされなかった。
由紀子は外で数字や規律と戦い、帰宅すると泰司が整えた温かい部屋と料理に深く安らいだ。泰司は外の過酷な競争に身を晒すことなく、この離れというシェルターを守り、子どもの成長と手仕事に没頭した。二人のあいだには、互いの領分を侵さず、けれど相手が疲れたときには静かに温もりを差し出す「最高の距離感」がしっかりと根を張っていた。
夜、授乳を終えた皆人がベビーベッドの中で穏やかな寝息を立て始めると、離れにはしんとした静寂が訪れる。
泰司は小さなスタンドの灯りの下で、修繕を終えた古い道具や、皆人のために描いた素朴な動物のイラストに目を落とした。
すやすやと眠る皆人の小さな胸が、規則正しく上下している。
泰司はそっとその額に手を当て、指先で柔らかい髪を撫でた。
窓の外では、夏の夜風が実家の庭の木々を静かに揺らしていた。




