第四話:二つの天幕
それぞれの正しさを抱えたまま、人は向かい合う。
譲れば負ける。
譲らなければ、失われていくものがある。
二つの国が向き合う谷で、セラたちは交渉の席に着く。
けれど、彼女が探そうとしているのは、勝つための言葉ではなかった。
第三話から続く物語です。m(_ _)m<説明が多くなります。
【第四話:二つの天幕】
谷は、東の獅子の国と、西の白い塔の国のあいだに、横たわっていた。
北岸には、古い街道がある。南岸には、浅瀬がひとつ。
谷底を、浅い川が貫いている。
川の上流には岩棚がせり出し、その上に、石造りの砦が建っていた。
砦からは、北の隘路も、南の浅瀬も見下ろせる。
谷を通る者は、どちらを通るにも、砦の目を逃れられなかった。
──この谷は、ひとつの郡だった。
川の水を分け、道を直し、穀倉を共同で使う。
収穫した麦は、谷の石造りの倉に蓄えられた。
凶作の年には、村々が必要な分を持ち出した。
谷を守るために、穀倉のそばに見張り台が建てられた。
見張り台は、石壁を持ち、塔を持ち、やがて砦と呼ばれるようになった。
穀倉に蓄えられた麦は、いつしか、兵のためのものになった。
百年前、先々代の王たちは、この川の真ん中に、国境の線を引いた。
線は、地図の上では一本だが、現地では、川原の石に、白墨で引かれる。
春の増水で消えるたび、両国の役人が、また引き直す。
谷を通る荷車は、かつて、どちらの国にも関税を払わずに済んだ。
谷の民は、王の旗が変わるよりも、春に水が流れることを大事にしていた。
砦を手放せば、相手の軍が谷を押さえる。
浅瀬を失えば、荷車も兵も、川を渡れなくなる。
水と道をめぐる争いは、いつしか、奪われた土地を取り戻す戦と呼ばれるようになった。
◆◆◆
──国境の谷に、天幕が二つ張られた。
こちらは青い獅子。向こうは、白い塔の旗。
二つの天幕は、その線を挟んで、向き合うように立てられた。
その間には卓があった。
卓の脚の間を、白い線が通っていた。
──線を越えることは、侵略と見做された。
卓の両側には、一脚ずつ、空の椅子が置かれ、背に、白い布がかけられていた。
王の椅子だった。
──和平の使節を送り出した以上、王自らが交渉の席に着くことは、譲歩を認めたと受け取られかねない。
まずは条件を探り、帰ってきた報告をもとに、最後の決断を下す。
白い塔の王も、同じ理由で姿を見せなかった。
空の椅子は、この卓の、最初の取り決めだった。
そのあいだに、谷では人が死んでいた。
──ここまで来るのに、十一日かかった。
交渉の前月、北の街道で荷駄隊が襲われた。
青い獅子の兵が二人、白い塔の兵が一人、死んだ。
誰が先に矢を放ったのか、報告は食い違っていた。
その五日後、南の浅瀬で小競り合いが起きた。
川を渡ろうとした兵と、それを止めた兵が、互いに剣を抜いた。
今度は、青い獅子の兵が一人、帰らなかった。
白い塔の兵も、二人が負傷した。
どちらの国も、相手が先に手を出したと主張した。
それでも、三日前、両国は一時休戦に合意した。
──こちらの荷駄は、先月から麦の袋が半分になっていた。
──向こうの軍馬は、肋が浮いていた。
──谷の村では、畑を捨てて山へ逃げる者が増えていた。
このまま戦を続ければ、砦を手に入れる前に、守るべき土地そのものが痩せていく。
それを口に出す者は、誰もいなかった。
──休戦の期限は、三日。
その間に交渉の道筋をつけられなければ、双方の軍は、再び武器を取ることになっていた。
天幕が張られたのは、川の中洲に近い平地だった。
どちらの国の城下からも遠く、どちらの砦からも弓の射程の外にある。
両岸から伸びる道が、そこだけで合流していた。
かつて、谷の民が収穫祭を開いた場所だという。
今は、草の間に古い石組みが残るだけだった。
天幕の周囲には、両国から同じ数の護衛が立っていた。
剣は腰に帯びている。
だが、鞘から抜くことは禁じられていた。
交渉の席で血が流れれば、休戦は終わる。
最初に剣を抜いた側が、休戦を破った国となる。
その決まりだけは、双方が譲らなかった。
◆◆◆
「──いよいよ、明日ですね」
国境へ入る前の晩、ルカが呟いた。
焚き火の向こうで、膝を抱えている。
少し離れた場所では、ヨナが翌日の交渉資料を広げていた。
風が吹くたび、紙の端がめくれる。
ヨナはそのたびに指で押さえ、端を揃え、また一枚目に戻った。
何度目かに同じ紙を開いたとき、ルカがそちらを見た。
「……眠れないんですかね」
セラは、火に目を向けたまま答えた。
「眠れないのでしょうね」
「先生も?」
「はい」
ルカは、セラの横顔を見た。
火の明かりが、頬の傷を照らしていた。
セラは気づいていたが、何も言わなかった。
ルカは視線を膝に戻し、落ちていた枝を拾った。
「先生は、どうやって話をまとめるんですか」
「まとめません」
「え」
「まとめるのは、あの人たちです」
ルカは枝の先で、灰を押し分けた。
「でも……どっちも、自分が勝ったことにしたいでしょう」
「はい」
「じゃあ、どうするんですか」
「勝ち負けの話は、しません」
ルカは、枝を止めた。
「……それで、向こうが納得しますか」
「分かりません」
セラは、膝の上で両手を重ねた。
指先が冷えていた。
「何の話をするんですか」
「冬の話を」
「冬なら……どっちにも来ますね」
「はい。だから、です」
火が、ぱちりと鳴った。
ルカは、枝を火にくべようとして、やめた。
「……冬が来るのは、分かってるのに」
その先は、言わなかった。
セラは、彼の手元を見た。
枝の先が、灰に触れている。
「分かっていても、口にできないことはあります」
「どうしてですか」
「口にしたら、認めなければならなくなるからです」
ルカは顔を上げた。
セラは火を見ていた。
「足りないことも。失ったことも。もう、引き返せないことも」
少し離れたところで、紙を揃える音が止まった。
ヨナが、こちらを見ていた。
広げた書類の上に、両手を置いている。
火の明かりを受けて白く浮いていた。
やがて、彼は一枚の紙を裏返した。
何も書かれていない面だった。
ヨナはペンを手に取った。
ルカは、ヨナを見てから、セラに向き直った。
「先生は、卓に着かないんですか」
「着きません。後ろにいます」
「……顔、見られるからですか」
セラの指が、わずかに動いた。
重ねた手の下で、親指が、もう片方の手の傷跡をなぞった。
「それも、あります」
ルカは、何か言いかけた。
けれど、言葉を探すように口を閉じた。
「女が場にいることを認めない人もいます」
セラは、それを待たなかった。
「それでも、諦めないんですね」
今度は、ルカのほうが訊いた。
セラは、しばらく答えなかった。
火の中で、枝が崩れた。
「分かりません」
セラは、火を見たまま言った。
「何を言えばいいかは、分かりません。あの人たちが、何を言えずにいるのかを、聞きます」
ルカは、ゆっくりとうなずいた。
納得したのかどうかは、分からなかった。
彼は、枝を火に投げ入れた。
「……俺は、外で、馬を見てます」
「はい」
「何かあったら、呼んでください」
「はい」
ルカは立ち上がり、膝についた土を払った。
二、三歩進んだところで、足を止めた。
「先生」
「はい」
「……明日も、ここにいますから」
セラは、彼を見た。
ルカは振り返らなかった。
「馬のそばに、です」
「はい」
それだけ言って、ルカは暗がりへ歩いていった。
しばらくして、馬の鼻息が聞こえた。
セラは、火に手をかざした。
冷えた指先に、熱が戻ってくる。
ヨナが、紙を重ねる音がした。
「……セラさん」
呼ばれて、彼女は顔を上げた。
ヨナは、書類を閉じていた。
「明日、何かを言うことになったら」
そこで、言葉が途切れた。
彼は、閉じた書類の角を、親指で押さえていた。
「……いえ。何でもありません」
セラは、問い返さなかった。
ヨナは書類を抱え、天幕へ戻っていった。
火のそばには、セラだけが残った。
彼女は、燃え残った枝を一本、火の中央へ押し込んだ。
火の粉が、ひとつだけ、夜空へ昇った。
すぐに、見えなくなった。
◆◆◆
──卓には、儀礼があった。
獅子の国の者は、卓に着くと、麦のパンを割って、隣へ渡す。
──毒のない証であり、自分の飢えを、相手に預ける印でもある。
白い塔の国は、塔の刻印を押した塩の袋で、兵に給金を払う。
塩の袋を受けた者は、卓に着く前に、額へひとつまみ、当てる。
──腐らぬものに誓う、という印だという。
だから、卓の中央には、割られたパンと、塩の小皿が、置かれた。
『互いの皿へ、手が伸びたとき、承諾は、始まる。』
──獅子の席には、ヨナが座った。
二十八になったばかりだった。
痩せて、背が高く、肩が内へ巻いている。
書記の服の袖口は擦り切れ、右の中指には、ペンだこの白い瘤があった。
王の選任を受けた事務官。
それ以上の肩書は、なかった。
向かいには、白髪の使節団長が座った。
白い塔の国の宰相だと言う。
名を、メレクといった。
六十を少し過ぎている。
背は低いが、芯の通った座り方で、短く刈った白髪の下の顔は、日に焼け、目尻から耳へ、深い皺が走っていた。
塩の色の外套を着て、手は大きく、指が太かった。
襟元から、古びた青銅の飾りが、わずかに覗いていた。
セラは、ヨナの後ろの隅で、書記の写しを取る役をしていた。
フードを被り、顔を見る者は、いなかった。
見られないから、聞けた。
初日、ヨナは、パンを割った。
指が、震えていた。
半分を、隣の空の椅子へ置いた。
メレクは、塩の小皿を、卓に置いた。
塩の小皿を卓に置くとき、彼だけが、両手を使った。
──互いの皿に、手は、伸びなかった。
(第四話 終)
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は、二つの国が向き合う谷と、和平交渉の始まりを描きました。
それぞれに譲れない事情があり、それぞれに守りたいものがある。
けれど、そのあいだで、冬は待ってくれません。
セラは、何を語るのか。
そして、何を語らずにいるのか。
次話から、交渉が動き始めます。
引き続き、お付き合いいただけましたら嬉しいです。(*人´ω`*)




