16:00 帰還、そして『暴走する叡智』
夕暮れの空がわずかに茜色に染まり始めた頃。
俺とミアは、微睡みの谷での採取を終え、無事に冒険者ギルドへと帰還した。
行き帰りの徒歩での移動と、2時間ほどの採取作業。前の世界でデスクワーク中心だった俺の体なら、本来なら足腰が悲鳴を上げている頃合いだった。
だが、異世界転生してからというもの、ずっと身体が軽い。前の世界で溜め込んでいた不調が消えたのか、あるいはこれも魔法の恩恵なのかもしれない。
とはいえ、出発前に処方した『モダフィニル』の強力な覚醒作用によって、頭の奥だけは不気味なほどに冴え渡っていた。
「ふふっ。トオル様、袋がピカピカ光ってて、なんだか不思議ですね」
隣を歩くミアは、自分が背負うと主張して聞かなかった大きな麻袋を抱え、誇らしげに獣耳を揺らしている。彼女に処方した無水カフェインの効果もまだ持続しているようで、若干テンションが高いのはそのせいだろう。
年季の入った木扉を押し開けてギルドのホールに入ると、昼間よりもさらに熱気と喧噪が増していた。夕刻になり、近場での日帰り依頼を終えた冒険者たちが続々と戻ってきて、酒場で宴会を始めているのだ。エールと脂っこい肉の匂い、そしてあちこちから聞こえる豪快な笑い声。
俺たちは人混みを縫うようにして、朝方に依頼を受注した受付カウンターへと向かった。
「すみません、依頼の報告をお願いします」
「はい、お疲れ様です……あ!」
カウンター越しに顔を上げたのは、昼間に俺たちの依頼受注をやんわりと制止してくれた、あの親切な女性職員だった。彼女は俺とミアの顔を交互に見ると、少しホッとしたような、それでいて困ったような表情を浮かべた。
「お帰りなさいませ。その……お怪我がなくて何よりです。魔法の保存箱を持たずに『微睡みの谷』へ向かわれたので、心配していたんですよ。やはり、極光草はすぐに枯れてしまって採取できなかったでしょう?今回は残念でしたが、駆け出しの頃は依頼の失敗なんてよくあることですから――」
彼女が慰めの言葉を紡ごうとしたのを遮るように、俺はミアに目配せをした。
「ミア、袋をカウンターに」
「はいっ」
ミアがコトン、と麻袋をカウンターの上に置く。すでに袋の隙間からは、淡い夜空のような虹色の光が漏れ出していた。
「……え? まさか、その光は……」
怪訝な顔をした受付の女性職員が、おずおずと麻袋の口を開いた、その瞬間だった。
――ふわり。
麻袋の中から、幻想的で瑞々しい虹色の光が、カウンター周辺を一気に照らし出した。
「なっ……!?」
女性職員は息を呑み、目を限界まで見開いた。言葉を失い、震える手で袋の中の極光草を取り出す。
それは、土から引き抜かれて数時間が経過しているとは到底思えないほど、完璧な鮮度を保っていた。葉脈の一つ一つまでが青白く脈打ち、枯れるどころか、黒ずみすら一切見当たらない。
「ま、魔法の保存箱もなしで、どうしてこんな完璧な状態で……!?」
彼女の信じられないといった悲鳴に近い声が、喧噪に包まれていたギルドのホールに不自然に響き渡った。
その声と、麻袋から溢れ出す強烈な光に引き寄せられ、近くでジョッキを傾けていた冒険者たちが次々とカウンターへと集まってきた。
「おいおい、嘘だろ……。あれ、全部『極光草』か!?」
「保存箱もなしに、麻袋に直接ぶち込んで持ち帰ってきたってのか!? 常識で考えろ、摘んだそばから消し炭みたいに枯れちまうはずだぞ!」
「でも現に、ピンピンして光ってるじゃねえか。どういう手品だ……?」
過去に色々な魔法で極光草を持ち帰ろうと試した者はいたようだが、どれも効率が悪かった。魔法で直接空間を切り離したとして、それを維持して帰るなど、正気の沙汰ではなかったのだ。だからこそ、高価な魔法の保存箱に頼るのがこの世界における絶対的なセオリーだった。
瞬く間に、俺とミアは屈強な冒険者たちの人垣に囲まれてしまった。
(……しまった。これは完全に俺のミスだ)
モダフィニルの覚醒作用で、少し気持ちがハイになっていたのかもしれない。高速回転する脳内で、俺は瞬時に状況を分析し、盛大に後悔した。
現代日本の薬剤師である俺にとって、『抗酸化剤(アスコルビン酸)を用いて植物の酸化・自己分解を防ぐ』というアプローチは、食品や薬品の保存においてごく当たり前の基礎知識だった。だからこそ「保存箱がないなら、魔法で直接コーティングすればいい」と安直に考えてしまったのだ。俺は自分の中の『当たり前』を適用した結果、この世界の『常識』を完全に破壊してしまっていた。
目立ちすぎるのは避けたかった。適当にGランクの依頼をこなしながら、少しずつこの世界に順応していくつもりだったのに、いきなり大注目を浴びてしまったのだ。
(どう言い訳したものか……。『田舎の村に伝わる秘伝の薬液に浸しました』とか、適当な嘘で誤魔化しきれるか……?)
俺が冷や汗を流しながら必死に言い訳を考えていた、その時だった。
「ねえねえ、それ僕にも見せてよ!」
屈強な冒険者たちで作られた分厚い人垣を縫って、無邪気で高く澄んだ声が響いた。
まるで、そこだけ空気が変わったかのようだった。
飛び出してきたのは、一人の『少年』だった。年齢は十代半ばほどに見える。太陽の光を編み込んだような金糸の癖っ毛に、宝石のように輝くエメラルドの瞳。小柄で華奢な体格だが、髪の隙間から覗く長く尖った耳と、人間離れした整った容姿が、彼がエルフであることを明確に示している。
彼が姿を現した瞬間、先ほどまで騒ぎ立てていた荒くれ者の冒険者たちの顔色が一瞬にして青ざめた。
「ゼ、ゼニスだ……ッ!」
「なぜ、神域到達者がこんなところに……!」
ひっ、と短い悲鳴が上がり、まるでモーセの十戒のように、冒険者たちが蜘蛛の子を散らすように怯えて道を空けた。遠巻きに距離を取り、誰もが一歩たりとも彼に近づこうとしない。
(……ゼニス。確か、朝の掲示板の前で冒険者たちが噂していた、この世界における『トップ20の達人たち』の総称だったか。一人で一国の軍隊に匹敵する化物だって言ってたな……)
目の前にいるのは、どう見ても天真爛漫なエルフの少年にしか見えない。だが、周囲の異常なまでの怯え方が、彼がただの子供ではないことを証明していた。
少年は周囲の視線や恐怖など全く気にする素振りも見せず、ふわりと軽快な身のこなしで受付カウンターの上に跳び乗り、あぐらをかいて座り込んだ。
そして、受付の女性が震える手で持っていた極光草をひったくるように受け取ると、そのエメラルドの瞳をキラキラと輝かせ、至近距離からまじまじと観察し始めた。
「わぁ!! 綺麗で輝きを全く失ってない!」
少年は極光草の茎を指先でなぞりながら、独り言のようにつぶやき始めた。
「普通の保存魔法……つまり時空間への干渉による凍結や、単純な時間停止の魔法の痕跡はない。これはただ時間を止めてるわけじゃないんだ、、、うん。物質をダメにしちゃう『現象』そのものを、別の成分を身代わりにして阻害してるんだね! 外部からの見えない魔力が、草の代わりに真っ先に攻撃を受けて壊れることで、中の組織を完全に守り抜いてる。すごい理屈だ!」
(……なっ!?)
俺は心臓が口から飛び出そうになるほどの衝撃を受けた。
なんだこいつは。ただ極光草の表面を一目見ただけで、俺の『薬効顕現』によるアスコルビン酸(ビタミンC)の自己犠牲的な抗酸化メカニズムを、ほぼ完璧に見抜いたというのか!? 顕微鏡も、化学の概念も未発達なこのファンタジー世界で、魔力の痕跡から『身代わりによる阻害(自己犠牲的抗酸化)』という答えに自力で辿り着くなんて、天才なんてものではない。文字通り、神の領域の観察眼だ。
少年は極光草から顔を上げ、カウンターの上であぐらをかいたまま、無邪気な瞳で真っ直ぐに俺を見た。その瞳の奥には、底知れない知的好奇心と、一切の誤魔化しを許さないような圧倒的な威圧感が渦巻いていた。
「僕はエルティス。通り名は【暴走する叡智】-カオス・ジーニアス-」
少年の名乗りに、ギルド内の空気がさらに一段階、凍りついたように冷たくなった。
「ねえ、お兄さん。その魔法の原理、僕にたっぷり教えてくれない?」
エルティスは無邪気に小首を傾げ、満面の笑みを浮かべた。だが、その声には「No」という返答を一切想定していない、絶対的な強者の響きがあった。
「トオル様……!」
その時、俺の斜め後ろに控えていたミアが、ハッと弾かれたように俺の前に立ち塞がった。
彼女は新しく買ったばかりのショートソードの柄に手をかけ、震える足を踏ん張りながら、エルティスを鋭い眼光で睨みつけている。
彼女の獣人としての野生の勘が、目の前のエルフの少年が放つ圧倒的な『力』と『危険性』を正確に察知しているのだ。勝てるはずもない相手。それでも、彼女は俺を守るために、己の恐怖をねじ伏せて牙を剥いている。
「ミア、待って。剣から手を離してくれ」
「で、でも……この人、すごく危険な匂いがします……!」
「大丈夫だ。彼には敵意はない。ただ、知りたいだけなんだよな?」
俺はミアの小さな肩に優しく手を置き、彼女を落ち着かせながら前に出た。ここでゼニスを相手に戦闘態勢をとるなど、自殺行為以外の何物でもない。
エルティスはミアの警戒を全く意に介さず、ただひたすらに俺の言葉を待っていた。彼のエメラルドの瞳は、「早く新しい知識をよこせ」と強烈に飢え渇いている。
(【暴走する叡智】、か。……下手な嘘をついて誤魔化そうとすれば、逆に興味を引いて解剖されかねないな)
薬学という現代の叡智を持つ俺と、魔法という未知の力で世界の真理を暴き出そうとする異世界の天才。交わるはずのなかった二つの理が、今、このギルドの片隅で激突しようとしていた。




