第十話:冬の谷
戦いを止まりましたが、冬は止まりません。
兵たちも、谷の人々も、食べるものを必要としています。
届くはずのものが届かない。
その理由も、消えた麦が何処にあるのかも、まだ全ては見えていません。
誰が何を動かし、何を守ろうとしているのか。
そして、冬を越すために、何を残せるのか。
谷に残された小さな願いが、誰かの手へ渡ろうとしています。
どうぞ、見届けていただければ幸いです。m(_ _)m
第十話:冬の谷
──署名は、翌日だった。
セラは、その場に居なかった。
谷の入口の岩に腰かけて、ルカの沸かした湯を飲んでいた。
天幕から出てきたメレクの一行が、岩の前を通った。
メレクは、足を止めなかった。
ただ、すれ違いざまに、岩の上に、水の入った革袋を一つ、置いていった。
何も言わず、振り返りもしなかった。
──谷の民の習いでは、借りた水は、名を告げずに返す。
返す相手は、貸した者でなくてもよい。
次に水を請う者へ、渡せばいい。
返された者は、返した者を問わない。
メレクには、分かっていた。
──三歳になる前、谷を離れた朝のことだった。
母に抱かれ、谷の入口を越えようとしたとき、名も知らぬ女が、水を差し出したのだという。
母から、幾度も聞かされた話だった。
返す相手の名は、とうとう分からなかった。
その水の借りを、メレクは、忘れていなかった。
──しばらく、セラは、遠ざかるメレクの一行を見送っていた。
革袋を手にしたセラには、何の借りか、分からなかった。
ヨナが、息を切らして天幕から駆けてきた。
「終わりました」
「はい」
「譲れるものは、譲りました。譲れぬものは、譲っていません」
ヨナは、懐の上に、手を当てた。
「陛下の書状は、決めたことと一緒に、私の手で、お返しします」
「はい」
「谷の長の印は、手形でした。オルダは、字を書きませんので。名は、書かれませんでした」
「……そうですか」
セラは、椀の縁に指を添えた。
名がなくても、そこに誰がいたのかは、分かっていた。
「ハーゲン将軍は、王都におられます。宰相閣下は、牢に」
セラは、湯の湯気を、見ていた。
「それから、もう一つ」
ヨナは、少し迷った。
「王都で、兵糧の帳簿と、商人たちの記録を調べ直すことになりました。止められていた荷の一部も、動き出す見込みです」
「麦が、届くのですか」
「すぐに、とは言えません。どこに、どれだけ残っているのか。まだ、確かめなければなりません」
ヨナは、言葉を切った。
「ただ、獅子の兵糧だけではありません。白塔へ運ばれるはずだった麦にも、同じような商人たちが関わっていました。そちらの流れも、調べることになっています」
セラは、椀を両手で包んだ。
「少しは、冬を越せる人が増えるでしょうか」
「そうなるように、動いてはいますが……」
ヨナは、すぐには続けなかった。
「届けられなかった麦は、もう戻りませんね」
セラは、椀を置き、目を閉じた。
ルカも、それに倣うように、両手を膝の上に置いた。
「戦で失われるはずだった命は、残りました。けれど……」
ヨナは目を伏せた。
三人のあいだに、しばらく言葉はなかった。
外では、冬の風が吹いていた。
谷の向こうに連なる山々は、いつの間にか白く染まっている。
雪は、音もなく、山の斜面を覆っていた。
セラは、白くなった山を見た。
あの山から流れる水が、春には畑を潤す。
けれど、その春を迎えられなかった人たちもいる。
「……お名前を、せめて、私の覚書に」
「いいえ」
「陛下も、お聞きにならなかった」
「そうですね」
「では、私は、あなたのことを、何と書けば」
「書かなくて、よいのです」
ヨナは長く、セラの顔を見ていた。
「ヨナ」
「はい」
「二つの国の麦を、見届けてください。谷の穀倉も。どちらかの国のためではなく、あの谷の人たちが、次の冬を越せるように」
ヨナは、小さく息を吐いた。
「……私に、できるでしょうか」
「私には、分かりません」
セラは、椀の底に残った水を見た。
「けれど、あなたは、もう帳面に書くだけの人ではありませんから」
ヨナは、セラから目をそらさなかった。
それから、深く頭を下げて、去っていった。
「……いいんですか」
隣で湯を飲んでいたルカが、言った。
「何が、です」
「先生の名前は、どこにも」
「ありません」
「それで、いいのですか」
「名前が残れば、それは、私の勝ちになります」
セラは、白塔の印がある革袋を膝の上に置いた。
「勝ちは、負けた人を、必ず連れてきます」
ルカは、何か言いたそうに唇を動かして、結局、黙った。
谷の向こうで、鐘が鳴った。
戦勝の鐘ではなかった。
「終わったんですか」
「一応は」
「一応、ですか」
「来年も、国境では小競り合いがあるでしょう。三年後には、別の名の戦が始まるかもしれません」
「繰り返すかも、しれないのですね」
「それでも、この冬、谷の麦は、三つの印で守られます」
セラは、革袋の水を、一口飲んだ。
「それで足りるものを、足りると、呼びます」
水は、ぬるかった。
「ルカ」
「はい」
「私は、この冬、あの村に残ります」
「……水の借りですか」
「はい。返し終わるまで」
◆◆◆
──谷の冬は、早く来た。
朝、井戸の縁に氷が張った。
セラは、桶の氷を割って、水を汲んだ。
ルカは、村の家の屋根の穴を、藁で塞いだ。
村の子供たちは、はじめ、セラの顔を見ると、物陰に隠れた。
三日目に、一人が、目を逸らさずに、挨拶をした。
七日目には、井戸端で、桶を運ぶ手伝いをした。
ルカは、十日目に、村の外れの家を訪ねた。
あの夜、咳の子に薬草を飲ませた、あの家だった。
オルダの孫の咳は、夜になると、ひどくなった。
セラは、湯を沸かして、薬草を飲ませた。
それだけだった。
治すことは、できなかった。
ただ、咳の夜に、誰かが起きていた。
──村は、少しずつ、痩せていった。
最初に死んだのは、老人だった。
次に、咳の止まらない者。
それから、子どもだった。
死ぬ順番は、決まっているようだった。
弱い者から、静かに、列を抜けていった。
オルダは、死んだ者の印を、一本の紐に結んだ。
結び目をひとつ作るたび、短く、名を呟いた。
紐は、日ごとに、重くなった。
──谷だけではなかった。
獅子の陣でも、白い塔の陣でも、朝になって起きない兵がいた。
凍えたのか、飢えたのか、病か。
誰も、確かめなかった。
夜ごと、谷の入口の窪地へ、荷車が動いた。
脇を歩く兵の外套は、獅子のものも、白い塔のものも、泥にまみれて、見分けがつかなかった。
──ルカは、あの家から、日が暮れるまで、戻らなかった。
戻ってきたとき、目が赤かった。
帰り道、セラも見ていた。
戸口に、藁が、結ばれていた。
セラは、何があったのかを、訊かなかった。
──冬の半ばを過ぎたころ、谷に荷車が入るようになった。
獅子の商人が運んできた麦。
白塔の印をつけた袋に入った麦。
以前なら、同じ道を通ることのなかった荷が、谷の入口で並ぶようになった。
流通は、少しずつ戻り始めていた。
けれど、届いた麦を見て、村人たちの顔に安堵が広がったわけではない。
穀倉の前では、村の者と両国の立会人が、袋の数を確かめていた。
兵に渡す分。
村人に配る分。
春に蒔くために残す種籾。
どれかを増やせば、どれかが減る。
袋の口を開けば、麦は確かにあった。
だが、全員に十分な量を渡せるほどではなかった。
老人の椀に一握りを足せば、子どもの分が少なくなる。
兵の食事を減らせば、砦を守る者たちの力が落ちる。
春の種を食べてしまえば、次の収穫は望めなくなる。
誰も、すぐには口を開かなかった。
セラは、穀倉の戸口に立ち、袋の数を見ていた。
麦は、届くようになった。
それでも、足りなかった。
セラは、オルダが結んだ紐を数えなかった。
数えれば、名のない数になる。
名を聞いて回るには、冬は、あまりに早かった。
◆◆◆
──それから、十日ほどが過ぎた夜だった。
月のない夜で、風が止んでいた。
ルカは、オルダの家の裏の、粉の小屋の前に立っていた。
どんぐりの粉と、牛の骨を煮るための、わずかな塩が、そこにあった。
見張りだった。
セラは、眠れずに、井戸の縁に立っていた。
「誰だ──」
足音が、ルカの声が、途中で切れた。
セラは、駆けなかった。
駆ければ、男たちが焦る。
足音を立てずに、セラは歩いた。
小屋の前に、男が三人いた。
獅子の軍の外套を着ていたが、裾は裂け、紋は剥ぎ取られていた。
一人が、後ろからルカの喉に腕を回している。
もう一人の手に、小刀があった。
刃が、ルカの頬に触れていた。
血が、細く、顎へ落ちた。
「食料を、出せ」
「ここには、ない」
「嘘をつくな」
「本当に、ない。村にあるのは、冬を越すために分けた分だけだ」
「なら、それを出せ」
「それを出したら、村の者たちが食べられなくなる」
ルカの声は、かすかに震えていた。
それでも、男の目を見ていた。
「俺たちだって、食べていないんだ」
別の男が、吐き捨てるように言った。
「三日だ。まともな食事をしていない」
「隊長は、帰るなと言った。何か持ち帰らなければ、戻る場所もない」
「それでも、ここにはない」
ルカは、刃から目をそらさなかった。
「村の者たちも、分け合って、ようやく冬を越そうとしている」
「知ったことか」
刃を持つ男が、ルカの頬を押した。
ルカの首が、わずかに傾く。
それでも、彼はセラを見なかった。
「その子を、放しなさい」
セラは、大きな声を出さなかった。
三人が、振り向いた。
小刀の男が、顔を見て、口の端を歪めた。
「何だ、その面は」
セラは、もう一度、言った。
「その子を、放しなさい」
返事はなかった。
「ぐうっ」
ルカの首の腕が、締まった。
──この人たちには、耳がない。
セラは、そう思った。
飢えの底では、言葉は、空気と同じだった。
七つの言葉は、喉にあった。
──使わなかった。
小刀の男が、突いてきた。
セラは、退かなかった。
半歩、横へ。
幼い頃から石を避け続けた体は、飛んでくるものから、身をかわすことだけを、覚えていた。
突いてきた腕の、行く先から、身をずらした。
掴まなかった。押さなかった。
ただ、男の力が、空を切るのに、任せた。
男は、自分の突きの重さで、前へ崩れた。
頭が、土についた。小刀が落ちた。
セラは、追わなかった。
音は、それだけだった。
二人目が、ルカを放して、掴みかかってきた。
セラは、その手に、触れなかった。
一歩、退き、また、半歩、横へ。
伸びきった腕が、空を掴む。
男は、足をもつれさせ、自分で、地面に座った。
殴らず、折らず、ただ、誰にも、当たらなかった。
三人目は、遅れて、動いた。
細い影だった。
男たちの後ろから、短い剣を抜いて、走り込んでくる。
「父を、返せ!」
声は、高く、途中で裏返った。
セラは、振り向いた。
切っ先が、胸の高さに来た。
セラは、半歩だけ、右へ外れた。
刃は、外套の布を裂いて、空を突いた。
体ごと突っ込んできた小さな体は、勢いのまま、セラの脇を抜け、泥に膝をついた。
帽子が、頭から落ちた。
すぐには立ち上がらなかった。
短く切られた髪が、顔にかかっていた。
刃物で、乱暴に切り落とした、金色の髪だった。
切り口が、揃っていない。
月のない闇の中で、その顔が、こちらを見上げた。
女の子だった。ルカと同じ歳ほどの。
「……お前だ」
少女は、息を切らしながら、言った。
「顔の半分が動かない女。お前が、和平を、持ち込んだ」
セラは、答えなかった。
「父は、国を守ろうとした。それを、ハーゲンが。私の許嫁の、父親が」
声が、震えていた。
少女は、唇を噛んだ。
セラは、小刀を拾い、折れた梁の下へ投げ込んだ。
膝をついた男が、叫んだ。
「坊、よせ!」
坊、と呼ばれた少女は、剣を持ち上げようとした。
セラは、一歩も、近づかなかった。
両手を、見えるように、体の脇に下ろしたまま、立っていた。
少女は、何かを待つように、その手を見た。
セラの手は、動かなかった。
「私が食べていた麦が、どこから来たものか。知っていた」
言い終えて、少女は、自分が何を言ったのかに、気づいたように、口を押さえた。
「……知っていて、食べていた」
少女は、剣を、泥に落とした。
帽子は、泥の中に落ちたままだった。
拾わなかった。
二歩、三歩、下がった。
井戸から、いちばん遠い壁際に、背を押しつけて、立った。
誰とも、目を合わせなかった。
ルカが、咳き込みながら、立ち上がった。
セラは、膝をついた男の前に、屈んだ。
男は、それに気づいて、初めて、顔を上げた。
痩せていた。頬がこけていた。
男も、ルカと変わらない歳だった。
「麦は、ありません」
セラは、言った。
「でも、水なら、あります」
井戸から汲んだ水を、椀に入れて、男に渡した。
男は、疑うように、椀を見た。
それから、一口、飲んだ。
二口目で、顔が歪んだ。
冷たさで、手が痛むはずだった。
男は、声を殺して、泣いた。
「給金が、出ていない」
やがて、男は言った。
「隊長は、麦の来る日を、毎日、言う。……来たことは、ない」
男は、袖で顔を拭った。
「今夜は、村の粉を探してこいと言われた。見つからなければ、戻るなと」
男は、壁際を見た。
「坊は、村に用があると言って、ついてきた。何の用かは、聞いていない」
「はい」
「俺たちは、ただ」
「はい」
セラは、椀を持つ男の手の震えが、止まるのを、待った。
──椀は、壁際の少女のところにも、回った。
少女は、受け取らなかった。
水を請わなかった者は、借りを負わない。
それを、知っていたのかもしれない。
「朝になったら、隊長に伝えな」
オルダが、戸口に立っていた。
いつからいたのか、分からなかった。
老女は、男たちを見て、言った。
「砦の穀倉の封印は、三日待てと、谷の長が言っている、と」
セラは、壁際の少女のそばへ、行かなかった。
離れたまま、少女を見つめて言った。
「どこへ、行きますか」
少女は、長く、黙っていた。
「……隊しか」
セラは、止める言葉を、探した。
「水は、ここに、あります」
少女は、答えなかった。
──見つからなかった。
三人は、夜明け前に、村を出ていった。
ルカが、闇の中の道を、見ていた。
「先生。あの子、女の子でしたよね」
「はい」
「行かせて、よかったんですか」
セラは、答えるまでに、長くかかった。
「……分かりません。止める言葉が、ありませんでした」
ルカは、頬の血を、袖で拭った。
「先生」
「はい」
「……武術の心得が」
「ありません」
「でも、今、さっき」
「石を、避けていただけです」
セラは、井戸の縁の氷を、爪で割った。
ルカは、井戸の縁に立つ背中を、しばらく見ていた。
言葉でなく、自分の体で、誰かを庇う姿を、ルカが見たのは、それが初めてだった。
ルカは、そのことを、誰にも話さなかった。
◆◆◆
──朝になって、セラは、泥の中の帽子を拾った。
井戸の脇に置き、手で泥を落とした。
少女が落とした帽子は、古びていた。
内側の一か所だけ、縫い目が新しかった。
セラは、指先で、その縫い目をなぞった。
ほかは擦り切れた古い糸なのに、そこだけは、白く、固く縫い直されている。
セラは、糸を、歯で切った。
中には、小さく畳まれた紙が、縫い込まれていた。
紙を開くと、中から、小さな青銅の飾りが、掌に落ちた。
紙には、細い線で、川の曲がりと、三つの印が描かれていた。
印のひとつの脇に、小さく、×。
その下に、文字があった。
『これを拾った人へ。
軍のエーリク様に、渡してください。
あの方の手柄に。
父の名も、私の名も、出さないで。
この印も、一緒に。
私は、父と、ゆきます。』
読み終えて、セラは、掌の青銅を、指先に載せた。
オルダとメレクの襟元にあったものと、同じ色をしていた。
小さな傷が、いくつも刻まれていた。
長く誰かの襟元にあったものなのだろう。
紐の切り口は、ほつれたままだった。
セラは、もう一度、読んだ。
──父を、返せ、と少女は叫んだ。
けれど、ここにあるのは、返してほしいという願いではなかった。
少女は、その同じ手で、この紙を、落としていった。
どちらも、嘘ではなかったのだろう。
──消えた麦に、つながる地図かもしれなかった。
確かめる術は、なかった。
地図を渡せば、冬の死者は、減るかもしれない。
渡せば、あの子は、父と、ゆく。
セラは、紙と青銅を、握ったまま、動かなかった。
ルカが、そばに立った。
「先生、それは」
「馬を」
「……はい」
ルカは、馬小屋へ向かった。
セラは、紙と青銅を懐にしまった。
山から、風が吹き下ろしてきた。
白く染まった峰から、細かな雪が舞い、谷の道へ落ちてくる。
セラは、馬の手綱を受け取った。
谷の出口には、まだ、雪は積もっていなかった。
その先の道は、白く霞んでいた。
(続く)
第十話をお読みいただき、ありがとうございます。m(_ _)m
和睦が結ばれ、麦が再び届き始めても、谷の冬は厳しいままでした。
数字の上では、食料が戻り始めている。
それでも、すべての人に行き渡るわけではありません。
誰かに分ければ、別の誰かの分が減る。
何かを守ろうとすれば、何かを諦めなければならない。
そして、セラの前に現れた少女もまた、父を失いたくないという思いと、自分が知ってしまったことの間にいました。
少女が残した紙と青銅の飾り。
そこに記された願いは、誰かを救う手掛かりになるかもしれません。
けれど、それを渡すことは、少女が選んだ道を変えてしまうことでもありました。
水を渡すこと。
借りを返すこと。
誰かの選択を、こちらの正しさだけで決めないこと。
セラは、まだ答えを見つけられずにいます。
冬は続きます。
しかし、物語は次で終わります。
今回もお付き合いいただき、ありがとうございました。
最後まで、見守っていただけましたら幸いです。(人*´∀`)。*゜+




