第五話:七つ目の言葉
言葉は、正しいだけでは、人を救えないことがある。
相手の恐れを知ることと、それを口にすること。
その違いを、セラはまだ学びきれていません。
交渉が止まった三日目。
七つ目の言葉が、何をもたらすのか。
第五話、よろしくお願いいたします。m(_ _)m
【第五話:七つ目の言葉】
天幕の卓には、三日間、パンと塩が置かれていた。
パンは乾いて、反り返っていた。
塩は湿気を吸い、崩れた塊になっていた。
三日のあいだ、どちらの側も、相手の皿には手を伸ばさなかった。
──交渉は、止まっていた。
この三日間、セラは、何度も言葉を飲み込んだ。
◆◆◆
一つ目。
交渉の初日、双方は砦の所有権を主張した。
ヨナは、王から渡された一枚目の紙を読み上げた。
『砦を明け渡すこと。』
『川の浅瀬を青い獅子の国の管理下に置くこと。』
『街道の通行を、こちらの法に従わせること。』
メレクは、最後まで聞き、紙を卓に広げた。
──白い塔の国も、同じような要求を持ってきていた。
どちらも、相手が呑めないと知っている条件だった。
セラは、ヨナの袖に、小さな紙を差し入れた。
そこには、こう書いてあった。
『──砦を得たあと、何を守るのか。』
ヨナは、すぐには口にしなかった。
代わりに、次の議題を求めた。
二つ目。
二日目の朝、砦の補修費と、川沿いの道の修繕費が話題になった。
双方とも、相手が壊したと主張した。
ヨナが、古い記録を広げた。
道の補修に使われた石材は、両国から運ばれていた。
砦の外壁も、かつては双方の職人が修理していた。
メレクは、記録を指で押さえた。
「昔の取り決めは、今の国境には合わぬ」
そう言いながら、彼は記録をヨナに戻させなかった。
セラは、その手を見ていた。
『手放すつもりは、ない。』
『だが、捨てるつもりも、ない。』
三つ目。
昼過ぎ、白い塔の将校が、兵の通行権を要求した。
砦を空にしても、兵が自由に川を渡れるなら、意味がない。
青い獅子の護衛が反対した。
椅子の脚が、石床を擦った。
ヨナは、書きかけの紙をセラに渡した。
セラは、将校の言葉を聞き終えてから、紙の端に書いた。
『──兵が通る道と、荷車が通る道を、分けることはできないか。』
ヨナは、その一行を読んだ。
「兵の通行は、砦を通らぬ街道に限る。その代わり、荷車の通行を、両国が保証する」
将校は、すぐには答えなかった。
──だが、剣の柄から手を離した。
四つ目。
その日の夕刻、ヨナは、谷の村から届いた報告を読み上げた。
『焼けた家が十二。』
『収穫できなかった畑が、三十余り。』
『逃げた住民の数は、わからない。』
記録に残っているのは、徴税のために数えられた者だけだった。
メレクは、報告を聞いても、顔を変えなかった。
ただ、塩の小皿に触れていた指が、止まった。
セラは、続きの報告を書かなかった。
五つ目。
三日目の朝、青い獅子の使節団に、宰相府から封書が届いた。
ヨナは封蝋を確かめ、王の印ではないことを見抜いた。
中には、『交渉を打ち切り、砦の奪還を急ぐべきだ』という文言があった。
末尾には、王の許可があると記されていた。
だが、王の署名はなかった。
ヨナは、封書を懐にしまった。
セラは、尋ねなかった。
しばらくして、天幕の外で、馬の蹄が鳴った。
王の使者だった。
彼は、宰相府からの命令は、王の確認を得ていないため、実行してはならないと告げた。
その場にいた護衛たちは、誰も口を開かなかった。
宰相本人は、王都に残っていた。
ヨナは、封書をもう一度取り出した。
文面を読み返しても、命令の出どころはわからない。
宰相が、王の確認を得ずに命令を出したのか。
あるいは、王の名を借りて、誰かが勝手に動いたのか。
ヨナは、封書を折り直した。
「この書状を、ハーゲン将軍へ」
護衛に向けた声は、低かった。
「原本を届けてください。宰相閣下の筆跡だけでなく、文面も、封蝋も、そのまま確かめていただきたい」
護衛がうなずいた。
「将軍は、宰相閣下と旧知でいらっしゃる。何かお気づきになるかもしれません」
ヨナは、書状を渡した。
それで真実がわかるとは、思っていなかった。
ただ、確かめずに決めつけることだけは、避けたかった。
セラは、何も言わなかった。
わからないことを、わかったふりはしなかった。
六つ目。
ヨナが、交渉の紙を整えた。
「砦の話は、いったん措きましょう」
メレクの眉が、わずかに上がった。
「措く、とは何か」
「どちらの兵も、置かない。空にしておく、ということです」
ヨナは、手元の紙を見た。
声は、落ち着いていた。
「その代わり、谷の穀倉を、両国の印で封じます。冬の間も、原則として、開けるのは、両国の者が揃ったときだけ」
──天幕の中が、静かになった。
外で、風が旗を鳴らした。
それは、勝利ではなかった。
敗北でもなかった。
少なくとも、今すぐ戦を再開する理由にはならなかった。
──メレクは、案を聞き終えると、天幕の入口のほうを見た。
セラは、その目を追った。
幕の隙間から、谷の下の村が見えた。
家の半分は焼け落ち、焼け残った梁が、黒く空を指している。
畑には、刈られなかった麦が、倒れたまま腐っていた。
──この三日間。
メレクは二度、三度と、そこへ目を向けていた。
セラは、紙の端に、一行だけ書いた。
『──冬の飢えを、恐れている。』
書き終えたあと、セラは、その一行を見つめた。
相手が何を恐れているか。
それを知ることと、口にすることは、同じではない。
──わかっていたはずだった。
それでも、彼女は紙を折り、ヨナの肘のそばへ置いた。
ヨナは読み、顔色を変えず、一度だけ、隅を振り返った。
セラは、うなずきもしなかった。
その静けさを破ったのは、メレクの背後に立つ、若い将校だった。
「穀倉に、敵の印を押せと言うのか」
将校が立ち上がった。
椅子が、倒れた。
「我らの麦を、敵に見張らせる。これを降伏と呼ばずに、何と呼ぶ。団長、席をお立ちください」
メレクは、動かなかった。
ただ一言。
「……お答えいただこう」
ヨナの喉が、小さく鳴った。
こちらの護衛が、剣の柄に手をかけた。
セラは、書きかけの写しを見つめていた。
『封は、両国の者が揃ったときにだけ、開く。』
『揃わなければ。』
『冬のさなか、どちらかが来なければ、封は閉じたままになる。』
谷の下の村の者は、穀倉の前で、待つ。
『待つあいだに、誰かが死ぬ。』
門が閉じる。──七年前の音が、耳の奥で鳴った。
セラは、書きかけの写しを裏返し、新しい一行を書いた。
手が、わずかに震えていた。
ヨナの肘のそばへ、置いた。
ヨナは読み、顔を上げた。
「……封は、三つの印で閉じます」
「三つ?」
初めて、メレクが口を開いた。
「両国の印と、谷の村の長の印です」
ヨナは、倒れた椅子を見た。
それから、メレクに目を戻した。
「ふだんは、両国の者が揃ったときにだけ、開く。ただし、村の長が求めれば、三日の猶予を置く。その間に両国の者が来れば、立ち会いのもとで、開ける。来なければ、三日目に、長の手で、開けられる」
将校の唇が、動いた。
「村の長は、どちらの民だ」
「谷の民です」
「それは、答えになっていない」
ヨナは、紙から目を離さなかった。
「はい」
声は、かすかに揺れた。
「ですが、最初の冬に飢えるのは、谷の民です」
将校は、倒れた椅子を見下ろした。
長い間のあと、メレクが、静かに言った。
「椅子を、起こせ」
将校は、動かなかった。
メレクは、彼を見た。
「椅子を、起こせ」
将校が、椅子を起こした。
メレクは、ヨナに向き直った。
「貴国は、冬の飢えを、恐れておられる」
声を発したヨナの指が、紙の端を押さえた。
「谷の下の村から、人が流れ込む。それが、お困りなのでは」
メレクの指が、卓の上で止まった。
「……何を、根拠に」
「お目が、幕の外へ行かれました」
その一言は、最初の紙の余白に書き添えた、セラの観察の一行だった。
ヨナは、それを、そのまま読み上げた。
天幕の空気が、変わった。
メレクの目が、ゆっくりとヨナに向いた。
「……我が、女の書記に、顔色を読まれたと」
メレクの声は、低かった。
メレクは、ゆっくり立ち上がった。
さっきまでの、疲れた老人では、なかった。
「それを、我が将兵の前で、言ったか」
ヨナの肩が、わずかに強張った。
「いえ、私は——」
「我が何を恐れているか。貴殿は、それを、貴殿の国のために使うと言うのだな」
ヨナの口が開いた。
声は、出なかった。
メレクは、卓の上のパンを見た。
それから、塩の小皿を見た。
「交渉は、ここまでだ」
メレクの目が、隅に座るセラへ、一瞬だけ向いた。
その目にあったのは、怒りだけでは、なかった。
セラは、視線を落とした。
幕が、はね上げられた。
白い塔の使節が、一人、また一人と、出ていった。
最後の将校が、幕を叩きつけた。
卓には、割られたパンと、塩の小皿だけが、残った。
セラは、動けなかった。
──私は、また、やった。
それは、『七つ目の言葉』だった。
──目の前の男が、何を恐れているかを、暴く言葉。
口にしたのはヨナだが、研いだのは、私だ。
ベルトランの顔が、浮かんだ。
人の恐れを見抜いて、人の前で、言い当てた。
正しかった。
正しかったから──門が、閉じた。
七年かけて、手を見ることを、覚えたはずだった。
見たものを、どこで、誰の前で、口にするかは、まだ──覚えていなかった。
◆◆◆
天幕を出ると、川の音が聞こえた。
ルカは、護衛の詰め所のそばで馬と待っていた。
彼は、セラの顔を見るなり、立ち上がった。
「交渉は、どうなったんです」
セラは、答えなかった。
ルカは、天幕のほうを見た。
「……失敗したんですか」
「はい」
短い返事だった。
ルカは、何か言おうとして、やめた。
しばらくして、彼はセラの横に並んだ。
「先生は、どうやって交渉したんですか」
セラは、川を見た。
「相手が、何を望んでいるかを聞くつもりでした」
「聞けば、わかるんですか」
「わからないこともあります」
「じゃあ、何のために聞くんです」
セラは、少しだけ、ルカのほうを向いた。
「わからないまま、決めつけないためです」
ルカは、黙った。
川の水が、石にぶつかって白く砕けた。
「でも、あちらが、何を恐れているか、わかったんでしょう」
セラは、答えなかった。
ルカは、続けた。
「それを言ったら、交渉が壊れた」
「はい」
「なら、言わなければよかったんですか」
セラは、しばらく考えた。
「……言わないだけでは、足りなかったのかもしれません」
ルカは、彼女の右頬を見た。
すぐに、視線を外した。
「……難しいですね」
「ええ」
セラは、川から目を離さなかった。
「難しいです」
◆◆◆
その夜、ヨナは、天幕の灯りの下で、懐の紙を、握っていた。
王から預かった二枚目の紙だった。
封はされていない。
ただ、折りたたまれている。
「二枚目を、開きます」
ヨナは、顔を上げた。
目の下の隈が、灯りのせいで濃く見えた。
「陛下の、ですか」
「砦を、譲る、と書いてあるかもしれません。書いていないかもしれない。どちらでも、これを出せば、終わります」
セラは、紙を見た。
「国は、終わります」
そう繰り返したヨナは、紙の折り目を親指でなぞった。
「冬は、待ちません」
「はい」
「このまま交渉が壊れれば、また人が死ぬ。陛下が何を願っておられたとしても、谷の者には、届かない」
セラは、ヨナの手を見た。
指は、インクで黒く、爪の際が、噛み切られていた。
ヨナは、紙を握り直した。
「私は、書くだけの人間でした」
小さな声だった。
「言う側に回ったのは、今日が、初めてです」
セラは、何も言わなかった。
ヨナの手が、震えていた。
セラは、それを見た。
見て、何も言わなかった。
しばらくして、セラは立ち上がった。
「朝まで、待ってください」
「何を、なさるのですか」
セラは、天幕の入口を見た。
夜の向こうに、谷の村があった。
焼けた家。
刈られなかった麦。
冬を越せるかどうかも、わからない人々。
「──水を、一杯、いただきに行きます」
天幕の外では、冷たい風が、枯れ草を撫でるように吹いていた。
(第五話 終)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
正しいことを言ったはずなのに、誰かを追い詰めてしまう。
黙っていればよかったのか。それとも、言い方が違えばよかったのか。
セラにも、まだ答えはわかりません。
それでも、冬は待ってくれない。
次話では、交渉の席を離れたセラが、谷に伝わる小さな習わしに立ち返ります。
引き続き、お付き合いいただけましたら幸いです。(*人´ω`*)




