第9話 傷と調和
だからこそ、泰司の言葉はどこまでも淡々としていた。ただ目の前にある素材の性質を観察し、傷の位置を確かめ、デザイナーとしての経験と職人のような静かな眼差しで、「どうすれば最も美しい収まりになるか」を探る。それが彼にとってのすべてだった。
泰司は再び手元に視線を落とし、丁寧にヤスリを動かし始めた。
シャッ、シャッ、という規則正しい音が、裏庭の静けさに溶けていく。木の粉が微細な煙のように舞い、日光を反射してキラキラと光った。粗い傷を滑らかにし、あえて残した深い凹みのまわりに、耐水ペーパーで細やかな処理を施していく。
木枠の修繕が終わると、次は店内で使われていたアクリル製のプライスカード立てに取りかかった。長年の使用で黄ばみ、角が微小に欠けてしまった透明なプラスチック。
泰司は細かなノコギリを手に取り、欠けた角のラインに沿って真っ直ぐに刃を入れた。シャリシャリという甲高い音が響き、プラスチックが溶ける特有の臭いが鼻腔を突く。角を斜めに切り落とし、ヤスリで角を丸め直すと、それは単なる「欠けた不良品」ではなく、あえて鋭角を削ぎ落とした「流線型のオリジナルスタンド」へと生まれ変わった。
「捨ててしまえばゴミだけど、形をほんの少し変えてあげるだけで、また役割を持ってここにいられる」
泰司は完成したアクリルスタンドを光にかざした。すりガラス状に磨かれた断面が、午後の光を柔らかく屈折させている。
いま手元にあるのは、傷ついた現実そのものだった。完璧な新品を作る必要はない。傷があるなら、その傷を拒絶するのではなく、抱え込んだまま新しく調和する配置を考えればいい。
作業を続けていると、裏手の路地からコンテナを積んだ軽トラックが通りかかる音がした。
夕方近くになると、近くの工場から切削油の独特な匂いや、木材を塗るニス、金属を研磨する火花のはじける匂いが風に乗って漂ってくる。この街の人々は、単に数値を合わせることや納期を繰り上げることよりも、「どれだけ丁寧な手仕事が注がれているか」「作っている人間の温もりが残っているか」を、言葉にせずとも肌感覚で分かっていた。
地元の老舗製造業を率いる経営者たちや、現場で叩き上げてきた職人たちは、無口だが鋭い目を持っていた。どんなに派手な宣伝文句を並べ立てても、手抜きの仕事や心のない製品はすぐに見抜かれた。逆に、不器用であっても細部まで慈しむように作られたものには、惜しみない敬意と適正な対価が支払われた。
泰司の淡々とした修繕作業は、まさにこの街の底流に流れる「手の丁寧さを尊ぶ空気」と、静かに、けれど深く調和していた。
ある日、店先の看板を付け直している泰司のもとに、近所で小さな鋳物工場を営む老職人が通りかかった。作業服の袖口を油で黒く染めたその男は、足を止め、泰司が直した看板としばらく見比べた。
「……おう、お前さん。いい収まりだな」
老職人は短くそう言うと、泰司の顔も見ずにぽんと看板の端を叩き、そのまま歩み去っていった。
それだけのやり取りだった。けれど、泰司の胸には、東京のオフィスで上司から贈られたどんな上っ面の褒め言葉よりも深く、温かいものが染み渡っていった。
*
昭和60年の初夏、街を包む湿り気を含んだ風の中に、どこか甘い新緑の匂いが混じり始めていた。
実家の離れの軒先で、泰司は古びた木製のベビーベッドと向かい合っていた。近所の古い家で使われなくなり、物置の奥で埃を被っていたものを譲り受けたのだ。歳月を経て塗料は剥げかかり、四隅の柱には誰かが引っかいたような細かい傷が幾筋も走っていた。
泰司は真新しいペンキで塗りつぶすような真似はしなかった。
粗目のサンドペーパーで木肌を削り過ぎてしまわぬよう、手のひらで木目の粗さを確かめながら、丁寧に耐水ペーパーを滑らせていく。木くずが静かに落ち、長年の使用で角が滑らかに丸まった素地が顔を出す。そこに、自然由来の白い蜜蝋を薄く塗り込んでいった。
布でじっくりと磨き上げると、古木はしっとりとした深みのある光沢を帯び、ほのかなハチミツと木油の香りを放ち始めた。傷が消えたわけではない。だが、その傷の周囲を丁寧に研磨し、潤いを与えることで、傷そのものが木の「年輪」の一部として優しく馴染んでいた。
「綺麗になったね、泰司さん」
母屋の縁側から、大きくなったお腹を抱えた由紀子が静かに声をかけてきた。産休に入った彼女の表情には、銀行員としての硬さが少しずつ薄れ、柔らかな温もりが差し始めていた。
「うん。新品のプラスチック製のものより、この方がきっと肌触りがいい。角が丸くなっているから、赤ん坊が手を触れても痛くないしね」
泰司は腰を伸ばし、蜜蝋で光るベビーベッドの枠を撫でた。
東京の不動産会社にいた頃、泰司が目にしていたのは「古くなったものはすべて破壊し、新しいものに置き換える」という欲望のサイクルだった。古い街並みも、住まい手の記憶も、すべて効率という重圧の前に擦り潰されていった。だが、こうして傷ついたものに手を添え、新しい命を迎え入れる器へと仕立て直す時間の中に、泰司は生きている実感を確かに得ていた。
その年の夏、強い日差しが路地の照り返しを強める頃、由紀子に陣痛が訪れた。




