16:00 - 宿屋の一室にて
冒険者向けに貸し出されている、小綺麗で落ち着いた宿屋『跳ね猪亭』の一室。
午後4時の西日が、窓の隙間から木製の床に細い光の筋を落としている。清潔なリネンが敷かれたふかふかのベッドに腰を下ろすように促すと、獣人の娘は自分の汚れた衣服を気にしたのか、申し訳なさそうに身を縮めた。その間にも、彼女の指先が無意識に首筋の赤い膨疹へと伸び、爪を立てようとする。
俺はそれを、これ以上皮膚を傷つけないように優しく両手で包み込んで制止した。彼女の手は、異常な免疫反応による高熱でひどく熱かった。
「もう掻かなくていい。すぐに楽になるから」
「……?」
不思議そうに見上げる彼女の細い手首を握ったまま、俺は己の奥底にある魔力へと意識を集中させた。
現在、俺が使える能力はひとつだけ。対象の素肌に直接触れ、明確な「薬効(作用)」を指定して発動する
『薬効顕現』
(今の彼女の症状を最速で鎮めるなら、強力な免疫抑制作用を持つステロイド一択だ)
頭の中で、明確な成分と引き出したい薬理をイメージする。
「――『薬効顕現』! 処方、プレドニゾロン。指定【主作用:免疫抑制および抗炎症】!」
小さく呟いた瞬間、俺の掌から淡い金色の光の粒子が溢れ出し、彼女の肌へとスッと吸い込まれていった。
指定された『免疫抑制』の概念が、魔法の力によって種族の壁や体格差を無視して最適化され、瞬時に体内へと発現する。
「……ぁ……っ、あ……」
ほんの数秒後のことだった。
あれほど赤黒く腫れ上がっていた地図状の斑点が、まるで潮が引くようにスーッと薄らいでいく。狭窄してヒューヒューと鳴っていた喉の強張りが消え、浅く荒れていた呼吸が、正常で穏やかなものへと戻っていった。
(……よし、即効性のステロイドによる強制鎮火。上手くいった……)
安堵の息を吐いた直後、俺の脳内に無機質なシステムアナウンスが響いた。
『プレドニゾロンの投与を確認。これより【半減期ルール】が適用されます』
『当該薬品の半減期:約3時間。向こう3時間、トオルはプレドニゾロンを使用できません』
半減期――薬の血中濃度が半分になるまでの時間。それが、この魔法における『クールタイム』だ。
「あ……れ……?」
娘は信じられないものを見るように、自分の両腕を、そして俺の顔を交互に見つめた。
「痒みが、苦しさが……一瞬で消えました。あんなにずっと、全身が燃えるみたいに痒くて、痛かったのに……魔法みたいに……」
「魔法だよ。薬効を引き出す魔法だ。俺はトオル。……君の名前は?」
「……ミア、です」
ミアの大きな黄金色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ落ちた。
いつから続いていたかも分からない理不尽な苦痛。奴隷として売られ、病に侵され、誰からも見放されていた絶望からようやく解放された、深い安堵の涙だった。
「よかった。ずっとまともに眠れていなかったんだろう?」
「はい……っ。トオル様に、出会えて……わたし……うっ、ひぐっ……」
彼女は両手で顔を覆い、子供のようにしゃくり上げた。俺は何も言わず、ただ彼女の震える背中を優しく撫で続けた。
しかし、痒みという強烈なストレスから解放されたことで、限界を迎えていた彼女の脳と体に、どっと疲労と反動が押し寄せてきたらしい。数分も経たないうちに、彼女の体がぐらりと横へ揺れた。
「おっと。無理せず、横になって」
俺がそっと肩を支えてベッドに寝かせると、ミアは抵抗することなく、ふかふかのシーツに身を沈めた。
「ありがとうございます、ご主人様……」
「トオルでいいよ。ゆっくり休んで」
そのか細い声を最後に、彼女は俺の服の袖口をぎゅっと弱々しく握りしめたまま、泥のように深い眠りへと落ちていった。
すーすーと穏やかな寝息を立てるミア。俺は洗面器に張った水でタオルを濡らし、彼女の顔の汚れと涙の跡を優しく拭ってやった。
その寝顔を見つめながら、俺は再び彼女の手首を優しく握る。
(プレドニゾロンの即効性で最悪の事態は脱した。だが、ステロイドだけじゃ持続力に不安がある。根本的なアレルギー反応を長く安全に抑え込むには、もう一つ別の薬が必要だ)
「――『薬効顕現』。処方、ルパタジン。指定【主作用:抗ヒスタミン作用】」
淡い緑色の光が、再び彼女を包む。
『ルパタジンの投与を確認。当該薬品の半減期:約6時間。向こう6時間、トオルはルパタジンを使用できません』
(よし。主成分のルパタジン自体の半減期は約6時間。だから魔法のクールタイムもたったの6時間で明ける。だが、この薬は体内で形を変えた『デスロラタジン』という代謝物が、約20時間以上も血液中に残り続けるんだ)
この代謝物もしっかりとアレルギーの元であるヒスタミンをブロックする効果を持っているため、実質的には1日1回の使用で24時間しっかりと効果が持続する。
(魔法のシステム上の縛りを抜ける、薬理の裏技だな。これで明日の夜までは、発作の可能性はかなり低いはずだ)
俺は毛布を彼女の肩までしっかりとかけてやり、起こさないように、そっと部屋の明かりを落とした。窓の外は、いつの間にか美しい夕焼けに染まっていた。




