第九話:帳簿
和睦が結ばれても、すべての争いが終わったわけではない。
国境から遠く離れた王都へ続く街道で、ひとりの将軍は、届いた知らせと一通の封書を見比べていた。
国を守るとは、何を守ることなのか。
そして、かつて同じ道を歩いた者と、いつまで同じ言葉を交わせるのか。
帳簿に記された数字の向こうで、過去と現在が交差します。m(_ _)m
第九話:帳簿
◆◆◆
──王都へ続く街道の途中に、獅子の本隊は、野営していた。
ハーゲンは、その天幕にいた。
国境の陣の指揮は、副将に任せてある。
将軍は、初めから、交渉の谷にはいなかった。
卓の上には、一通の封書が置かれていた。
宰相府の封蝋。王の印のない、あの書状。
ヨナが、原本のまま届けさせたものだった。
何度読んでも、文面は変わらなかった。
『交渉を打ち切り、砦の奪還を急ぐべきだ』
──夜半、早馬が着いた。
泥にまみれた伝令が、天幕の入口で、膝をついた。
「国境より。和睦が、結ばれました」
ハーゲンは、手を止めた。
「いつだ」
「二日前の朝です。獅子と、白い塔と、谷の長の、三者で。使節殿は、陛下へも、同じ知らせを出されました。ただ、道が悪く、王都への馬が遅れております」
遅れたのは、馬だけではなかった。
卓の上の封書を、ハーゲンは、見た。
あの文が書かれた日には、和睦は、なかった。
和睦が結ばれたのは、あの文のあとだ。
そして、和睦の知らせは、宰相の元へは、まだ届いていない。
あの封書は、和睦を知らずに書かれたのか。
それとも、和睦を、阻むために書かれたのか。
「馬を、替えろ」
ハーゲンは、立ち上がった。
「王都へ行く。本隊は、動かすな。副将には、俺が戻るまで、誰も陣から出すなと伝えろ」
──ハーゲンは、馬を三度、替えた。
王都の門が見えたのは、夜明け前だった。
最初に向かったのは、宰相の部屋ではなかった。
王は、眠っていなかった。
ハーゲンは、まず、和睦を告げた。
「ヨナ殿の早馬が、追いつきました。陛下の元へも、まもなく、同じ知らせが届きます」
「……そうか」
長い間があった。
「卓には、誰が」
「獅子と、白い塔と、谷の長が」
「谷の長が」
王は、ほんの少し、目を伏せた。
ハーゲンは、封書を卓に置いた。
「印が、ありません。文面は、宰相閣下の筆でした」
王ライナルトは、長く、それを見ていた。
「……私は、この文を、知らぬ」
「存じております」
「だが、宰相に、私の名を使わせたのは、私だ」
王は、それだけ言った。
それから、懐から、印章を取り出した。
王は、白い紙の上に、それを押した。
「持っていけ」
「陛下」
「お前の手で、やれ。私の手では、できぬ」
ハーゲンは、紙を受け取った。
朱の獅子が、紙の隅で、まだ濡れていた。
◆◆◆
宰相は、いつもの部屋にいた。
窓辺の机には、兵糧の帳簿が積まれていた。
燭台の蝋は短くなり、窓の外では、夜番の兵が交代を告げている。
宰相の髪は、かつては豊かな金色だった。
今はこめかみを中心に白いものが混じり、灯りを受けた髪には、かすかな金色が残っている。
目元には深い皺が刻まれていたが、顔を上げたときの笑みには、昔と変わらない人懐こさがあった。
「──遅かったな、ハーゲン」
顔を上げた宰相は、いつものように笑った。
「国境はどうだった。白い塔の連中は、まだ砦を渡す気にならんか」
ハーゲンは答えなかった。
「和睦が、結ばれた。二日前に」
宰相は、すぐには、答えなかった。
「……そうか」
「知っていたか」
「いや」
返事は、早すぎた。
ハーゲンは、その早さを、胸にしまった。
扉の外には、兵が二人いた。
どちらも剣の柄に手を置いている。
宰相の笑みが、わずかに薄れた。
「……何があった」
ハーゲンは懐から一枚の紙を取り出し、机に置いた。
「使節団に、交渉を打ち切れという封書が届いた」
「情勢が変われば、命令も変わる」
「王の印がなかった」
「急を要する場合もある」
「陛下は、その文を、ご存じなかった」
宰相の指が、帳簿の端を押さえた。
ハーゲンはその手を見た。
何度も見てきた手だった。
戦場から届いた報告をともに読み、兵糧の不足を埋めるために夜を徹し、若い兵の死を悼む手紙を連名で書いた。
その手が、いま、帳簿を押さえている。
「ハーゲン……お前が調べたのか」
「ああ」
「どこまで」
ハーゲンは、もう一冊、帳簿を置いた。
白い塔の輜重の帳面の写しだった。
「出立の日の麦は、今より三割多かった。消えたのは、獅子の荷だけではなかった」
宰相は、写しに目を落とした。
「白い塔の荷も、同じ道の同じ場所で、軽くなっている。同じ商人が、両方の荷を、扱っていた」
ひとつひとつは、疑いにすぎなかった。
だが、別々の記録に残る名が、同じところへつながっていた。
王都の倉庫から消えた穀物。
戦時の買い上げを名目に、特定の商人へ渡された麦。
そして、その商人たちに、金と、通行の印を与えた者の名。
宰相は、しばらく、何も言わなかった。
「私は、この国を守ろうとした」
その声には、怒りよりも疲れがあった。
「和平を望む者は、戦争の先に何があるかを考えぬ。白い塔と手を結べば、奴らは、いずれ谷を取り戻しに来る」
「だから、麦を握ったのか」
「国を動かすには、力が要る」
「その力で、何を守った」
宰相の顔から、表情が消えた。
窓の外で、交代の兵が槍の石突きを地面に打ちつけた。
乾いた音が、一度だけ響いた。
「……麦は、どこにある」
ハーゲンが訊いた。
「さあな」
「谷の冬が、来る」
「だから、言わぬ」
宰相は、はっきり、そう言った。
「言えば、お前たちが、また、すべてを分けてしまう。軍も、村も、同じ量で。そうして、春に、何も残らぬ」
ハーゲンは、紙をもう一枚、取り出した。
王の印が、朱く押されていた。
「宰相閣下。王命により、身柄を預かる」
宰相は紙を見なかった。
ただ、ハーゲンを見た。
「お前が、私を?」
「……そうだ」
「何年、同じ国を守ってきたと思っている」
ハーゲンの喉が動いた。
答えは、いくらでもあった。
若いころ、初めて戦場へ出た日。
帰還した兵の数を数えた夜。
凍える天幕の中で、最後の一切れのパンを半分に割ったこと。
それから、息子のエーリクと、この男の娘の、婚約を決めた夜。
二人の子は、同じ十七で、まだ、顔もろくに合わせていなかった。
それでも、父親たちは、笑って、杯を干した。
──どれも、嘘ではなかった。
「覚えている」
「ならば、なぜだ」
ハーゲンが、答えようとしたときだった。
宰相が、先に、口を開いた。
「ハーゲン。俺は、お前に、腹が立っていたのだ」
声の調子が、変わっていた。
私、ではなかった。
若いころの、兵舎での言葉だった。
「この国は、獅子の名を持ちながら、腑抜けた国になった」
「……」
「王は、問うばかりで、決めぬ。将は、兵の数ばかり数える。そして、お前だ」
宰相の目が、ハーゲンを射た。
「お前は、誰より、剣の使い方を知っていた男だ。その男が、息子が先陣に立つと聞いて、三日、眠れなかった」
ハーゲンの指が、わずかに動いた。
「恥じることではない。親なら、当然だ。だが、お前が、恐れるようになった日から、この国は、恐れる国になった」
「……」
「お前と俺なら、できたのだ」
宰相は、言った。
声は、低く、少しも荒れていなかった。
「この国も、白い塔の国も。お前が剣を持ち、俺が帳面を持てば、二つの国を、ひとつにまとめて、治められた。谷も、砦も、飢えもない国を、作れた」
長い沈黙が、落ちた。
ハーゲンは、友の顔を、見ていた。
若いころ、天幕の中で、同じことを、聞いた気がした。
そのときの自分は、笑って、杯を上げたのだと思った。
「……できたかもしれん」
ハーゲンは、言った。
「お前となら」
宰相の目が、わずかに、揺れた。
「だが、その国には、谷の者の名が、なかった」
宰相は、答えなかった。
「麦を握って、人を飢えさせて、治められる国なら、俺は──要らん」
ハーゲンは、一歩、机に近づいた。
「これ以上、死ぬ者を増やす命令には、従えない」
宰相は長く彼を見つめた。
やがて、小さく息を吐いた。
「お前は、変わったな」
「……そうかもしれん」
「昔のお前なら、私の話を聞いた」
「今も……聞いた」
ハーゲンの声がかすれた。
「聞いたうえで、止めに来た」
宰相は目を閉じた。
それから、ゆっくりと両手を机の上に置いた。
「剣は抜かぬよ」
扉の傍に控えた兵が入ってくる。
その一人が宰相の腕に手を伸ばしかけたとき、ハーゲンが制した。
「乱暴にするな」
兵が手を止める。
宰相は、かすかに笑った。
「最後まで、将軍らしいことを言う」
ハーゲンは答えなかった。
手首を差し出すとき、襟元から、細い紐が、わずかに覗いた。
何かが、下がっている。
宰相は、枷をかけられる前に、一度だけ、襟元に指を当てた。
何かを、確かめるように。
ハーゲンは、それが何かを、問わなかった。
兵が宰相の手首に枷をかける。
金属の触れ合う音が、静かな部屋に響いた。
宰相は抵抗しなかった。
連れ出される直前、彼は一度だけ振り返った。
「ハーゲン」
将軍は顔を上げた。
「……国を、頼む」
それが命乞いなのか、命令なのか、あるいは昔の友への言葉なのか。
ハーゲンには、分からなかった。
国、と宰相は言った。
娘、とは、言わなかった。
ただ、返事をすることができなかった。
扉が閉まる、その直前だった。
「……ブルクハルト」
ハーゲンは、友の名を、一度だけ、呼んだ。
背は、振り返らなかった。
ハーゲンが、その名を口にしたのは、それが最後だった。
以来、二度と、呼ぶことはなかった。
扉が閉じた。
廊下の突き当たりで、燭台の灯りが、揺れた。
その灯りの届くところに、誰かが立っていた。
金色の髪が、わずかに照らされている。
連行する兵の一人が、そちらに目を向けた。
確かめることも、声をかけることもしなかった。
──部屋の中で、ハーゲンはしばらく動かなかった。
机の上には、兵糧の帳簿が残されていた。
やがて、帳簿を手に取った。
麦の入出庫、商人の名、買い上げに使われた金、荷の行き先。
いくつもの数字と名前が、細かな文字で並んでいる。
それは、兵を動かし、国を支えるための記録だった。
そして、その記録の隙間から、谷の人々に届かなかった麦の行方が見えていた。
紙は、思っていたよりも軽かった。
(続く)
第九話をお読みいただき、ありがとうございます。m(_ _)m
今回は、将軍ハーゲンと宰相ブルクハルトの対峙を書きました。
かつて同じ国を守り、同じ未来を夢見た二人。
その歩んできた時間が嘘ではなかったからこそ、最後に選んだ道の違いが、二人の間に重く残ります。
そして、帳簿に記されているのは、麦の量や金の流れ、商人の名だけではありません。
そこには、誰かが食べられなかった麦があり、届くはずだった食料を待つ人々がいます。
けれど、紙には、亡くなった人の名は記されていませんでした。
数字を追うことと、その数字の向こうにいる人を忘れないこと。
その両方を、これからのハーゲンにも背負ってもらうことになります。
物語にお付き合いいただき、ありがとうございます。
引き続き、見守っていただけましたら幸いです。(人*´∀`)。*゜+




