第三話:王は、問う
人の上に立つ者にも、答えの出せない問いがある。
正しい言葉は、ときに人を追い詰める。
けれど、何も言わなければ、救えないものもある。
セラは、彼の前で何を語り、何を語らずにいるのでしょうか。
第三話です。m(_ _)m
【第三話:王は、問う】
王都の門を、セラたちは、ヨナの先導でくぐった。
──宿を訪れた書記官の名は、ヨナと言った。
日没のあとだった。
門番は、黒い封蝋を見て、顔を見なかった。
通りの店は、どれも板戸を下ろしていた。
パンの形の看板の下に、貼り紙が一枚。
『麦札、受けず』。
荷車の轍には、乾ききらない泥が溜まっていた。
水桶の並ぶ辻に、人影はない。
どこかの家で、咳がひとつ聞こえた。
──塔の石段は九十六あった。
戸口には、衛兵が二人いた。
「名と、出身を」
ルカが答えると、衛兵の一人は手元の紙に目を落とした。
「……ここで待て」
それ以上、何も聞かなかった。
ルカは、控えの間に残された。
塔の上の小部屋には、燭台が一本きり。
侍従はいない。
ヨナが、戸口に立っているだけだった。
部屋の奥に、背の高い椅子があった。
黒ずんだ木の肘掛けには、獅子の頭が彫られている。
金箔はところどころ剥げ、座面の深い皺には、長く使われた革の艶が残っていた。
青い獅子の国の王、ライナルトは、その椅子に座っていた。
背もたれに身を預けているわけではなかった。
両足を床につけ、少し開いた膝の間に、重い胴を収めるようにして座っている。
厚い指が、肘掛けの獅子の頭を覆っていた。
王冠は、卓の端に置かれていた。
頭に載せているときより、そこに置かれているほうが、かえって重そうに見えた。
卓には、羊皮紙が数枚、広げられていた。
封の切られた書状。
黒くなった蝋。
冷えた茶の杯。
どれも片づけられないまま、燭台の光を受けている。
王は、こちらを見た。
五十には届かないはずだが、思っていたより老けていた。
頬は少し痩け、首も筋張っていた。
豪奢な衣の襟元には、わずかに肌が食い込んでいた。
目の下に、長く眠っていない人間の影がある。
けれど、その顔に浮かぶ疲れは、身体の重さとは別のところから来ているようだった。
「──ヨナから聞いた。干し肉の老人の話を」
王の指が、肘掛けの獅子の頭をゆっくり撫でた。
彫られた鼻先は、長年触れられたせいか、ほかの部分より滑らかになっていた。
「私が、奪えと命じたわけではない」
「はい」
「それは、私の責になるのか」
「陛下の兵だからです」
指が止まった。
王は笑わなかった。
蝋燭の芯が、小さく鳴った。
「……宰相は、お前を斬れと言った」
王は卓に両手を置いた。
「ハーゲンは、会えとだけ言った。理由は言わなかった。理由を言わぬ男では、なかったのだが」
「将軍は、何か」
「眠れぬ夜に、黙って立っていた女がいた、と。……褒め言葉だと気づくのに、少しかかった」
セラは、腹の上で、指を組み直した。
「お前は、私に何を言いに来た」
「何も」
「何も?」
「呼ばれて、参りました。陛下が何をお望みか、存じません」
王は長く、セラの顔を見ていた。
動かない右の頬から、目をそらさなかった。
──そらさない人間は、久しぶりだった。
セラは、そう思った。
「……戦を、終わらせたい」
ぽつりと、それだけが出た。
王は、卓に置いた両手を見下ろし、息を吸った。
「だが、終わらせ方を、誰も言わぬ。やめれば負けだと言う。続ければ国が痩せると言う……」
途中で、わずかに詰まった。
「……どちらも本当なのだろう。それで私は、毎晩ここにいる」
「負けとは、何でしょうか」
「臣下の前で、頭を下げることだ」
王は、窓のほうを見た。
暗い窓硝子に、燭台の火と、自分の顔が重なっていた。
外の景色は、ほとんど見えない。
「父は、一度も頭を下げずに死んだ。民は、立派な王だったと言う。私は、その立派な王の戦を、続けている」
王は、窓から目を離さなかった。
セラは、黙っていた。
「間違っているか」
「分かりません。陛下のお父上を、私は存じません」
王が、息だけで笑った。
「正直だな」
「嘘は、苦手です」
セラは、しばらく黙って、王の手を見た。
指の節は太く、爪の際には、黒い蝋が残っていた。
──書状の封を切り、返書を書き、また封を切る。
その繰り返しを、どれほど続けてきたのだろう。
セラの指が、腹の上で、固く組み合わされた。
セラの喉には、言葉が七つあった。
一つ。紙屑と化した、王の麦札。
二つ。石段で乱れる、兵たちの足音。
三つ。宰相が、セラを斬れと命じた理由。
四つ。将軍ハーゲンの、父としての悲鳴。
五つ。消え果てた、国境の灯火。
六つ。死した先王の、呪いのような誇り。
七つ。沈黙の中で、内から腐ちゆくこの国。
どれも、間違いではないかもしれない。
どれも、口にすれば王を追い詰められる。
言葉は、いくらでも刃になれた。
「──私は、どちらを選んでも、誰かを死なせる」
王は、再び、セラの動かない顔を見た。
「お前なら、どうする」
問いかけた声には、命じる響きがなかった。
「──頭を下げずに終わる形は、探せます」
セラの口から出たのは、刃ではなかった。
「下げずに、か」
王は、わずかに顔を上げた。
セラは、静かに続けた。
「相手にも、下げさせずに」
王の眉が、わずかに動いた。
「そんなものが、あるのか」
「あるかどうかは、探してみないと分かりません」
「そもそも、何を争っているのですか」
「谷だ。水と、道と、そこに暮らす者たちの土地だ」
王は、壁に掛けられた地図を見た。
「父は、奪われたものを取り戻す戦だと言った。相手も、同じことを言っているのだろう」
王の指が、地図の谷に触れた。
「……ここに、何人住んでいたか、知っているか」
セラは答えなかった。
「余は、知らぬ」
王の指が、谷の上で止まっていた。
「いや。知ろうとしなかったのだろうな」
王は指を離した。
「地図の上では、谷は小さい。道も、川も、線を引けば済む……」
言葉が途切れた。
「だが、そこに住む者たちが、どちらの王のために死ぬのかは……」
王は地図から目を離し、机の上に置かれた王冠を見た。
「宮廷に残れ。名も、地位も、やる」
王は、何かを言い足しかけた。
けれど、口を閉じた。
セラは、王を見た。
その言葉が、命令ではないことはわかった。
王は彼女を手元に置こうとしている。
それでも。
「いただけません」
「なぜだ」
「名がつけば、私は陛下の臣下の言葉になります。臣下の言葉は、敵に届きません」
王は、卓の羊皮紙に目を落とした。
しばらくして、低く言った。
「では……何を望む」
「二枚、書いていただけますか」
セラは、卓の端の紙を、王の前へ滑らせた。
「一枚には、こちらが相手に求めるものを。もう一枚には、本当は譲れるものを」
「一方は良いとして、後の一枚は」
「誰にも、お見せにならないでください」
「……お前にも、か」
「私にも」
王は、すぐにはペンを取らなかった。
肘掛けから手を離し、両手を卓の上に置いた。
太い指が、紙の端をそろえる。
何度かそろえ直したあと、王はようやく羽根ペンを取った。
ペン先が紙を引っ掻く音だけが、部屋にあった。
一枚目は、早かった。
二枚目で、王の手が、三度、止まった。
止まるたびに、セラは目をそらした。
書き終えた王は、二枚目を折って、自分の懐に入れた。
「これを、誰に持たせる」
「陛下の書記官に」
王は戸口を見た。
ヨナが、はっとして背を伸ばした。
「ヨナ」
「……はい」
「行けるか」
「行きます」
王は、セラに向き直った。
「お前は」
「後ろに、おります」
「名を、聞かせよ」
セラは、王の目を見た。
「お聞きにならないでください」
王は、口を開きかけた。
──命じれば、聞き出せる。
それを、彼はよく知っていた。
王は、口を閉じた。
蝋燭が、短くなっていた。
窓の外で、王都の屋根が、うっすらと白み始めていた。
王は、それ以上、何も言わなかった。
セラが部屋を出たあと、王は、懐の上から、折りたたんだ二枚目の紙を、一度だけ押さえた。
(第三話 終)
王冠を机に置いても、王であることからは逃れられない。
それでも、ひとりの人間として願うことはできるのかもしれません。
答えを与えるのではなく、問いを残す。
誰かの代わりに決めるのではなく、その人が自分で選べる道を探す。
セラが差し出したのは、答えではありませんでした。
──さて、王が誰にも見せずに書いた二枚目の紙には、何が記されていたのでしょう。
その答えは、もう少し先で。




