16:16 暴走する叡智からの招待状
「……悪いけど、これは俺の故郷の秘伝の知識なんだ。いくら神域到達者の頼みでも、おいそれとは教えられないよ」
張り詰めた空気の中、俺は極力穏やかな、しかし決して譲らないという確固たる意志を込めたトーンでやんわりと断った。
この少年に『アスコルビン酸(ビタミンC)』だの『酸化と還元』だのと現代化学の基礎を馬鹿正直に語ったところで、魔法が生活に根強くあるこの世界で正しく理解されるとは思えない。それに、未知の理を持つ異端者として目をつけられ、どこかの権力者に囲われて不自由な生活を強いられたり、得体の知れない面倒事に巻き込まれたりするリスクは避けたい。平穏に旅をするという俺の目標から完全に外れてしまうからだ。
「えー、ケチだなあ。せっかく面白いおもちゃを見つけたと思ったのに」
エルティスは子供っぽくあからさまに頬を膨らませて不満を露わにした。しかし、そのエメラルドの瞳の奥には、落胆どころか、むしろ新たな謎を前にした天才特有の、狂気じみた好奇心の炎がメラメラと燃え上がっているのが見て取れた。華奢で小柄な体格に似合わず、彼が放つ存在感は周囲の空間そのものを歪ませているかのように重く、息苦しい。
「だったらさ、お兄さん。君のその『故郷の理屈』とやらが、極光草の鮮度を保つだけじゃなく、本当に実戦レベルでどれだけ通用するのか、僕に見せてよ!」
カウンターの上であぐらをかいていたエルティスが身を乗り出し、細く白い指でビシッと俺の鼻先を指差した。
「『ゼニスへの出動要請』の話は聞いた? 実はあれ、僕が指名で呼ばれてるんだ。場所はここから少し北にある『腐死の沼地』さ」
「……腐死の沼地」
その禍々しい地名がエルティスの口から出た途端、遠巻きに様子を窺っていたギルド内の冒険者たちが「ヒッ」と一斉に息を呑み、さらにジリジリと後ずさった。誰もが恐怖に顔を引きつらせている。
「あそこはね、致死性の『瘴気(猛毒ガス)』が絶え間なく常時噴き出している、この辺りじゃ最悪のダンジョンなんだ。今回の僕への依頼は、その沼地の最深部にあるという『緑命石』の採取。新緑に光り、若草のような香りのする不思議な石なんだけど、王都にいるある有力貴族の一人娘の重い病を治すのに、どうしてもすぐに必要なんだってさ」
「石を拾うだけなら、ゼニスのあんたがパパッと飛んでいって終わらせればすぐじゃないのか?」
俺が素朴な疑問を口にすると、エルティスは心底忌々しそうに美しい顔をしかめた。
「それがね、そう簡単じゃないんだよ。ゼニスである僕の魔法なら、もちろん瘴気を解毒することはできる。でも、あそこは呼吸をするたびに致死量の毒を吸い込み続ける環境なんだ。つまり、沼地にいる間は四六時中、自分の周囲に風魔法を展開し続けなきゃいけない。いくら僕でも、魔力を放出し続けながら、魔物を倒して最深部まで歩いて探索するなんて魔力効率が悪すぎるし、辿り着くのだけでも一苦労なんだ」
エルティスは「今ちょうど、そこをギルドマスターに文句言ってたとこ」と唇を尖らせた。
「いくらゼニスだからって、『万能の匣』や『凱歌の絶』みたいになんでもできるわけじゃないんだって!」
彼はぷんすかと怒った後、ふと表情を切り替え、探るように俺の顔を下から覗き込んだ。
「ねえ、お兄さん。腐死の沼地の瘴気は最悪だよ。少しでも吸い込んだ者は、あっという間に瞳孔が針のように縮んで、大量の涎と涙を流して苦しみ回り、最後は呼吸ができなくなって窒息死する。……ねえ、君のその不思議な魔法なら、この瘴気も防げるんじゃないの?」
(……瞳孔の針小化(縮瞳)、異常な分泌物、そして呼吸筋の麻痺)
エルティスの語った瘴気の症状を聞いた瞬間、モダフィニルの効果で高速回転を維持している俺の脳内で、薬剤師としての膨大な知識データベースがバチッ、と一つの明確な解答を弾き出した。
(間違いない。これらは全て、副交感神経が異常に興奮し続けることで起こる典型的な『コリン作動性クリーゼ』の症状だ。自律神経を制御するアセチルコリンを分解する酵素の働きが阻害され、神経回路がショートしたように暴走してしまう状態。つまり、この異世界の「瘴気」とやらの正体は、サリンやVXガスのような有機リン系化合物の神経毒と、全く同じメカニズムで人体を破壊している可能性が極めて高い!)
現代医療において、有機リン中毒の解毒および防護メカニズムは完全に確立されている。
俺の『薬効顕現』で、この抗コリン作用を事前に強制発現させれば、致死性の瘴気の中でどれだけ深呼吸をしようが、理論上は完全にノーダメージで歩き回れるはずだ。
「……防げる、と思う。ただし、俺の魔法は対象に直接触れないと発動しないという制約がある。それでもいいなら、あんたを瘴気から守ることは可能だ」
俺が静かに、だが確信を持って告げると、エルティスのエメラルドの瞳がパァンッと劇的に輝いた。
「本当!? すごいすごい、決まりだ! 君も僕と一緒においでよ! 君が毒を防いでくれるなら、僕は探索に全力を注げる。楽勝で最深部まで行けるよ!」
エルティスはカウンターから飛び降りると、無邪気に笑いながら俺の手をギュッと両手で握りしめた。エルフ特有の冷たい肌だが、握られた手からは万力のような恐ろしい力が伝わってくる。
「分かった。……ただ、ミアは置いていく。その場所は彼女には危なすぎる」
俺がミアを振り返ってそう告げると、彼女はハッとして、すぐに首を横に振った。
「だ、ダメです! わたしはトオル様の相棒です。どんなに危険な場所でも、必ずお供します……!」
「でも、ミア。相手は強力な魔物と致死性の毒だ。もし俺の魔法が解けたり、何か予想外のことが起きたら――」
「それでもです! わたしは、いつでもトオル様と一緒です!」
普段は控えめなミアが、今日一番の強い意志を込めた瞳で俺を見上げてくる。その小さな両手は、俺の服の袖をぎゅっと握りしめて離そうとしなかった。
俺が困惑してエルティスを見ると、彼はケラケラと笑い声を上げた。
「いいじゃん、連れてきなよ。僕からすれば、守る対象が一人も二人も変わらないよ。君が僕を毒から守ってくれるなら、僕が君たち二人を魔物から守るからさ! 簡単な取引でしょ?」
ゼニスのその言葉には、圧倒的な実力に裏打ちされた自信が満ち溢れていた。
「……分かった。ミア、俺の指示には絶対に従うこと。それが条件だ」
「はいっ……!」
ミアはパッと表情を明るくして、嬉しそうに獣耳を揺らした。
「じゃあ決まりだね。今からすぐに出発しよう!」
「いや、悪いが明日の朝にしてくれないか?」
「えっ? なんで?」
「今日はもう極光草の採取でひと仕事終えたばかりで、俺もミアも、かなり疲労が溜まっているんだ。これから夜の沼地に突入するなんて自殺行為だ」
俺が真顔で言うと、エルティスはきょとんとした。
実際のところ、俺は『モダフィニル』のせいで今夜は目が冴えきっているが、魔法のクールタイム(半減期)の制約上、万が一の事態に備えて他の薬効もリセットしておきたい。何より、こんな予測不能な天才エルフといきなり致死性のダンジョンに潜るなど、入念な準備なしではリスクが高すぎる。
「えー! せっかく君っていう面白いピースが手に入ったんだから、今すぐ行きたいのに! ……まあ、でも防毒の要である君が途中で倒れちゃったら元も子もないし、仕方ないか」
エルティスは少し不満げに顎に手を当てたが、すぐに合理的な判断を下したようだ。
「わかった、じゃあ明日の朝一番にこのギルドで待ち合わせね! あ、報酬はもちろん、僕の取り分からたっぷり弾んであげるから心配しないで」
「ああ、約束するよ」
「絶対だからね! 僕を待たせたら、君たちごとこの街を爆破しちゃうぞ!」
エルティスは無邪気で物騒極まりない冗談をニカッと笑いながら言い残すと、来た時と同じようにふわりと身を翻し、嵐のようにギルドの扉の向こうへと去っていった。
彼が完全に姿を消して数秒後、ギルド内を包んでいた氷のような緊張感が一気に解け、あちこちから安堵の大きなため息が漏れた。
「トオル様……あの、本当によろしかったのですか? いくら疲れているからといって、神域到達者の方をお待たせするなんて……。もし機嫌を損ねて、トオル様に危害を加えられたら……」
エルティスが去った後も、ミアは警戒を解ききれない様子で、ショートソードの柄を握りしめたまま不安そうに見上げてきた。その小さな背中は、圧倒的な強者と対峙した恐怖で微かに震えている。
「大丈夫だよ、ミア。彼には純粋な知識欲はあっても、俺たちを害する意思はなかった。それに、どんな相手だろうと俺たちの安全とコンディションが第一だ。焦って命を落としたら意味がないからね」
俺は彼女の小さな震える手を優しく包み込み、安心させるようにポンポンと叩いた。
「それに、今日は二人で初めてのクエストを無事に達成できたんだ。よく考えたら、俺たち昨日から何も食べてないだろ? 少し張り切りすぎたな」
俺がいたずらっぽく笑うと、ミアはようやく緊張の糸が切れたようにふにゃりと相好を崩し、心底安心したように銀色の獣耳をピコピコと揺らした。
「ふふっ、はいっ……! お腹、ぺこぺこです」
冒険者たちの畏怖と好奇の視線が突き刺さる中、これ以上目立つのは得策ではないと判断した俺たちは、足早にギルドを後にした。
外に出ると、西の空には美しい茜色の夕焼けが広がり、雲の隙間から差し込む光が石畳の通りを黄金色に染め上げていた。市場の方からは、晩飯の支度をする美味しそうな匂いが漂い始めている。
「さて、ミア。今日の夕飯は奮発しよう。何か食べたいものはあるか?」
「ええっ!? わ、わたしはトオル様と一緒なら、なんでも……あ、でも……」
ミアは少し恥ずかしそうに目を伏せ、それからパッと顔を上げて満面の笑みを浮かべた。
「さっき市場で見た、大きなお肉の串焼きが、すごく美味しそうでした……!」
「よし、せっかくならもっと大きなお肉を食べよう! お腹いっぱいお祝いして、明日の大一番に向けてしっかり体力をつけておかないとな」
夕日に照らされる石畳の道を、俺たちは連れ立って、今夜の宿へと向かって歩き出した。
明日、この世界における最上位の理不尽と共に、最悪のダンジョンへと足を踏み入れることになるとは、異世界で目覚めた時には想像すらしていなかった。
だが不思議と、恐怖よりも、自分の持つ『薬理の知識』がこのファンタジー世界でどこまで通用するのかという期待感が、俺の胸の中で静かに高まっていた。




