転生2日目 (14:00 - 奴隷商館にて)
「奴隷、か……。現代の日本で育った身としては、どうしてもちょっと抵抗はあるよなぁ」
高く澄み渡る青空の下、美しく切り出された石畳の大通りを歩きながら、俺は微かに独り言をこぼした。時刻は午後2時を回ったところ。太陽が中天を少し過ぎ、街全体が活気に満ち溢れている時間帯だ。
視界に広がるのは、オレンジ色のレンガ屋根が連なる、中世ヨーロッパを思わせる瀟洒な街並み。通りには色とりどりの天幕を張った露店が並び、焼きたての香ばしい黒パンの匂いや、香辛料のツンとした香りが鼻をくすぐる。行き交う人々は活気に満ち、時折、軽やかな蹄の音を響かせて豪奢な馬車が通り過ぎていく。
一見すれば、平和で牧歌的なファンタジー世界の光景そのものだ。だが、こののどかな空の下には、確固たる身分制度と、人を金銭で売買する「奴隷」システムが当たり前のように存在している。首に鉄の首輪をつけられ、重い荷物を運ばされている獣人や亜人の姿も、この街では決して珍しいものではなかった。
現代日本でしがない薬剤師として働いていた俺が、見知らぬ異世界に単身放り出されて、今日で二日目。
右も左も分からないこの過酷な地で生き抜くためには、現地の理に明るく、かつ絶対に裏切らない「信頼に足る相棒」がどうしても不可欠だった。
転生して早々、俺は街の外の森で運悪く巨大な熊の魔獣に遭遇した。立ち上がれば三メートルはあろうかという巨体と、丸太のような腕。死の恐怖に直面し、襲いかかる巨熊の巨体に捨て身で飛び込み、その皮膚に直接手を触れて無我夢中で魔法を発動させた。巨熊の動きを数分間だけ止めることには成功したが、とどめを指す手段がない。逃げようにも腰が抜け、魔法の効果が切れかけてあわやというところで、通りすがりの歴戦の冒険者――ドノバンという名の大男が、脅威の判断力で駆けつけ、大剣を振り下ろし、一太刀で魔獣にトドメを刺してくれたのだ。
命拾いしただけでなく、彼に連れられて冒険者ギルドで魔獣の素材を換金したところ、上質な毛皮や希少な内臓が金貨50枚という途方もない大金に化けた。恩人であるドノバンは、俺が報酬を山分けしようと提案しても
「ガハハ! 俺はトドメを刺しただけだ。お前の得体の知れねえ魔法で動きが止まってなきゃ、俺でも危なかったぜ!」
と腹の底から響くような声で笑い飛ばした。そして、金貨1枚だけを
「今日の酒代の手間賃だ。若けぇのはしっかり飯を食え!」
と受け取り、残りをすべて俺に押し付けるように譲ってくれたのだ。あの豪胆で面倒見の良い大きな背中には、今でも頭が上がらない。
この世界の物価は、銅貨一枚で屋台の串焼きが買える程度。金貨1枚で約1万円といった感覚だ。つまり、今の俺の手元には約50万円近い資金がある。当面の生活には十分すぎる額だが、戦闘力皆無の俺が一人で生きていくには心細すぎる。だからこそ、俺は自身の良心に目を瞑り、相棒を求めて奴隷商会へと足を運んだのだ。
冒険者ギルドの受付で紹介された『銀の秤商会』は、裏路地に潜むような胡乱な店ではなかった。大通りに面した、白亜の壁と立派な彫刻が施された鉄扉を持つ堂々たる商館だった。
「――ようこそおいでくださいました。ご予算の範囲で、かつ冒険のサポートができる者をご所望でしたら、こちらの方々になりますね」
穏やかな笑みを浮かべて案内してくれたのは、パリッとした仕立ての良い服に身を包んだ、初老の奴隷商・ジニスだった。柔和な目元と丁寧な口調からは、悪徳商人といった雰囲気は微塵も感じられない。出されたハーブティーも、驚くほど香りが良かった。
通されたのは、日当たりの良い清潔な一室だった。そこには、年齢も種族も様々な数人の男女が待機していた。筋骨隆々のドワーフの若者や、手先の器用そうな人間の少年、身体に切り傷の多い女戦士。皆、衣服も小綺麗に洗濯されており、髪も整えられている。瞳に宿る光も完全に失われてはおらず、ジニスが商品である彼らを決して劣悪な環境に置いていないことが窺えた。
だが、俺の視線はある一点に釘付けになっていた。
「皆様、従順で勤労な者たちばかりです。言葉も通じますし、簡単な家事や荷物持ちであればすぐにでもお役に立てるでしょう。ただ……お客様、誠に恐縮ですが、あちらの者だけはお勧めいたしません」
ジニスが言葉を濁し、酷く申し訳なさそうに視線を向けた先。
日陰となる部屋の隅に、他の者たちとは違い、ボロボロの貫頭衣を纏い、力なくうずくまっている一人の娘がいた。
年齢は17、18歳といったところだろうか。肩ほどまで伸びた銀色の髪は艶を失ってパサつき、頭部から生えた獣の耳が、生気を失って力なくへたりと垂れ下がっている。
「彼女は先日、知人に頼まれて受け入れた獣人なのですが……売られた理由までは存じ上げません。ただ、御覧の通り、原因不明の奇病を患っておりまして。服を変えただけで酷く痒がって暴れ、夜も眠れないほど全身を掻きむしり、高熱を出して労働に耐えうる状態ではありません。医者にも診せましたが匙を投げられまして……これ以上苦しませるのも忍びなく、近々、街の郊外にある療養所へ移送しようかと考えていたところなのです」
商売上の損失よりも、娘の命を純粋に案じているようなジニスの誠実な声。
俺はゆっくりと獣人の娘へと歩み寄り、なるべく威圧感を与えないよう、彼女の目の前で静かに膝をついてしゃがみ込んだ。
「ひっ……ぁ……」
近づく俺に怯え、小さく身をすくめる彼女。その肌を直視し、俺は思わず息を呑んだ。
本来なら透き通るように白かったであろう細い腕や首筋には、地図状に広がる不気味な赤い膨疹が痛々しく浮かび上がっている。痒みに耐えきれず自ら爪を立てたであろう、無数に刻まれた痛々しい掻爬痕には血が滲んでいた。
呼吸は浅く「ヒュー、ヒュー」と喘鳴が混じり、虚ろな黄金色の瞳の周囲には濃い暗鬱な隈が落ちている。体力を極限まで消耗しているのは明らかだった。
異世界の人々にとっては、得体の知れない恐ろしい「奇病」や「呪い」と映るのかもしれない。だが、現代日本の薬剤師である俺の目には、その正体が明瞭に理解できた。
(……間違いない。これは重度のアレルギー反応による蕁麻疹だ。何らかのアレルゲンが引き金になって、ヒスタミンが異常分泌され、血管が拡張して激しい痒みと気道狭窄を引き起こしているんだ)
これなら、俺の魔法で確実に症状を抑えることができる。
それに、彼女を視界に収めた瞬間から、俺の胸の奥で何かが強く脈打っていた。俺の持つもう一つのユニークスキル『相互作用』――人と人とが関わり合うことで互いを高め合い、劇的な効果を生むその力が、彼女となら最高の相棒になれるという「強烈なシナジーの予感」を告げていたのだ。理屈ではない、魂が共鳴するような確信だった。
「ジニスさん。あの子を、俺に譲ってください」
俺が立ち上がって真っ直ぐに告げると、ジニスは狼狽して目を丸くした。
「お、お客様? 私の説明をお聞きになりましたか? その娘はもう長くないかもしれません。お金を溝に捨てるようなものですし、何より、こんなふうに言いたくはありませんが、お客様の旅の足手まといになるだけかと」
「構いません。俺には、彼女の病を治すアテがあります。……それに、彼女がいいんです。どうか、お願いします」
俺の真剣な眼差しを正面から受け止めたジニスは、しばらくの間押し黙った後
「……お客様がそこまで仰るのなら」
と深く息を吐いて頷いた。代金は、治療費を差し引くという彼なりの配慮か、破格の銀貨3枚(約三千円)だった。
「さすがに安すぎるのでは」
俺が口を挟もうとしたが、ジニスはそれを手で遮り、真っ直ぐな目で俺を見た。
「あなたにかけてみたいのです」
その言葉には、少女を救ってやってほしいという痛切な願いが込められていた。
病を治して対等な相棒として扱うためにも、やはり抵抗はあるが、今は手続きとして主従契約を受け入れるしかない。
首のチョーカー型の枷を外し、主人との主従魔法契約など、すべての手続きを終えた後。俺は未だに事態が飲み込めず、恐怖と熱で小刻みに震えている獣人の娘にそっと手を差し伸べた。
「辛かったな。もう大丈夫だ、一緒においで。絶対に治してあげるから」
俺の声に、娘はゆっくりと顔を上げた。涙で潤んだ黄金色の瞳が、俺を映し出す。
彼女はおずおずと、すがるように、熱を持った細い手で俺の指を握り返してきた。その弱々しい、けれど確かな温もりを引き、俺は商館を後にした。
さあ、急いで宿をとろう。まずは最優先で、彼女の「治療」だ。




