転生4日目 朝6時 腐死の沼地と緑命石
翌朝。約束通り冒険者ギルドへ向かうと、入り口の前で腕を組んでパタパタと足踏みをしている金糸の髪を揺らすエルフの少年――【暴走する叡智】ことエルティスの姿があった。
「遅い遅い!朝一番って言ったでしょ、待ちくたびれてギルドの入り口を爆破しちゃうところだったよ!」
「悪かったよ。でも、おかげでしっかり休めたから万全の状態だ。いつでも行けるぞ」
「ふふっ、その自信満々な顔、期待してるからね! さあ、出発だ!」
そう言うと、エルティスは懐から淡く光る宝石を取り出した。
「今回はギルドからゼニス(僕)への直接依頼だからね、特別にこの『転移魔法石』の使用許可が出てるんだ。範囲魔法石だから、半径10メートル以内で僕の魔力でマーキングしてあるものは一緒に任意で飛ばせるよ」
「へえ、そんな便利なアイテムがあるのか。ちなみにそれ、普通に買うといくらくらいするんだ?」
「んー? 使い捨てで、金貨500枚だったかな?」
「ご、500枚!? まあ、一瞬でどこへでも行けるほど便利ならそれくらいするか……にしても高すぎるな」
「これはギルドからの支給品だよ。それだけの金貨があるなら僕は実験に使うしね。まあ、僕にとっては500枚なんて端金だけど」
(金貨500枚、つまり約500万円が端金……。ゼニスって、儲かるんだなぁ)
次元の違う金銭感覚に呆れていると、エルティスが石に魔力を込めた。途端に視界が真っ白な光に包まれ、足元の感覚がフワリと浮き上がる。
次の瞬間――。
「わわっ!? い、一瞬で景色が変わりました! トオル様、魔法ってすごいです!」
ミアが獣耳をピコピコと逆立て、目を丸くして驚きの声を上げた。俺たちは街から一瞬にして、目的の場所――『腐死の沼地』の入り口に立っていたのだ。
周囲の植生は完全に枯れ果て、どす黒い泥が支配する異様な空間が広がっている。
ボコボコと不気味な音を立てて湧き上がる泥沼からは、視認できるほど濃密な紫と緑が混ざったような『瘴気』が、絶え間なく噴き出している。周囲には鳥の鳴き声一つなく、ただ死の気配だけが立ち込めていた。
「さあ、着いたよ。ここから先は一呼吸でもすればアウトな猛毒地帯だ。ここは魔物はそこまで強くないし、ダンジョンの規模としては最小クラスで初心者には持ってこい、なんだけど……。この環境だからね、来れる人も少ないし、踏破もされてないんじゃないかな? ボスがなんなのかも知らないや。そんなことより、君の魔法、本当にいけるんだろうね?」
エルティスがエメラルドの瞳を輝かせて振り返る。
「ああ、任せてくれ。今から完璧な防毒バフをかける」
俺は平静を装いながら答えた。
ふと視線を落とすと、沼の入り口付近の道の途中で死んでいたタヌキのような魔物が転がっていた。しゃがみ込んでその死骸を見てみると、針のように極端に縮んだ瞳孔や、口からとめどなく溢れ出した異常な量の泡など、昨日エルティスから聞いていた通りの死因だった。
ここで俺は、ほぼ間違いないと確信する。
相手はサリンやVXガスと同等の極悪な有機リン系神経毒だ。同じ薬は連続で使えない。だからこそ、俺の頭の中のデータベースから、自律神経の暴走を抑える薬と、毒を酵素から引き剥がす薬の中から、最も確実で強力な3種類をピックアップする。
「まずはエルティス、手を出してくれ」
はいはーい、と軽く手を出してくる。
俺は直接触れて魔力を通した。
「――『薬効顕現』。処方、硫酸アトロピン!」
先陣を切るエルティスには、副交感神経の暴走をブロックする最も有名で確実な抗コリン薬、アトロピンを。半減期は約4時間。
「次はミア。手を出して」
俺はミアの華奢な手を優しく握り込み、魔力を注ぎ込む。
「――『薬効顕現』。処方、スコポラミン!」
ミアには、アトロピンと似た作用を持ちつつ、鎮静作用も併せ持つ強力なアルカロイド、スコポラミンを。半減期は約4.5時間。初めての戦闘の可能性があるから、鎮静作用はきっと効果があるはずだ。
「そして最後、俺だ」
自分の胸元に直接手を当て、意識を集中させる。
「――『薬効顕現』。処方、ヨウ化プラリドキシム!」
『ヨウ化プラリドキシムの投与を確認。当該薬品の半減期:約1時間。向こう1時間、トオルはヨウ化プラリドキシムを使用できません』
(ヨウ化プラリドキシム――通称PAM。これは受容体をブロックするのではなく、毒によって働きを止められてしまう酵素自体を守り、力業で強制的に再起動させる薬だ)
俺はふう、と息を吐いた。それぞれ異なる1種類ずつの薬学的アプローチによる防毒バフ、これにて完了だ。
ただ一つ懸念があるとすれば、俺自身にかけた『PAM』の半減期が約1時間と、他の二人の薬に比べて極端に短いことだ。この沼地の最深部までの往復には、急いでも2時間はかかる。つまり、途中で俺のPAMだけが血中濃度を下げ、効果が切れる可能性がある。
(だが、半減期を迎えるということは、魔法のクールタイムが明けるということでもある。クールタイムが明けるタイミングを見計らって、俺だけPAMを上書き発動すれば全く問題ないはずだ)
俺はそう計算し、エルティスに頷いてみせた。
「よし、終わったぞ。これでどんなに瘴気を吸い込んでも、身体に異常は出ないはずだ」
「本当かなー?じゃあ、僕から先に行ってみるね!」
エルティスは躊躇いもなく、濃密な瘴気の中へと一歩踏み出した。そして、これ見よがしに思い切り深呼吸をする。
「……っ! すごい、すごいよトオル!!」
エルティスは目を丸くして、沼地をピョンピョンと跳ね回った。
「本当に息が苦しくない!目も痛くないし、魔力を一切消費せずにこの沼地を歩けるなんて……君の故郷の魔法、まさに神業だね!」
「トオル様、わたしもなんともないです」
ミアもホッとしたように獣耳を揺らした。
「よかった。ただ、油断は禁物だ。さっさと目的のものを探して帰ろう」
俺たちは警戒を保ちながら、腐死の沼地の最深部へと足を進めた。
道中、泥の中から襲いかかってくるアンデッドや毒を持った魔物たちもいたが、エルティスが言っていた通り個体としての力は弱く、それらはすべて【暴走する叡智】の圧倒的な魔法の前に、文字通り一瞬で消し炭に変わっていった。
「あははっ! 防毒に魔力を割かなくていいから、全力で攻撃魔法が撃てるよ! 最高だね!」
楽しそうに炎や雷を連発するエルティスの背中を見ながら、俺とミアはただその後ろを歩くだけの簡単なお仕事だった。
(……そろそろ沼地の深部だな。体感からして、まだ処方から1時間は経っていない。再使用できないのがその証拠だ。最深部で石を回収して、1時間を過ぎた瞬間に落ち着いて上書きしよう)
やがて、沼地の最も深く、瘴気が黒い霧のようにとぐろを巻くすり鉢状のエリアに辿り着いた。
その中央、巨大な枯れ木の根元に、それはひっそりと佇んでいた。
「あった……! 『緑命石』だ!」
エルティスが指差した先には、周囲の死の景色とは不釣り合いなほど美しく、新緑に光る手のひら大の石があった。近づくと、どす黒い瘴気の中にあっても、そこだけ若草のような爽やかな香りが漂っているのが分かる。
「よし、サクッと回収して――」
エルティスが緑命石に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
ズゴゴゴゴゴッ……!!
沼地全体が激しく揺れ、緑命石を守るように、巨大な泥の塊が隆起した。
現れたのは、無数の頭を持つ巨大なヘドロの怪物――マッド・ヒドラだ。
「わお、ダンジョンボスのお出ましだね! 聞いてた話と違って、こいつこのダンジョンの規模に合わないくらいメチャクチャ強いよ! 僕がやるから、二人は少し下がってて!」
エルティスが嬉々として両手に莫大な魔力を圧縮し、ヒドラに向かって跳躍した。
凄まじい魔法の爆発音が響き渡り、沼地の泥が津波のように巻き上げられる。
「トオル様、危ないです!」
ミアが咄嗟に俺を庇う。だが、異常に強力なボスの巨体が暴れた衝撃で地盤が崩落し、俺とミアは足場を失って、すり鉢状の地形のさらに底へと滑り落ちてしまった。
「うわっ!」
ドサッ、と泥まみれになって着地する。見上げると、土砂崩れによって巨大な泥の壁ができあがり、上で戦うエルティスの姿が完全に分断されてしまっていた。
「おーい! 二人とも無事!?ごめん、こいつタフでさ! すぐに片付けるから、ちょっとそこで待ってて!」
壁の向こうからエルティスの呑気な声と、轟音が連続して聞こえてくる。
「俺たちは無事だ! 無理せず倒してくれ!」
叫び返したものの、こちらの底のエリアにも、ヒドラの破片から分裂した小型のヘドロスライムや毒蛇の魔物が次々と湧き出してきた。
「仕方ない。ミア、少し手こずりそうだが、二人でこいつらを凌ぐぞ!」
「はいっ、トオル様!」
俺とミアは剣を抜き、群がってくる小型の魔物たちとの戦闘に突入した。
一匹一匹は弱いが、足場の悪い泥沼での戦闘は体力を激しく消耗する。剣を振るい、泥を避け、迫り来る魔物を切り伏せる。戦闘に集中するあまり、俺の頭からは「時間感覚」が完全に抜け落ちていた。
エルティスと逸れてから、約10分が経過した頃だった。
――ふと、視界の端が不自然に暗くなった。
(ん……?なんだ、目に泥が入ったか……?)
目をこするが、周囲の景色がどんどん黒く塗りつぶされていく。まるで、カメラの絞りを限界まで絞ったかのように、視界が極端に狭まっていくのだ。
それと同時に、口の中から異様な量の唾液が止めどなく溢れ出し、目からはポロポロと制御不能な涙がこぼれ落ち始めた。
(な、なんだこれ……視界が暗い。これは……『縮瞳』……!?)
自分の瞳孔が、針の穴のように極限まで収縮していることに気づいた瞬間、背筋に強烈な悪寒が走った。
ズキッ、と胸の奥で激しい痛みが弾ける。
「ガハッ……! ゲホッ、ヒューッ……!」
突然、気道が猛烈に狭まり、肺の中に大量の分泌液が湧き出してきた。まるで陸に上がりながら溺れているかのように、空気が全く吸えない。
「ト、トオル様!? どうしたんですか!?」
異変に気づいたミアが、悲鳴を上げて俺に駆け寄る。だが、俺は答えることすらできず、剣を落として泥の中に崩れ落ちた。
全身の筋肉が、まるで無数の虫が這い回るようにピクピクと痙攣(線維束性攣縮)を始めている。
(――時間を、見誤った……!)
酸欠で真っ白になりかける思考の中で、俺は己の致命的なミスを悟った。
戦闘に夢中になるあまり、PAMの半減期である「1時間」をとうに過ぎていたのだ。
半減期を迎えて防御の要であるPAMの血中濃度が閾値を下回った瞬間、圧倒的な濃度の有機リン系神経毒が、俺の体内のアセチルコリンエステラーゼを一斉に機能不能にした。
「トオル様! トオル様ぁっ!!息をして……お願い、死なないで……っ!」
涙を流しながら俺の身体を揺さぶるミアの声が、遠くの方で聞こえる。
横隔膜が麻痺し、自力で呼吸をすることすらできない。意識が急速に泥の底へと沈んでいく。猛烈なサリン作用が、数秒単位で俺の命を削り取っていく。
(死ぬ……! このままじゃ、窒息死する……!)
痙攣する右手を、死に物狂いで自分の胸元へと持ち上げる。
思考を絞り出せ。すでに効果が切れているということは、クールタイムの1時間は過ぎているということだ。魔法は、撃てるはずだ。
(動け……っ、動けぇぇっ……!!)
「……っ、『薬効……、顕現』……!」
血を吐くような、音にならない掠れ声で、俺は最後の力を振り絞ってデータベースのトリガーを引いた。
「処方……ヨウ化……プラリドキシム……ッ!!」
カッ、と胸の奥で魔力の光が弾けた。
透明な光の粒子が心臓から全身の血管へと爆発的に広がり、毒によって機能を停止させられていた酵素を、力業で強制的に引き剥がし、再起動させる。
――ゴパァッ!!
俺は泥の中に顔を突っ伏したまま、肺に溜まっていた分泌液を激しく吐き出した。
「ハァッ……! ハァッ、ガハッ……! ヒューッ、ハァァァァッ……!!」
麻痺していた気道がカッと開き、新鮮な空気が肺の奥底まで一気に流れ込んでくる。針のように縮んでいた瞳孔が徐々に元に戻り、狭まっていた視界にミアの泣き顔が鮮明に映し出された。全身を襲っていた痙攣も、嘘のようにピタリと治まっている。
「ト、トオル様……! よかった……本当によかったぁ……っ!」
ミアが俺の胸にすがりつき、大声で泣きじゃくった。
「ハァ、ハァ……ごめん、ミア。もう、大丈夫だ……」
俺は荒い息を整えながら、泥だらけになった彼女の銀髪を震える手で撫でた。
(間一髪……。本当に、間一髪だった……)
薬の血中濃度と半減期の管理。実戦のストレス下でそれを怠ることがどれほど恐ろしい結果を招くのか、身をもって思い知らされた。もしあと数秒発動が遅れていれば、俺は確実にこの沼の泥に沈んでいただろう。
薬の効果が切れる時間も脳内でアナウンスしてくれたらありがたいんだが。
-可能です。アクティブにしますか?
できるなら、こうなる前に知りたかった。嘆いても仕方ない。脳内アナウンスにツッコミを入れるのもほどほどに無言で薬効が切れる時間を教えてもらえるようにアクティブにした。
「おーい! 待たせたね! ……って、うわっ、トオルどうしたの?顔色悪っ!?」
その時、泥の壁がドカンと吹き飛び、無傷のエルティスがひょっこりと顔を出した。
彼の右手には、眩いほどに美しい新緑の輝きを放つ『緑命石』がしっかりと握られている。どうやら、無事にヒドラを討伐して目的の品を回収したらしい。流れで異常に強いボスまで倒しちゃったようだが、まぁ結果オーライだね。
「……少し、足場が悪くて魔物相手に泥を被っただけだ。それより、目的のものは手に入ったんだな?」
俺が泥を拭いながら立ち上がると、エルティスはきょとんとした後、ニカッと笑った。
「うん、バッチリさ! 君のバフのおかげで、何の憂いもなく戦えたよ。さあ、依頼達成だ。王都で苦しんでる御令嬢のために、早くこの石を届けてあげよう!」
無事に任務を終え、俺たちは来た道を戻り始めた。
死の淵を覗いた恐怖はまだ身体の奥に残っていたが、ミアの温かい手が俺の手をしっかりと握りしめてくれているおかげで、不思議と足取りは軽かった。
異世界での薬学チートは万能ではない。使う人間の管理能力次第で、簡単に牙を剥く。その痛烈な教訓を胸に秘めたまま、俺は腐死の沼地を後にしたのだった。
完全に魔法の効果がなくとも、呼吸のできる場所まで来て、また使い捨て転移石を使ってギルドへと帰ることになった。
往復で10,000,000円。セレブにでもなった気分である。




