第七話:椀の縁
夜明けが近づくころ、二つの陣では、兵たちが戦いの準備を始めていました。
そんな朝に、ひとりの長が、向かいます。
これは、戦を終わらせるためだけの話ではありません。
それでも、誰かが水を求め、誰かがそれを渡すことから、もう一度始められることがあるのかもしれません。
どうぞ、お付き合いください。m(_ _)m
第七話:椀の縁
──夜明け前。
空には、まだ朝の色がなかった。
谷を渡る風の中、ランタンの灯が揺れている。
オルダは、セラの馬に乗っていた。
背を丸め、手綱は握らず、鞍の前橋に、両手を置いている。
膝が悪いのだと、歩き出す前に、誰にともなく言った。
セラは馬の左を、ルカは右を歩いた。
三人とも、何も言わなかった。
道の先で、獅子の陣と白い塔の陣が、闇の中に並んでいた。
──どちらの陣でも、兵が動き始めていた。
獅子の陣では、槍を手にした兵が列を整え、盾の留め具を確かめている。
馬の鼻息が白く、鎧の擦れる音が、暗がりのあちこちで重なった。
砥石で剣を研ぐ音が、どこかで、休みなく続いていた。
──川向こうの白い塔の陣にも、同じ影があった。
天幕の間を伝令が走り、弓兵が弦を張り直している。
旗は、風を受けず、重たげに垂れていた。
どちらの陣にも、大きな声はなかった。
命令を待つ者たちの間に、言葉にならない緊張だけが広がっていた。
──夜明けとともに、停戦は明ける。
誰もが、それを、知っていた。
ルカは、馬の脇を歩きながら、兵の数を数えようとして、やめた。
白い塔の陣が近づくにつれ、見張りの姿が、闇の中に浮かび上がった。
入口に並ぶ兵たちは、老女を乗せた馬を見て、槍を構えた。
「止まれ。何の用だ」
穂先が、三人を追った。
オルダは、馬の上から、静かに答えた。
「谷の村の長だよ。水をもらいに来た」
襟元の青銅の飾りが、揺れるランタンの灯を受けた。
オルダは、それに指を添えたが、何も言わなかった。
兵たちは、顔を見合わせた。
見張りの一人が、天幕へ走った。
その習いを知っている者も、知らない者もいたのだろう。
年嵩の兵が、先に、槍の穂先を下げた。
それを見て、若い兵が、ためらいながら、下げた。
一本、また一本と、穂先が、地を向いていった。
「──何を請いに来た」
天幕の奥から、男の声がした。
白い髪に、日に焼けた顔。
深い皺を刻んだ男が、兵たちの間から姿を現した。
メレクだった。
天幕の入口に、ヨナの姿もあった。
白い塔の兵に付き添われていたが、その表情は静かだった。
捕虜ではない。
獅子の使節として、メレクが身柄を預かっていた。
オルダは、馬を下りた。膝が、鳴った。
「水を。断るのかい」
オルダは、椀を差し出した。
メレクは答えず、兵に水差しを持ってこさせた。
自ら椀に水を注ぎ、オルダへ差し出した。
オルダは、椀を受け取った。
飲む前に、椀の縁へ、指を一本、当てた。
メレクの目が、その指に止まった。
オルダは、水を飲み干した。
それから、椀を、縁を上にして、両手で返した。
メレクは、同じ手つきで、受け取った。
老いた、節の太い手だった。
「……不味い水だね」
オルダが言った。
メレクは、椀を持ったまま、オルダを見た。
「美味い水を、知っているのか」
「ああ。昔からの井戸がある」
「……桶が、重い井戸か」
オルダの眉が、わずかに動いた。
「二人で引かなけりゃ、上がらない井戸さ」
周りの兵には、二人が何を話しているのか、分からなかった。
ヨナも、セラも、分からなかった。
メレクは、しばらく、椀を見ていた。
それから、兵たちへ目を向けた。
「馬を用意しろ」
兵の一人が、戸惑ったように、オルダとメレクを見比べた。
「閣下、村へ出られるのですか」
「そうだ」
「しかし──」
「我が戻るまで、陣は待機。誰も動くな」
メレクは、傍らに控えていた若い将校へ目を向けた。
以前、交渉の席で椅子を倒した将校だった。
「我が戻るまで、陣の指揮を預ける」
「閣下。ですが、停戦が明ければ──」
「分かっている。だからこそ、誰も動かすな。伝令にも、独断で兵を出させるな」
将校は、一瞬だけオルダを見た。
それから、背筋を伸ばした。
「承知しました。陣は私が預かります」
メレクは、天幕の入口に立つヨナへ、視線を移した。
「獅子の使いを、まずは、あちらへ返してやれ」
ヨナが、わずかに目を見開いた。
「メレク殿」
「停戦は、まだ終わっていない」
それだけ言うと、メレクは、オルダのほうへ向き直った。
「案内してもらおう」
馬を引くルカが、オルダに手を差し出した。
「お手を」
「ああ、頼むよ」
オルダは、ルカの手を借りて馬に乗った。
膝をかばいながら、鞍の前橋に両手を置く。
ルカが手綱を取った。
メレクも、自分の馬へ歩み寄った。
鐙に足をかけると、身を翻すように鞍へまたがる。
その動きに、長年馬を乗りこなしてきた者の迷いはなかった。
白い塔の兵たちは、互いの顔を見合わせていた。
◆◆◆
──村へ向かう道は、薄く、白み始めていた。
オルダの馬をルカが引き、セラはその左を歩いた。
メレクは、少し後ろを馬で続いていた。
ヨナが、セラの隣に並んだ。
「……何を、動かしたのですか」
「何も」
「何も、ですか」
「私は、水を飲んでいただけです」
ヨナは、前を行く二つの背を見た。
「あの方が、停戦の明ける朝に、陣を離れる」
声が、低くなった。
「私には、できませんでした。昨夜、あの陣の中で、一睡もできなかった」
セラは、何も言わず、続きを待った。
「天幕のすぐ外を、見張りが歩くのです。足音が近づいて、遠ざかる。そのたびに、今夜が最後かもしれないと、思いました」
「はい」
「明け方、若い兵が、水を持ってきました。何も言わずに置いて、出ていった」
ヨナは、懐に手を当てた。
「毒かもしれないと、思いました。……私は、まだ、飲んでいません」
セラは、ヨナの手元を見た。
「陛下の書状は」
「読んでいません」
ヨナは、すぐに答えた。
「何度も、取り出しました。何度も、しまいました。読めば、答えが書いてあるかもしれない。書いていなかったら、私は、一人でした」
声が、わずかに震えた。
「読まなければ、まだ、書いてあるかもしれないと、思えます」
セラは、足を止めなかった。
「陛下は、開く時を、言われましたか」
「条件は、付けられました。私が満たしたと思うときに、と」
「まだ、満たしていませんか」
「分かりません。満たしたと思ったときが、満たしたときなのか。それとも、ただの、思い込みなのか」
セラは、しばらく、黙っていた。
「それは、あなたが、決めることです」
「……そう言われると、思いました」
ヨナは、小さく笑った。
笑った顔が、ひどく若かった。
「……その水を持ってきた兵の手は、どうでしたか」
セラが、訊いた。
ヨナは、思い出そうとするように、目を細めた。
「……震えて、いたかもしれません。両手で、椀を持って」
「では、その人も、怖かったのでしょう」
ヨナは、何も言わなかった。
道の脇の枯れ草に、霜が降りていた。
「……次に、水をいただけたら」
ヨナが、言った。
「飲んでみます」
セラは、うなずいた。
──少し先で、道が二つに分かれていた。
一方は村へ。もう一方は、獅子の陣へ続いている。
オルダが、馬上から振り返った。
「ここから先は、別々だね」
ヨナは、うなずいた。
「私は、獅子の陣へ戻ります」
「そうしな。あんたが戻らなければ、余計な疑いを招く」
「はい」
ヨナは、メレクに一礼した。
「では、また後ほど」
メレクは、頷きだけで答えた。
ヨナは、セラに向き直った。
「……また、交渉の席で」
「はい」
ヨナは、獅子の陣へ続く道を歩き始めた。
セラは、その背を見送った。
ルカが、再び手綱を引く。
三人と二頭は、村へ向かった。
◆◆◆
──井戸に着くと、オルダは、桶の綱を握った。
メレクも、馬を柵につなぎ、綱に、手を添えた。
二人で引き上げた桶の水が、ランタンの光を受けて、揺れた。
オルダは、水に指を浸した。
「……相変わらず、冷たいね」
「真夏でも、まだ冷たいか」
メレクが尋ねた。
「昔のままだよ」
そのとき、メレクの襟元から、古びた青銅の飾りが覗いた。
メレクは、何も言わず、飾りを外した。
青銅の表面は、ところどころ色が褪せ、縁には細かな傷が刻まれていた。
長い年月、衣服の下で肌に触れていたのだろう。
指の触れる部分だけが、鈍く磨かれている。
紐は細くなり、結び目には、何度も結び直した跡が残っていた。
オルダは、自分の襟元に手をやり、同じ色をした飾りを取り出した。
彼女のものも、紐が擦り切れ、青銅の表面は、長く手に触れられてきたように、鈍く光っていた。
セラたちは、少し離れたところから、その様子を見ていた。
「同じものに、見えますね」
ルカが、小さく言った。
──飾りの由来も、二人が交わした約束も、知らない。
ただ、二つの青銅は、初めから対であったかのように、同じ色をしていた。
互いの手のひらで、二つの青銅が、入れ替わった。
メレクは、オルダの襟元に、飾りを掛けた。
結び目を確かめる指先が、ほんのわずかに、迷う。
オルダもまた、彼の襟元に飾りを掛けた。
紐のねじれを直し、指先で一度だけ、青銅を押さえる。
どちらも、礼は言わなかった。
水桶の水面が揺れ、二人の顔を、歪ませた。
互いの襟元に収まった青銅が、初めからそこにあるべきものだったかのように、静かに揺れていた。
「……さて」
オルダが、桶の縁を叩いた。
「話を、しに行こうか」
メレクが、振り向いた。
「長も、同席されるのか」
「私の村の水の話だよ。外で待つ筋は、ないだろう」
メレクは、セラたちを見た。
「──水の請いは、返さねばならぬ」
◆◆◆
──メレクは、馬のもとへ戻った。
オルダも、ルカの手を借りて、再び馬に乗る。
ルカが手綱を引き、セラがその左を歩いた。
メレクは自分の馬にまたがり、二人の後に続いた。
村を出るころには、空の端が、明るくなり始めていた。
──血の匂いは、しなかった。
二つの陣の間に戻ると、ヨナが獅子の側から歩いてきた。
その姿を見て、セラは、わずかに息をついた。
ヨナは、メレクとオルダに向かって頭を下げた。
「お待ちしておりました」
「交渉を再開する」
メレクは、馬上から答えた。
◆◆◆
──再開された交渉の席には、ヨナとメレク、そしてオルダの姿があった。
卓の三辺に、椅子が置かれた。
獅子の側にヨナ。
白い塔の側にメレク。
そして、残りの一辺に、オルダが腰を下ろした。
セラは、紙を持って天幕の隅に立っていた。
他の将校の姿は無かった。
卓の上には、パンと塩が置かれている。
どちらも、まだ手つかずだった。
「砦と、街道と、浅瀬について話します」
ヨナは、手元の地図を広げた。
紙には、何度も握り直した跡が残っている。
「砦は、獅子が管理します」
メレクの目が、わずかに細くなった。
「白塔には、何も残らないということか」
「いいえ。街道と浅瀬の管理は、白塔に担っていただきたい」
「砦を獅子に残し、道と川を我らに渡すというのか」
「渡すのではありません。役割を分けるのです」
「言葉を変えただけではないか」
ヨナは、地図の上に指を置いた。
「砦は、谷を見下ろす場所にあります。街道と浅瀬は、谷へ入るために必要な場所です。どちらか一方が、そのすべてを押さえれば、もう一方は、いつでも締め出される」
メレクは、地図を見下ろした。
「砦を持つ者が、道を閉ざせばよい。道を持つ者が、浅瀬を塞げばよい。……そういう争いを、これまで繰り返してきた」
「だからこそ、どちらにも、相手の通行を妨げる権限を与えないのです」
ヨナは、顔を上げた。
「獅子は砦を守る。白塔は街道と浅瀬を守る。砦から街道や浅瀬を封鎖することはできない。白塔も、街道や浅瀬を使って、獅子の通行を妨げることはできない」
「軍の通行もか」
「両国とも、軍事目的で街道や浅瀬を独占してはなりません。人と荷車の通行は、両国に等しく認めます」
「ならば、通行の安全を誰が保証する」
「両国が保証します。争いが起きた場合は、双方の代表と谷の長が立ち会い、記録を残します」
メレクは、地図から目を離さなかった。
「──白塔が、街道と浅瀬の管理に加わることで、何を得る」
「街道と浅瀬を維持し、谷への通行を守る役割を得ます。獅子が砦を保持する一方で、白塔も、谷の道と水辺に責任を持つ」
「それで、双方が勝ったと書けるか」
「獅子の記録には、砦を保持し、街道と浅瀬の安全を両国の合意で確保したと残せます。白塔の記録には、街道と浅瀬の管理を担い、谷への通行を保証する役割を得たと残せます」
ヨナは、言葉を切った。
「双方が、守るものを得たと書けます。どちらかが負けたと記す必要はありません」
「……都合のよい記録だな」
「都合のよい言葉かもしれません」
ヨナは、メレクから視線を逸らさなかった。
「けれど、嘘ではありません。砦は獅子が守る。街道と浅瀬は白塔が守る。どちらも、相手の通行を妨げない。それぞれが、実際に約束することです」
メレクは、しばらく地図を見ていた。
「穀倉は」
「長の立ち会いのもと、両国の封印を用いて共同で管理します」
「我らが、敵国の穀倉を管理するというのか」
「谷の穀倉です。どちらか一方のものではありません」
ヨナは、地図から手を離した。
「谷の冬越しに必要な食料と種籾を先に確保し、余剰分を両国へ分ける。足りない場合は、三者で帳簿を確かめます。誰か一方の判断だけで、谷の食料を持ち出すことは認めません」
「封印を開く条件は」
「三者の立ち会いを原則とします。緊急の場合についても、誰が、いつ、どのような理由で開けたのか、記録に残します」
メレクは、すぐには答えなかった。
卓の上のパンに目を落とし、次に、塩皿を見た。
その皺の深い指が、卓の縁を、一筋なぞる。
静寂のなかで、風が、天幕の布を、わずかに鳴らした。
セラは、ヨナの言葉を聞いていた。
──彼は、メレクの恐れを暴かなかった。
──相手の弱みを言い当てて、退路を塞ぐこともしなかった。
ただ、守りたいものを、自分の言葉で差し出していた。
メレクが、隅のセラを見た。
「お前は、何も言わないのか」
「言うことが、ありません」
セラは、答えた。
「あなたが、失ってはならないものを、私は、知りません。知らないまま言えば、また、あなたを追い詰めます」
メレクの指が、卓の上で、止まった。
「……お前に、教えるつもりはない」
「はい」
「──私が、訊こう」
口を開いたのは、オルダだった。
メレクが、顔を向けた。
「あんたは、何を守りたいんだい。砦かい。兵かい。それとも」
オルダは、言葉を切った。
「……帰りたい場所かい」
メレクは、答えなかった。
長い間があった。
卓の上のパンが、乾いた音を、立てたように聴こえた。
「……白塔の兵の半分は、谷の生まれだ」
メレクが、低く言った。
「その半分に、冬を越させたい。それだけだ」
「なら、同じだね」
オルダは、うなずいた。
「うちの畑にも、あんたの兵の親が、いる」
メレクは、目を閉じた。
それから、静かに言った。
「白塔は、街道と浅瀬の管理を引き受ける。獅子は、砦を保持する。ただし、互いの通行を妨げないことを、文書に明記してもらう」
「もちろんです」
「穀倉の共同管理も受け入れる。余剰分の配分と、封印を開く条件も、文書に残す」
ヨナは、うなずいた。
「はい。異存ありません」
「──ひとつ、足しておくれ」
オルダが、言った。
「帳面には、麦の数と一緒に、冬に死んだ者の名も、書いておくれ」
メレクが、眉を寄せた。
「名を」
「数だけじゃ、次の冬に、誰も思い出さん」
ヨナは、少し迷ってから、手元の紙に、一行、書き加えた。
その場で、すべてが決まったわけではなかった。
──足りない食料が急に増えるわけでも、死んだ者が戻るわけでもない。
それでも、誰も、席を立たなかった。
ヨナは、パンの半分を、卓の中央の皿へ置いた。
メレクも、塩皿を中央へ乗せた。
──互いの皿へ、手が伸びたわけではない。
けれど、パンと塩は、同じ皿の上にあった。
オルダが、懐から、小さな木の椀を取り出した。
何も言わず、パンと塩のあいだに、置いた。
縁を、上にして。
天幕の隙間から差し込んだ朝日が、卓の上に伸びていた。
パンの表面を照らし、塩の粒に小さな光を宿す。
そのあいだに置かれた木の椀にも、淡い光が届いていた。
椀の縁が、朝の光を受けて、静かに浮かび上がっていた。
メレクは、その縁を、長く見ていた。
セラは、天幕の隅で、静かにそれを見ていた。
──水の借りは、まだ返し終えていない。
冬も、まだ終わってはいなかった。
(続く)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。m(_ _)m
水を求めること。
それを渡すこと。
そして、受け取ったものを、次の誰かへつないでいくこと。
この物語に登場する「水の借り」は、誰が誰に返したのかを問わない、谷に受け継がれてきた習わしです。
今回、オルダとメレクが交わした青銅の飾りにも、長い年月の向こうにあるものを込めました。
そして、最後に置かれた小さな木の椀。
まだ満たされてはいません。
けれど、そこには水を受け取る余地があります。
戦も、冬も、まだ終わってはいません。
それでも、誰かが椀を置いた。
その小さな仕草が、次に何をつないでいくのか。
物語は、もう少し続きます。お読みくださり、ありがとうございました。(人*´∀`)。*゜+<騙りました(笑)




