第六話:水の借り
停戦が明けるのは、明日の朝。
両軍が再び剣を交えるかもしれない夜、セラはルカとともに谷の村へ向かう。
交渉の場でこぼれ落ちた言葉。
まだ返し終えていない水の借り。
冬を前に、谷の人々が守ろうとしているものとは。
第六話です、宜しくお願いします。m(_ _)m
第六話:水の借り
──天幕の外は、夜だった。
青の陣の中で、セラは、二度、足を止めた。
一度目は、岩の陰で。
二度目は、剣を研ぐ兵士が見えたとき。
指先が冷えて、感覚がなかった。
手を、外套の中で握った。
開いた。また握った。
「ルカ」
声が、出なかった。
唾を飲んだ。
「ルカ。……一緒に、来てくれますか」
ルカが、振り返った。
きょとんとしていた。
「もう、来てますけど」
「そう、ですね」
ルカは、しばらく、セラの手元を見ていた。
「先生、怖いんですか」
答えるまでに、長くかかった。
「……はい」
「先生でも」
「口を開くたびに、また、誰かの門を、閉じてしまうのではないかと」
「あの朝も、ですか?」
セラは、顔を上げた。
「先生の手、震えてました。水を、受け取るとき」
セラは、何も言えなかった。
「槍を持つ兵は、手を見ますから。足が痛いと言ったのも、嘘じゃないんでしょうけど」
ルカは、前を向いた。
「あの手を見て、僕は水を渡したんです」
外套の中で、セラの手が、少しだけ、温かくなった。
「何処へでも、先生のお供します」
「ありがとう、ルカ……行きましょう」
セラは、ルカの差し出した手を借りて、馬に乗った。
陣のあいだの空き地に、見張りの火が点々と並んでいる。
獅子の火と、白い塔の火。
どちらも、相手の火を数えるように、燃えていた。
ルカは何も言わず、手綱を握った。
「村まで、急げますか」
「急ぎます。ただ、馬は、揺らしません」
「左の街道を、浅瀬の手前まで。そこから、枯れた麦畑の脇を」
道は、セラが知っていた。
「分かりました」
ルカが馬の向きを変えた。
街道へ出るには、二つの陣に挟まれた空き地を、端から端まで抜けなければならなかった。
蹄の音が、土を打った。
ひとつ、ふたつ。
それだけの音が、やけに大きく響いた。
──獅子の陣の見張りが、顔を上げた。
火の影が、馬の脚の下で、伸びては縮んだ。
「おい。どこへ行く」
獅子の陣から、声が飛んだ。
焚き火のそばにいた兵が、立ち上がっていた。
別の兵が、剣の柄に手を置いた。
「明日の朝には、停戦が明ける。今さら、逃げるつもりか」
「交渉が壊れたのは、この女のせいだぞ」
──白い塔の側でも、誰かが槍を持ち直す気配がした。
見張りの槍が、一本、また一本と、こちらへ傾いた。
弓を持つ者が、弦に指をかけた。
きし、と、弓が鳴った。
騎兵のひとりが、鞍に手をかけた。
「獅子の使いか」
「陣に近づけるな」
二つの陣が、同じ一頭の馬を見ていた。
どちらの側も、先に動いたほうが引き金になることを、知っていた。
馬が、耳を伏せた。
「走らないで」
セラは、低く言った。
「走れば、誰かが、射ます」
ルカの手綱を握る指が、白くなっている。
「……はい」
それでも、歩調は変えなかった。
セラは、振り返らなかった。
「何処に行くつもりかと聞いている」
馬の前に、若い兵がひとり、出かかった。
槍の穂先が、馬の胸の高さまで、下がった。
「待て」
低い声だった。
老兵が、その兵を留めていた。
獅子の外套の肩は擦り切れ、髭には白いものが混じっている。
「……ゲルトさん」
ルカが、小さく呟いた。
セラは、その顔を覚えていた。
ハーゲン将軍の陣の入口で、自分を間者と呼んだ男だった。
老兵は、ルカに一度だけ目を向けた。
大きく息を吸った。
それから、陣を隔てる空き地の向こうへ、顔を向けた。
「おい、白塔の連中も聞け!!」
その声は、天幕のあいだを抜けて、白い塔の火まで届いた。
「この女が何をしたか、知らねえ奴はいるか!」
白い塔の陣が、ざわついた。
「二万だ。獅子も、白塔も、二万の兵が、ぶつかるはずだった。あの日、誰も、死ななかった。こいつが、そうした!」
「一時、止めただけだろう!」
白い塔の陣から、声が返った。
「そうだ。一時だ!」
老兵は、一歩前に出て、声を張った。
「だから何だ。明日のことまで、誰も請け合っちゃいねえ。だが、あの日のことを、なかったことにするな!」
兵士の誰かが、息をのんだ。
──獅子の兵の中にも、不満は残っていた。
停戦が明ければ、また剣を握る。
その覚悟が、変わったわけではない。
下がっていた槍の穂先が、ためらうように、あがった。
「静まれ」
白の兵士の列を割るのは、メレクの声だった。
大きくはなかった。
だが、兵たちは、振り返った。
メレクは、セラを見ていた。
「──あの者が、どこへ行くかだけでは、兵を動かす理由には、ならん」
「しかし——」
兵のひとりが、言いかけた。
「我々は、あの日、戦わずに済んだ。それを、忘れてはいない」
メレクは、それ以上、言わなかった。
セラは、彼を見た。
礼は、述べなかった。
メレクも、うなずき返しはしなかった。
ただ、馬の行く先から、兵が退いた。
弓の弦が、ゆるんだ。
そのとき、ヨナが、天幕の前から歩いてきた。
セラの馬の前ではなかった。
彼は、白い塔の陣のほうへ、歩み寄っていた。
「メレク殿」
ヨナは、立ち止まった。
「私は、こちらに、残ります」
メレクは、すぐには答えなかった。
「──獅子の使者が、白塔の陣に身を置くと」
「交渉を続けるためです。私がここにいることで、両軍が剣を抜かずに済むなら」
ヨナは懐の厚みにそっと手を添え、背筋を伸ばしていた。
「……お前の兵は、許すのか」
「許さない者も、いるでしょう」
ヨナは、背後を振り返らなかった。
「それでも、あなた方を、信じます」
メレクの目が、わずかに動いた。
「……その信頼に、どう応えればよいのかな」
「私を、生かしておいてください。それだけで、結構です」
冗談めかした声ではなかった。
メレクは、しばらくヨナを見つめた。
それから、兵たちに告げた。
「この者の身柄は、我が預かる。誰も、手を出すな」
ヨナは、一礼した。
セラは、その背を見ていた。
──ヨナの胸元には、王から預かった、封の切られていない二通目の書状があった。
ヨナが敵陣で命を落とせば、その書状もまた、獅子の手を離れる。
止める言葉なら、いくつも思いついた。
「ヨナ」
呼ぶと、彼は振り返った。
「……お願いします」
それだけ告げた。
セラは、前へ向きを変えた。
ルカが、手綱を引いた。
馬は、二つの陣のあいだを、歩いた。
両側から、視線が、背中に刺さった。
獅子の兵も、白い塔の兵も、声を上げなかった。
剣を握る手は、まだそこにあった。
戦う理由も、消えたわけではない。
それでも、今は、誰も、二人を止めなかった。
──遠くに、陣営の灯りが見えた。
先ほどよりも、明かりの数が増えている。
白い塔の陣では、見張りの位置が変わり、幕の間を伝令らしい人影が行き来していた。
「……動いていますね」
ルカが、そちらを見た。
「戦になりますか」
「分かりません。ただ、何も決まらなかった以上、何も起こらないと考えるほうが危ないです」
正しい見立てだった。
けれど、今夜、自分が確かめたいのは軍の動きではない。
あの谷で、明日の朝も水を飲める者がいるかどうか。
それだけだった。
◆◆◆
──夜道には、覆いをかけた小さなランタンだけがあった。
セラは火が外へ漏れないよう、片手で覆いを押さえた。
道の両側には枯れ草が伏せ、踏みしめる土は、昼の熱を失って冷えている。
ルカは、セラを乗せた馬を引いて歩いていた。
手綱を持つルカの指が、まだ、わずかに震えていた。
「先生は、道を、ご存じなんですね」
「ええ。この谷は、歩きましたから」
ルカは、しばらく黙っていた。
「──ゲルトさんは、陣の入口で、いつも、僕の隣に立っていました」
「……」
「先生を罵ったあと、あの人は、ずっと、口数が減りました」
セラは、遠い火を振り返った。
「私は、彼の名前を、知りませんでした」
彼女は、言った。
「僕は、あんなに声が出る人だと、知りませんでした」
ルカは、それ以上、言わなかった。
──村へ近づくと、低い咳の音が聞こえた。
家の中からだった。
乾いた咳がひとつ、間を置いて、もうひとつ。
セラは馬を降りた。
戸口にいた女が、二人を警戒するように見た。
「……子どもが、熱を出していて」
ルカが馬を近くの柵につなぎ、セラが小袋から乾かした草を取り出した。
「お湯を少し、もらえますか」
女は迷ったあと、家の中へ、ふたりを連れて入った。
──セラは湯に葉を浸し、香りを確かめてから器を女に渡した。
「母に教わった、咳を抑えるものです」
ルカは、ちらりとセラを見た。
立ち上る葉の匂いに、ルカは覚えがあった。
弟に母親が飲ませていた物と、同じ匂いがした。荒野で、セラが足に擦り込んでいた草の匂いでもあった。
言葉で教わった覚えは、なかった。
ただ、歩くセラの横顔を、ずっと見ていた。
教えられた手つきは、教えた人が意識しなくても、誰かの手へ残っていく。
言葉とは違うかたちで。
──子どもはひと口だけ飲み、荒い息をついた。
熱もすぐには下がらないだろう。
女は器を抱えたまま、何度も頭を下げた。
「夜通し、名を呼んでいただけで。何も、してやれなくて」
──道すがら、戸口に藁を結んだ家を、いくつも見た。
この家に、藁はなかった。
「あなたの声は、何より尊い。自分を責めないで」
セラは、言った。
「今夜も、そばにいてあげてください」
女は、答えなかった。
子どもの額に手を当てたまま、動かなかった。
足音がした。
女が、暗がりへ顔を向けた。
「……長」
手に古いランタンを持った老女が、怪訝そうに、子どもに渡された湯の器を見つめていた。
女が呼んだのは、村長のオルダだった。
「夜中に、何をしているんだい」
「谷の長に、お会いしに来ました」
セラが静かに答えると、オルダは二人を交互に見つめ、やがて短く鼻を鳴らした。
「……うちへ来な、子が起きちまうよ」
◆◆◆
──村長の家は、井戸からそう遠くないところにあった。
オルダは二人が入ると、戸口の灯りの下で腰を下ろした。
「こんな時刻に、何の用だい」
深い皺の刻まれた顔には、長い疲労の層が見えるようだった。
「また水を、一杯、いただけますか」
オルダは、しばらく彼女を見ていた。
それから、何も尋ねず、椀に水を汲んだ。
セラは両手で受け取り、ゆっくりと飲んだ。
水は冷たかった。
ひと口飲むと、喉の奥が痛むほどに冷たかった。
それでも、セラは最後まで飲んだ。
身体の奥に残っていた乾きが、少しずつほどけていく。
「ありがとうございます」
「礼はいらないよ。水を請われたら、渡す。それだけだ」
炉の上の鍋では、どんぐりの粉が、灰色に煮えていた。
「……この谷には、決まりがある」
オルダが言った。
「水を請うた者には、水を。名を問わず、借りをひとつ負う。受けた水は、次に水を請う者へ渡して返す。誰が返したかは、問わない」
「はい」
セラは、深く頷いた。
「……陣のほうが、騒がしかったね」
オルダは、椀を見たまま言った。
「谷の生まれの兵が、何か、叫んでいたそうだ。……あんたかい」
「はい」
「そんな女が、夜中に、水を請いに来る」
老女は、顔を上げた。
「これは、重いよ。……なら、あんたは何を返すつもりだい」
セラは、椀を見下ろした。
「まず、話を聞いていただきたいのです。七年前のことを」
「谷と関係があるか……まあ、聞こう」
オルダは続きを促した。
「私は、正しいことを言いました。飢えた人たちに、これ以上税を課すのは間違っている。領主が門を閉ざせば、村の人たちは戻れなくなる。そう伝えました」
──言葉にすると、あの頃の自分の声が、まだ耳の奥に残っている気がした。
「領主のベルトランは、門を閉じました。人々は追い出され、戻れなくなった。私は、私の言葉が彼を追い詰めたのだと思いました」
「……領主が門を閉じたんだろう」
オルダの声は静かだった。
「はい。決めたのは、彼です」
セラは顔を上げた。
「それでも、私は逃げ道を残さなかったのかもしれません。正しい言葉を並べて、相手が何を選べるのか、考えなかった」
オルダは、すぐには答えなかった。
「……正しいことを言わなきゃならない時はあるよ」
火が小さく鳴った。
「けれど、正しさだけで人が動くわけじゃない。あんたが何を言ったかは、私には分からない。領主が何を考えたのかもね」
オルダは息をゆっくりと吐いた。
「私は、あんたを許すとも、責めるとも言えない……それだけさ」
セラは、炉の火を見つめた。
──許してほしくて、ここへ来たのではない。
そう言い切れるほど、セラは自分を分かっていなかった。
──ただ、ここで誰かの言葉を借りて、自分の過去を終わらせたくはなかった。
オルダは戸口の外を見た。
「でも……私なら、まずは、この冬だね」
その言葉は、慰めではなかった。
約束でもなかった。
目の前にあるものを、目の前にあるまま引き受けろという声だった。
「……オルダさんは、何を、守りたいのですか」
セラは訊いた。
「教えてください。私が、決めることでは、ありませんので」
オルダは目を瞑り、顎に手をあてた。
「……種麦と種籾だよ。冬を越すものと、春に蒔くもの。それから、兵に、倉を空けられないこと」
指を更に折りかけて、やめた。
「それだけさ。王の面目も、砦の旗も、うちの畑は、知らない」
「どちらの国を選べとは、私には、言えません」
「当たり前だね」
オルダは、鼻で笑った。
「……獅子側では、あるんだろ」
ルカを一度見てから、セラへ目を戻した。
「あんたに任せたら?」
「私にも、できないことが、あります。ですから、私ひとりでは、決めません」
オルダは、初めて、大きく笑った。
「借りを返すために、何を頼みに来た」
「何も」
「嘘をつくな。顔に書いてある」
「……王と白い塔の使節が、穀倉の門を、三つの印で閉じようとしています。残りの一つは、谷の長の印です」
「谷の長とは」
「あなたです」
オルダは、笑わなかった。
「……印を押せば、どちらの国にも、私の名が残るね」
「はい」
「春までに、どっちかが約束を破れば、最初に首を刎ねられるのは、私だ」
「はい」
セラは、それを、偽らなかった。
「三つとも揃わなければ、今より飢えて死ぬ者が出るね」
「……はい」
偽れば、七年前の繰り返しだった。
「春の耕しに使う牛を、昨日、潰した」
炉の火が、爆ぜた。
「だから、春に、耕す牛がいない。それでも、冬を越せるかどうか、分からん」
家の外の咳が、また聞こえた。
「……あの子には、まだ、名がない。谷では、三つになるまで、名をつけん。つけて死なれると、堪えるからね」
オルダは、鍋を見たまま、言った。
「あんたは、名を告げなかった。だから、返せ」
「何を」
「この冬を、越させろ」
オルダは、セラの顔を見た。
セラは、椀の底に残った水を見た。
「……冬を越す。誰かひとりのためじゃない。この谷で生きる者のために」
沈黙が落ちた。
ルカが、口を開いた。
「……冬は、山から降りてきます」
二人が、振り返った。
ルカは、戸口の外の闇を見ていた。
「山に、雪が積もります。谷の冬は、あの雪と一緒に来る」
「雪は、山にあるあいだは、誰のものでもありません」
「春になると、解けて、流れ出します」
「石のあいだを抜けて、川になる」
「川は、山の土を運んで、谷の底に、置いていく」
「その土に、畑ができる」
ルカは、小さく息を吸った。
「……谷の子は、みんな、そう教わります。だから、水を請われたら、断らない」
オルダは、何も言わなかった。
セラは、ルカを見た。
言葉は、ひとつずつ、順に置かれていた。
誰も、結論を急がなかった。
「山の水が、土になり、その土で、麦が育つ」
セラが、ゆっくり言った。
「麦は、また、誰かの口に入る。……水を請うた者が、受け取ったものを、次に請う者へ渡す。それは、水だけではなく、土も、麦も、冬を越す力も」
セラは、椀を両手で持った。
「この冬を越させる、というのは、次に水を請う人の分を、残しておくことなのですね」
オルダの目が、ほんのわずかに、緩んだ。
「……それが、谷の借りだよ」
セラは椀をオルダに渡しながら、それだけ、答えた。
「……返すことを、します」
それが約束と呼べるものかどうか、分からなかった。
けれど、その水を飲む者が、いつまでも谷にいるとは限らない。
オルダは椀を受け取り、卓の端へ置いた。
「白い塔の代表が——」
セラが、言いかけた。
オルダは、立ち上がった。
膝が鳴った。
「言うな」
オルダが、遮った。
「あんたに頼まれて行くんじゃない。水を頼むのは、私だ。私の村の水だ」
オルダは、戸口へ向かった。
「それに、人が何を背負っていようと、私が水を請う理由にはならない。私が守りたいものは、私が決める」
振り返らなかった。
オルダの祖母の、その祖母も、その土に麦を播いていた。
──「私の村の水」には、その年月が、全部入っていた。
セラは、伏せられた椀を見た。
返すべき水が、どこから来たのか。
誰が、いつ、誰に渡したのか。
知らないことは、まだ多かった。
それでも、水は、ここまで流れてきた。
(続く)
第六話をお読みいただき、ありがとうございます。m(_ _)m
セラが過去と向き合う一方で、ルカが見てきたもの、オルダが守ってきたものにも、少しずつ触れています。
正しい言葉を口にすること。
誰かの言葉を聞くこと。
そして、受け取ったものを次へ渡していくこと。
すぐに答えが出るわけではありません。
それでも、冬は待ってくれません。
次話も、どうぞよろしくお願いいたします。(*人´ω`*)




