第八話:食べるもの、食べられるもの
前回のお話で、戦いは止まりました。
けれど、それは細い糸で結ばれているにすぎません。
約定が破られれば、獅子が砦と穀倉を独占し、谷の民は飢えます。
白塔は砦を奪い返すため、命を懸けて攻めてきます。
そして、もし白塔が優勢となれば、獅子は砦も穀倉も、火に包むかもしれない。
剣を収めた今も、誰もが危うい均衡の上に立っているのです。
そして、戦いが止まっても、すべてが元に戻るわけではありません。
今回は、戦のあとに残されたものを、少しずつ見つめていきます。m(_ _)m
第八話 食べるもの、食べられるもの
◆◆◆
──戦いのない朝が来ても、両軍が陣を全て引き払ったわけではなかった。
兵の中には、武勲を立てようと息巻いていた者もいた。
初めての戦で名を上げようとする若者もいれば、刈り取られた友の仇を討ち、その借りを返そうとする者もいた。
失った者の名を、今も口にする者。
その名を口にすれば、怒りが抑えられなくなると、黙り込む者。
──停戦を受け入れたからといって、彼らの中にあるものまで、静まったわけではなかった。
砦の守備兵は、それぞれの持ち場に残っている。
北の街道にも、南の浅瀬にも見張りが立ち、互いの兵が境を越えないよう、遠くから目を配っていた。
陣営の中では、武器を手入れする者もいれば、荷駄の数を確かめる者もいる。
負傷兵のうち、長く治療を要する者は、後方へ送られ始めていた。
一方、オルダは村へ戻ることを決めた。
獅子と白塔から一人ずつ、谷の道を知る者を同行させ、穀倉と畑の状態を確かめるためだった。
「帳面の数字だけで、決めるんじゃないよ」
そう言い残して、オルダは、椅子から立った。
戦は止まった。
だが、軍を動かすための仕事も、村が冬を越すための仕事も、まだ終わってはいなかった。
◆◆◆
交渉の天幕は、残されていた。
卓も、椅子も、片づけられてはいない。
卓の中央の皿には、パンと塩と木の椀が、置かれたままだった。
パンの表面は乾き、塩は、皿に残っている。
椀には、まだ、何も入っていなかった。
話し合いは、終わったわけではない。
ただ、次に何を話すべきかを、それぞれが考える時間が、必要だった。
メレクが天幕を出ようとしたところで、セラは声をかけた。
「陣を、見せていただけませんか」
メレクは、振り返らなかった。
「何のために」
「麦が、何日分あるのかを、知りたいのです」
「それは、軍の内のことだ」
「はい」
セラは、それ以上、言わなかった。
メレクは、しばらく、天幕の布を見ていた。
「……見たいなら、見ろ。輜重のオットーを、つけてやる。口は悪いが、嘘は、つかん」
「ありがとうございます」
「ただし」
メレクの声が、低くなった。
「見たものを、どこで、誰の前で口にするか。それは、よく、考えろ」
「肝に、銘じます」
あの天幕のことを言っているのだと、セラには分かった。
◆◆◆
──白い塔の陣は、交渉の天幕から少し離れた平地に、広がっていた。
兵たちの天幕が並ぶ、その奥。
槍を持つ者は、その一部にすぎなかった。
天幕の列の奥に、軍を支える者たちの仕事場が、集まっていた。
蹄鉄を打つ音。革を縫う音。鍋の中で、薄い粥が煮える音。
鍛冶の火のそばで、男が、折れた槍の穂先を叩き直している。
その脇には、車輪の壊れた荷車が傾き、痩せた馬が、土の上の藁屑を、鼻で探していた。
負傷兵の寝かされた天幕からは、熱にうなされる声が、漏れていた。
天幕の脇では、洗われた包帯が、縄に並んで、凍っていた。
粥の列の先頭で、柄杓が椀に注ぐものは、湯に近かった。
兵たちは、それを、両手で受けた。
「戦う人は、この中の、半分もいませんね」
ルカが、小さく言った。
「……そう」
セラは、足を止めた。
自分が見てきたのは、天幕の中の、卓の上だけだったのだと思った。
──荷駄の列の前で、男が待っていた。
四十がらみの、顎の張った男だった。
袖口には、麦の粉が、白く固まっている。
「オットーだ。使節団長から聞いた。あんたが、女の書記か」
「書記では、ありません」
「じゃあ、何だ」
「水を、請うた者です」
オットーは、少しだけ、目を細めた。
「……なら、名は、訊かん。谷の習いだ」
彼は顎をしゃくって、荷駄の奥を示した。
「麦は、あれだ」
積み上げられた袋が、天幕の影の中に並んでいた。
「あと、十八日。もう、粥を薄めたうえでの数字だ」
「馬は」
「飼葉は、十一日」
オットーは、馬の列のほうへ、もう一度、顎を向けた。
「人は、粥で、どうにか持つ。馬は、そうはいかん。藁を食わせても、腹が膨れるだけで、力にならん。力がなけりゃ、荷は、運べん」
「荷が運べなければ」
「麦が、ここに、届かん」
セラは、袋と馬を、交互に見た。
──人が食べるために、麦を運ぶ。麦を運ぶために、馬がいる。馬が食べるために、また、飼葉を運ぶ。
輪になっていた。
どこかが細れば、すべてが、細る。
「馬を食べれば、飼葉は減ります」
言ったのは、ルカだった。
オットーは、笑わなかった。
「そう言った若いのは、あんたで、三人目だ」
「すみません」
「謝るな。間違っちゃいない」
オットーは、近くの馬の首を、軽く撫でた。
「あんたも、そう言いに来たのか」
オットーが、セラを見た。
「捨てろと言いに来たのではありません」
セラは、首を振った。
「じゃあ」
「何を守るために、この馬たちがいるのかを、教えてください」
オットーは、しばらく、セラの顔を見ていた。
右頬の痕に目を留めて、すぐに、外した。
「……全部は、守ってやれん」
「はい」
「それでも、訊くのか」
「はい」
オットーは、鼻から長く息を吐いた。
それから、馬の脚を一頭ずつ指しながら、話し始めた。
騎兵の馬は、伝令と、将の足だ。減らしすぎれば、陣の端と端で、話が通じなくなる。
荷駄の馬は、麦と、矢と、薪を運ぶ。数を減らせば、その分だけ、運べる荷が減る。
荷車を引く馬は、道が悪ければ、余分に要る。道を直せば、少ない数で済む。
そして、老いた馬、脚を痛めた馬。
「あれは、もう、荷を引けん」
オットーは、柵の隅を指した。
肋の浮いた栗毛が、頭を垂れて立っていた。
ルカが、その馬の前脚を見ていた。
腫れた膝の下で、蹄が、地面を避けるように浮いている。
「毎晩、俺が、藁を運んでやってる」
その声には、どちらとも、つかない響きがあった。
オットーは、足元の藁を、爪先で、栗毛の鼻先へ寄せた。
「長い付き合いなんだ」
馬は、すぐには動かなかった。
それから、ゆっくりと、口を伸ばした。
ルカは、何かを言いかけて、やめた。
セラは、何も言わなかった。
言うべきことは、まだ、持っていなかった。
オットーは、荷駄の帳面を開いた。
「それとな」
太い指が、ある一行の上で、止まった。
「出立の日の帳面じゃ、麦は、今の、三割増しのはずだった」
「途中で、消えたのですか」
「消える。いつも、ちょっとずつな。商人の荷は、道の途中で、軽くなる」
オットーは、帳面を閉じた。
「獅子の側も、同じだと聞く。どっちの荷も、同じ道を通ってきたからな」
セラは、閉じられた帳面を、見つめた。
──和睦を結んでも、麦は、増えない。
増えないどころか、帳面の上にあったはずの麦が、すでに、ここにない。
遠くで、飼葉を配る男たちが、明日の桶の分を、もう数え直していた。
◆◆◆
──その夜、獅子の陣の端にあるヨナの天幕には、灯りがひとつだけあった。
天幕の外には、獅子の兵が立っている。
守りであり、見張りでもあった。
セラは、数えてきたものを、ヨナに話した。
──麦が、十八日。飼葉が、十一日。
──荷の消える帳面のこと。
──獅子の側も、きっと、似たようなものだということ。
「おそらく、今のままでは、同じ冬を越せる量には、なりません」
ヨナは、最後まで、黙って聞いていた。
「……足りない、のですね」
「はい」
「和睦は、結びました」
「はい。殺し合うのを、いったん、止めただけです」
セラは、言った。
「冬は、止まりません」
ヨナは、目を閉じた。
「砦を守ることと、谷の人々を守ること。両方を諦めずに済む道を、探してきました。けれど、兵を残せば、兵糧が要る。兵を減らせば、砦を守る力が落ちる。馬を残せば、飼葉が要る。馬を減らせば、荷が運べない……」
彼は、言葉を切った。
「続けられることと、解決できることは、同じではありません」
セラは、ヨナの手を見た。
「生き残ることは、戦うよりも難しいですね」
ヨナは、自分に言うように、言った。
指は、また、懐の上にあった。
「……王の書状のことですが」
ヨナは、少しだけ、考えた。
「今、だと思います」
「では」
「相手が何を恐れているのか。こちらが、何を手放さねばならぬのか。それを知ったうえで、なお、道がないと思ったときに開くべきではないのかと」
ヨナは、懐から、折りたたまれた紙を取り出した。
封は、されていなかった。
「はい」
ヨナは、紙を開いた。
そして、セラの前に、置いた。
「読んでください。私ひとりでは、読み切れる気が、しません」
セラは、紙を手に取った。
筆跡は、思ったより、細かった。
『砦は、民を守るための手段である。
砦のために民を捨てるなら、
私は、砦を要らぬ。
譲れぬものは、ある。
だが、何を譲り、何を譲らぬかは、
私には、見えぬ。
王都は、谷から、遠すぎる。
お前の目で見て、お前の責で決めよ。
決めたことは、私に、返せ。』
──それだけだった。
どこにも、馬の数も、麦の量も、書かれていなかった。
セラは、もう一度、最初から読んだ。
王は、砦を、民を守る手段だと書いていた。
だが、砦のために、何を犠牲にしてもよい、とは、書いていなかった。
自国の兵を守りたかったのだろう。
谷の民を飢えさせたくもなかったのだろう。
そして、その二つを、同時には守れないかもしれないと、王自身も、知っていたのかもしれない。
「……すべてを守れとは、書かれなかったのですね」
ヨナが、顔を上げた。
「そう、読めますか」
「分かりません。ただ」
セラは、紙から、目を離した。
「譲れないものがあると知りながら、何を譲るべきか、考え続けておられたのだと思います」
ヨナは、答えなかった。
天幕の外で、風が、布を鳴らした。
ヨナは、紙を、受け取った。
折り目を、親指で、一度だけ、なぞった。
「私は、答えを、いただけると思っていました」
「はい」
「しかし、書かれていたのは、問いでした」
「はい」
「……私に、できるでしょうか」
セラは、ゆっくりと答えた。
「一人では、できません」
ヨナが、わずかに、息をついた。
「一人で、やるものでも、ありません」
セラは、立ち上がった。
数えれば、足りないものが、はっきりする。
それでも、数えなければ、何も始められなかった。
「明日から、数えましょう」
「何を、ですか」
「残っているものを、全部。二つの国の、麦と、馬と、人を」
天幕の入口で、振り返った。
「谷の、穀倉の中身も」
ヨナは、うなずいた。
灯りが、紙の端を、淡く照らしていた。
(続く)
お読みいただき、ありがとうございます。
戦いを止めることと、人々が生きていけるようにすること。
その二つは、必ずしも同じではありません。
兵士にも、村人にも、それぞれの暮らしがあり、守りたいものがあります。
そして、それらは時に、同じものを必要とします。
今回は、戦場の外側にある人々の営みや、食べること、運ぶこと、残すことについて書きました。
誰かを守るために、何を残すのか。
その答えを、一人で決めることはできないのかもしれません。
引き続き、お付き合いいただけましたら幸いです。(人◡ω◡)<お馬さん、ごめんなさい。




