18:30 異世界の食卓と、隠された体質
宿の1階に併設された酒場兼食堂は、一日の探索を終えた冒険者たちの熱気と、立ち込める香ばしい匂いで満ちていた。
木製のジョッキがぶつかり合う乾杯の音、その日一日の成果を自慢し合う豪快な笑い声、そして厨房から聞こえてくる肉を焼く心地よい音。部屋の片隅では吟遊詩人らしき男がリュートを爪弾き、陽気なメロディが酒場の空気をさらに温めている。
昨日この異世界に転生してきたばかりの時は、ただただ圧倒されるばかりだったこの喧騒も、自分の持つ薬学知識と能力がこの世界で通用すると確信を持てた今となっては、不思議と居心地の良いBGMのように感じられた。
ホールの中央にある空き席に陣取った俺たちの前に、給仕の女性が湯気を立てる異世界ならではの料理を次々と運んでくる。
「おおっ、美味そう……! 匂いだけでお腹が鳴りそうだ」
頼んだメニューは三品。明日の大一番への景気付けとして、少し奮発して注文したものだ。
メインは『ホーンボアの香草焼き』。熱く熱せられた分厚い鉄板の上で、豪快にカットされた魔物の肉がジュージューと食欲をそそる音を立て、弾ける脂が香草の爽やかな香りを周囲に撒き散らしている。
さらに、深めのお椀になみなみと注がれた『月明かり茸のポタージュ』と、木製のボウルに山盛りになった『トレントの新芽のサラダ』。それに、ふっくらと焼き上げられた素朴な丸パンがバスケットに入れられて添えられていた。パンからは小麦の甘い香りが漂い、割ればほんのりと湯気を立てるほどの焼きたてだ。
「トオル様、魔物のお肉を食べるのは初めてですか?」
目を輝かせて鉄板を見つめる俺を見て、ミアが不思議そうに首を傾げた。
「ああ。俺の元いた場所には魔物なんていなかったから」
ホーンボアといえば、今日の昼間に市場を通りかかった際、解体所で逆さ吊りにされているのを見た記憶がある。牛みたいな見た目に、額から突き出した鋭く太い一本角。毛皮は硬く、牙は岩すら砕くという話だ。暴れたら大人数人がかりでも止められなさそうな凶暴な外見をしていたが……まさか、それがこんなに美味そうなステーキに化けるとは。
俺はナイフで分厚い肉を切り分け、フォークで刺して一口頬張った。
「……っ! 美味い!」
思わず声が漏れた。噛み締めた瞬間、野性味溢れる濃厚な赤身の旨味と、甘みのある脂の肉汁が口いっぱいに弾け飛んだ。ガツンとくる力強い味わいだが、表面にまぶされた数種類の香草とピリッと辛い香辛料の風味が、肉のクセを完全に抑え込み、食欲を無限に増進させるスパイスとして機能している。
(やっぱり見た目は牛肉だな。味も完全に上質な牛肉だ。よし、こいつは心の中で牛と呼ぼう)
「こっちのスープもすごいな。本当に淡く光ってるぞ」
続いて、スプーンで『月明かり茸のポタージュ』を掬ってみる。その名の通り、クリーム色のポタージュ自体が、まるで蓄光塗料でも混ぜたかのように自ら淡く発光しているのだ。暗い森の中で夜間にだけ光る不思議なキノコをすり潰して煮込んだものらしい。
少しドキドキしながら口に運ぶと――これがまた絶品だった。滑らかでクリーミーな舌触りの中に、ポルチーニ茸にも似た芳醇で深い香りが鼻へと抜け、濃厚なコクが疲れた喉の奥を温めてくれる。発光している見た目とは裏腹に、非常に優しくホッとする味わいだ。一口飲むごとに、身体の芯からじんわりと力が湧いてくるような気さえする。
「サラダもシャキシャキして美味しいですよ、トオル様」
ミアのお勧めに従って、『トレントの新芽のサラダ』にも手を伸ばす。トレントといえば、歩き回る大樹の魔物のはずだ。木を食べるのか? と半信半疑で噛んでみると、レタスやアスパラガスをさらに瑞々しくしたような、小気味良いシャキシャキとした食感が口の中で弾けた。ほのかな苦味と清涼感があり、それに酸味の効いた果実のドレッシングが絶妙にマッチして、ホーンボアの濃厚な脂をスッキリと洗い流してくれる。
(美味い……! 魔物や異世界の植物って、最高の食材になるんだな……。ファンタジー世界の生態系を薬草や毒草の観点から調べるのも面白いけど、こういう未知の美味しいご飯を探求していくのも、これからの旅の大きな目的になりそうだ)
俺は次々と料理を口に運びながら、密かに一つの野望を抱いた。いつか、こういう不思議な食材の特性を完璧に理解して、最高に美味しく調理できる料理自慢の人とパーティーを組めたら最高なんだけどなぁ、と。
「ふふっ、本当に美味しいですね。わたし、こんなに温かくて美味しいお肉やパンを食べるの、生まれて初めてかもしれません……!」
俺の向かいの席では、ミアも心底幸せそうに目を細め、両手でちぎった丸パンを口に運んでいた。
ふわふわのパンをポタージュに浸して頬張り、大きなホーンボアの肉を小さな口で一生懸命に咀嚼する。その様子は、見ているこちらまで幸せな気分にさせてくれるほど愛らしかった。
(過酷な環境にいたはずなのに……食べ方はどこか品があるというか、ガサツではないんだよなぁ)
ナイフやフォークの使い方も、誰かに教わったかのように自然で丁寧だ。背筋を伸ばし、こぼさないように口元に運ぶ仕草には、育ちの良さのようなものすら感じられる。彼女が失ってしまったという過去の記憶の中に、その理由が隠されているのだろうか。
だが――俺が目を細めて彼女の食事風景を眺めていた、その時だった。
丸パンを数口食べた直後。ミアの銀色の獣耳が、ピクリと不自然に跳ねた。
そして、彼女の指先が無意識のうちに持ち上がり、自分の首筋をポリポリと掻こうと動いた。
「ん……?」
俺は身を乗り出し、酒場のランプの灯りを頼りに彼女の首筋へと目を凝らす。
すると、白い肌の上に、ほんのわずかだが、ポツリポツリと虫刺されのような赤い発疹が浮かび上がっているではないか。
(蕁麻疹の初期症状だ……!)
昨晩、俺は彼女に『ルパタジン』を投与した。ルパタジンは抗ヒスタミン作用を持つ強力な薬であり、まだ薬の効力は彼女の体内に残っているはずだ。だからこそ、奴隷商館で見たような全身を覆う酷い爛れには至っていない。
だが、それでも抗ヒスタミン薬の防御壁を僅かに突破して、アレルギー反応が漏れ出ている。
俺は彼女が食べていたパンを見つめた。
(十中八九、小麦だよな。それに牛乳か卵も使われているかもしれない。このどれかに強いアレルギー反応を示しているのか? いや、それだけじゃないかもしれない)
薬剤師としての思考がフル回転する。アレルギー反応というのは、単一の食材だけで起こるとは限らない。その日の体調、疲労、ストレスによって発症の閾値は大きく変動する。それに、ジニスさんの商館では普通の麦粥やパンが与えられていたはずだ。だとしたら、あの重度の全身蕁麻疹は、特定の食材だけでなく、長期間にわたる劣悪な環境下でのストレスや、多種多様なアレルゲンへの曝露によって、免疫系そのものが悲鳴を上げていた結果なのかもしれない。
原因は小麦だけではない。特定の肉、果物、あるいは環境要因。今の時点じゃ、検査機器もないこの異世界では分からないことが多すぎる。
一瞬、「そのパンを食べるのをやめさせようか」という考えが頭をよぎった。原因と思われる物質を遠ざけるのは、アレルギー治療の基本中の基本だからだ。
だが、ポタージュに浸したパンを美味しそうに見つめるミアの顔を見て、俺はその考えを即座に打ち消した。
(原因の特定は、これからゆっくり時間をかけてやっていけばいい。食事制限をして悲しい思いをさせるより、今は彼女に食事の楽しさを知ってもらう方が先だ。それに――アレルギーが出たとしても、俺の魔法で抑えれば良いだけだ)
俺はテーブル越しに手を伸ばし、パンを持とうとしていたミアの小さな手にそっと触れた。
「えっ? と、トオル様……?」
不思議そうに瞬きをするミアを見つめ返し、俺は胸の奥のデータベースにアクセスして魔力を練り上げた。
「――『薬効顕現』。処方、プレドニゾロン。指定【主作用:強力な免疫抑制および抗炎症作用】!」
『プレドニゾロンの投与を確認。当該薬品の半減期:約3時間。向こう3時間、トオルはプレドニゾロンを使用できません』
俺の手から淡い金色の光の粒子が溢れ出し、ミアの身体へと吸い込まれていく。昨夜に使ってからすでに半減期は過ぎていたため、問題なく発動できた。
ステロイドの即効性は凄まじい。魔法が発動した直後、ミアの首筋に浮かび上がっていたわずかな赤い発疹は、まるで幻だったかのようにスーッと皮膚の奥へと消えていき、痒みも完全に引いたようだ。
「あっ……! なんだか首のチクチクした感じが、一瞬でなくなりました……」
ミアが目を丸くして自分の首筋に触れる。
「ああ、少し疲れが出てたみたいだから、魔法をかけておいたよ。これで大丈夫だ」
俺はニッコリと笑って、自分の分のホーンボアの肉を切り分けた。
「どんなものも、楽しく食べよう。せっかくの美味しいご飯なんだから、好きなものを好きなだけ食べていいぞ」
「はいっ……! ありがとうございます、トオル様!」
ミアはパッと表情を明るくして、再び嬉しそうにパンとスープに手を伸ばした。
美味しそうに頬張る彼女の笑顔を見つめながら、俺は温かいパンを口に運んだ。
彼女の失われた記憶。そして、複雑に絡み合ったアレルギー体質。まだまだ謎も問題も山積みだが、決して焦る必要はない。どんな症状が出ようと、俺の現代薬学の知識とこの魔法があれば、彼女を守り抜き、一つずつ確実に解き明かしていくことができる。
明日の朝には、あの厄介で底知れないエルフの天才・エルティスと共に、致死性の瘴気が立ち込める『腐死の沼地』への探索が控えている。未知の危険が待っているだろうが、今はただ、この温かい食事と穏やかな時間を存分に味わおう。




