第十一話:言葉の鍵穴─名を持たない者─(最終話)
第十一話、最終話をお届けします。
戦いが終わっても、失われたものが戻るわけではありません。
記録に残る者もいれば、名を残さない者もいます。
それでも、誰かが渡した水や、誰かが守ろうとした麦は、次の誰かへと受け継がれていく。
この谷で交わされた約束が、どのような形で残るのか。
最後まで、見届けていただければ幸いです。m(_ _)m
第十一話:言葉の鍵穴─名を持たない者─(最終話)
◆◆◆
──二人は、一頭の馬に乗った。
ルカが手綱を取り、セラが、道を示した。
「川沿いを、下流へ。曲がりの手前に、獅子の先陣があります」
「エーリク、という人ですね」
「はい」
「会ったことは」
「ありません。名前だけです」
将軍の天幕で、一度だけ、繰り返した名だった。
夜が明けきらないうちに、先陣の柵が見えた。
見張りが、槍を向けた。
「止まれ。何者だ」
「エーリク様に、渡すものがあります」
「何を」
「拾い物です」
見張りは、顔を見た。
動かない、右の頬を。
「……あの女か」
別の兵が、低く言った。
「谷の入口の。水の」
槍の穂先が、下がった。
◆◆◆
───エーリクは、十七だった。
鎧が、まだ、体に合っていなかった。肩当ては浮き、革の紐は、一番内側の穴で留められていた。
剣の柄を握る手の関節が、白かった。
どこかで、同じ手を、見たとセラは思った。
「私に、何の用ですか」
声は、落ち着いていた。落ち着こうとする声だった。
セラは、懐から、紙を取り出した。
紙の間には、小さく硬いものが、挟まっている。
「拾いました。あなたに、渡すようにと、書かれています」
エーリクは、受け取った。
紙の間から、青銅の飾りが、掌に滑り落ちた。
冷たかった。
何の印なのか、彼は、まだ、知らない。
開いて、最初の一行を、読んだ。
指が、止まった。
『軍のエーリク様に、渡してください。』
その字を、彼は、長く、見ていた。
細い線だった。
線の端が、わずかに、右へ流れる癖があった。
婚約の後、一度だけ、交わした手紙に、同じ癖があった。
「……これを書いた人は」
エーリクは、顔を上げなかった。
「どこで」
「谷の村の、粉小屋の前で」
「その人は」
「夜明け前に、去りました」
セラは、それだけを、答えた。
嘘では、なかった。
『あの方の手柄に。父の名も、私の名も、出さないで。』
エーリクは、紙を、最後まで読んだ。
『この印も、一緒に。』
掌の青銅が、急に、重くなった。
読み終えると、彼は、ゆっくりと、紙を折った。
折り目を、親指で、一度だけ、なぞった。
「……私の手柄に、すればいいのですね」
「はい」
「そうしろと、書かれてある」
「はい」
「あなたは、それを、望みますか」
セラは、すぐには、答えなかった。
「私が、望むことではありません」
「では、あなたは、何を」
「この紙が、何かを、確かめていただきたいのです」
エーリクは、ようやくに顔を上げた。
初めて、目が合った。
その目は、赤かった。
「……すぐに、人を出します。あなた方も共に」
◆◆◆
──地図の三つの印のうち、二つは、空だった。
ひとつは、崩れた羊小屋だった。
二つ目は、藁の積まれた納屋で、藁の下には、土しかなかった。
最後は、川の曲がりの、水車小屋の裏だった。
壊れた水車の下に、石で塞がれた穴があった。
兵が三人がかりで石をどけると、冷たい空気が、下から上がってきた。
──麦が、その奥に、あった。
袋が、天井まで、積まれていた。
袋の口には、二つの印が、押されていた。
獅子の商人の印と、白い塔の商人の印。
異なる国の、同じ手が、両方を、結んでいた。
誰かが、数を数え始めた。
途中で、やめた。
「……この冬は、越せる」
若い兵が、袋に手を伸ばし、呟いた。
エーリクは、袋に触れなかった。
「開けるな。入口を扉で塞げ。見張りを置け。揃うまで、誰も入れるな」
兵たちが、振り向いた。
「この蔵に、三つの印を。獅子と、白い塔と、谷の長の。三つが揃うまで、封は、解かない」
「しかし、若様」
年嵩の兵が、言った。
「我らの兵は、三日、薄粥しか、食っておりません」
「知っている」
エーリクの声は、震えていた。
「だから、三日で、揃える。伝令を、出せ。村長と、白塔の使節団長へ」
彼は、袋の山を、見上げた。
「……ここで、私たちだけが、食べれば、春に、また、戦になる」
──誰も、何も、言わなかった。
セラとルカは、後ろで、聞いていた。
言葉は、持たなかった。
持たないことが、このときは、正しい気がした。
◆◆◆
──一日目の夜、獅子の兵が、ひとり、息をしなくなった。
静かだった。
朝になって、隣で寝ていた兵が、気づいた。
エーリクは、その名を、帳面に書いた。
書くとき、手が、震えていた。
セラは、その場に残った。
薪の在りかを、兵に教え、凍えた指を、火のそばへ引いた。
ルカは、兵の手を取っていた。
槍を握っていた指が、赤く腫れている。
「火傷ではないですね。凍って、傷んでます」
兵は、手を引こうとした。
「大丈夫だ。これくらい」
「大丈夫かどうかは、俺が見ます」
ルカは、布を湯で湿らせ、指の色を確かめた。
「強く揉まないでください。火に近づけすぎても、いけません」
兵の手に、布を巻いた。
「母に、教わったんです。昔は、面倒だと思っていました」
ルカは、顔を上げずに、言った。
「今は、覚えていて、よかったと思います」
──剥がれた靴底も、ルカが縫った。
「三年、同じ靴を履いている」
足を引きずる兵は、縫われた靴底を、しばらく、見下ろしていた。
「あの時、剣を向けなくて、良かった」
誰にともなく、そう言った。
──二日目の朝、もうひとりが、動かなくなっていた。
袋の山の前に、座ったままだった。
麦は、目の前にあった。
封は、まだ、解かれていなかった。
エーリクは、その名も、帳面に書いた。
──二日目の昼、火のそばに集まった兵たちの後ろに、見覚えのある男が、立っていた。
あの夜、小刀を持っていた男だった。
痩せて、頬がこけていた。外套の裾は、さらに裂けていた。
セラは、椀に、水を汲んで、渡した。
男は、疑うように、見た。
それから、飲んだ。
「……坊は」
男が、先に、言った。
セラは、訊かなかった。
「王都へ、向かった。自分の足で」
「はい」
「隊長が、止めた。俺も、止めた」
男は、椀を、両手で、持った。
「誰も、止める言葉を、持たなかった」
セラは、遠くを、見た。
冬の空が、低かった。
「そうですか」
それだけだった。
男は、残りの水を、飲み干した。
椀を、縁を上にして、両手で返した。
それから、火の輪の外に、立った。
夕方になって、男は、陣にあった槍を、手に取った。
誰に言われたのでもなかった。
──その日の夕暮れ、セラは、水車小屋の周りを、ひとりで歩いた。
足跡が、あった。
獅子の兵のものではなかった。
靴底の減り方が、違う。
水車小屋の裏手の、風上の斜面に、乾いた藁が、新しく積まれていた。
そばの土に、油の匂いが、残っていた。
セラは、エーリクに、それを告げた。
「小屋の斜面に、藁と、油があります。誰かが、焼くつもりです」
エーリクは、すぐには、答えなかった。
「麦を、ですか」
「はい」
「なぜ」
「三つの印が揃う前に、したい人が、います」
エーリクは、袋の口の、二つの印を、思い出したようだった。
「……同じ手が、両方を、結んでいた」
「はい」
エーリクは、顔を上げた。
「裏手へ、兵を。ただし、気づかれないように」
◆◆
──その夜、月は、なかった。
小屋の裏手の斜面に、火が、ひとつ、灯った。
続けて、いくつも。
油の匂いが、風に乗ってきた。
裏手に回していた獅子の兵が、火へ走った。
それが、囮だった。
正面の闇から、十数人の影が、来た。
「裏をかかれた! 止めろ!」
防ぐ、獅子の兵が、叫んだ。
兵たちは、槍を取った。
だが、踏み出した足は、重かった。
獅子の兵の先頭に、あの男がいた。
昼に、水を飲んだ男だった。
小刀ではなく、槍を握って、地下の蔵に続く木戸の前に、立っていた。
襲ってきた者たちは、紋のない、継ぎ接ぎの外套を着ていた。
ひとりが、長剣を、斜めに振り下ろした。
獅子の若い兵の胸甲が、裂けた。
血が、土に散った。
兵は、声を上げる間もなく、泥の中に倒れた。
元は兵だった者の、足運びだった。
別の兵が、槍を突き出した。
相手の肩を、かすめた。
止められなかった。
返された刃が、兵の太腿を裂いた。
膝が、崩れた。
「下がるな! 蔵へ、行かせるな!」
男は、相手の腹へ、槍を突いた。
刃が、肉を穿つ感触があった。
それでも、相手は、止まらなかった。
刺されたまま、肉薄して、短刀を、男の肩口へ突き立てた。
骨の鳴る音が、した。
男は、泥に、膝をついた。
槍は、離さなかった。
その脇を、別の影が、駆け抜けた。
地下への木戸に、大槌が、打ちつけられた。
一度。
木が、大きく鳴った。
二度。
戸板の継ぎ目が、裂けた。
三度目の音とともに、内側の閂が、鈍く軋んだ。
「火を着けさせるな!」
誰かが、叫んだ。
だが、藁の山は、すでに炎を上げていた。
風が、火の粉を運び、水車小屋の壁へ散らしていく。
獅子の兵は、守る人数が、減っていた。
木戸と、火と、両方を、見ることは、できなかった。
セラは、木戸の脇に、立っていた。
手を伸ばせば、誰かの刃に、触れる距離だった。
けれど、彼女は、動かなかった。
そのとき、闇の向こうから、揃った足音が、近づいてきた。
松明の列だった。
「白塔だ!」
獅子の兵が、叫び、槍を向けた。
白い塔の兵だった。
白い塔の兵も、剣を構えた。
その間にも、大槌が、もう一度、戸を打った。
「剣を、向けるな!」
エーリクの声だった。
剣を、高く、掲げていた。
「麦を、守れ!」
震えていなかった。
一瞬、時が、止まった。
誰も、すぐには、動かなかった。
「本物の相手は、あっちだ!」
白い塔の列の先頭から、一人が、前へ出た。
荷駄の帳面を、腰に提げていた。
「使節団長の命で、荷の消える道を、追ってきた」
オットーだった。
「あんたらの蔵だと、聞いた。……倒す相手は、あいつらだ!」
オットーは、剣を抜かなかった。
「その麦は、我々の荷でもある。奪わせるな!」
彼は、木戸を、指した。
白い塔の兵が、獅子の兵の脇を、抜けた。
刃と刃のぶつかる高い音が、闇に響いた。
ようやく、槍先が、同じ方角を、向いた。
獅子の兵と、白い塔の兵は、肩を並べて、斜面を登った。
獅子の兵が、ひとり、肩を斬られた。
その背後から、襲いかかろうとした男を、白い塔の兵が、斬り伏せた。
両軍の兵が、肩を並べ、同じ影に向かって、剣を振っていた。
そのとき、木戸が、内側へ、大きく傾いた。
奥の、麦の袋が、見えた。
「火が、入ります!」
白い塔の兵が、叫んだ。
セラは、炎を、見た。
風が、小屋の裏へ、回り込んでいる。
「風上です。裏の、左」
一度だけ、そう言った。
オットーが、振り返った。
「桶を回せ! 裏手からだ!」
白い塔の兵が、桶を持って、走った。
ルカは、凍った小川の氷を、叩き割った。
水を、汲んだ。
手が滑り、桶の縁が、岩にぶつかった。
白い塔の兵が、同じ桶の取っ手を、掴んだ。
二人は、言葉を交わさなかった。
水が叩きつけられ、水蒸気が上がった。
焦げ臭い煙が、視界を塞いだ。
もう一杯。
さらに、一杯。
誰かが、持ってきた桶を落とした。
別の兵が、拾い上げた。
襲ってきた者の半数は、土の上で、動かなくなった。
残りのうち、数人は縄をかけられ、数人は闇へ散った。
火は、ようやく、消えた。
──袋は、三つだけ、焦げた。
ルカは、胸を切られて倒れた兵のそばに、膝をついた。
外套の紋は、見なかった。
「手を貸してください。ここを、押さえて」
呼ばれたのは、白い塔の兵だった。
兵は、一瞬、ためらった。
それから、膝をつき、血の出ている傷口を、両手で、強く押さえた。
◆◆◆
──三日目の夜明け前、エーリクは、縄をかけられた者を、一人ずつ、見た。
「誰に、雇われた」
「知らねえ。倉の場所と、荷の行き先だけ、聞かされた」
「金は」
「半分、前払いだ。残りは、麦で」
「名は」
「商人の使いが、名乗るかよ」
──口を割らぬ者は、二度と言葉を話さなかった。
ある者は、獅子の商人の名を、口にした。
ある者は、白い塔の商人の名を、口にした。
ある者は、何も知らなかった。
──同じ手の、先まで、辿れる者は、いなかった。
宰相が捕らえられても、手は、まだ、動いていた。
エーリクは、帳面を開いた。
倒れた獅子の兵の名。
傷を負った白い塔の兵の名。
二つの名は、同じ頁に、書かれた。
小刀の男は、肩に布を巻かれ、火の輪の外ではなく、輪の中に、座っていた。
火のそばで、白い塔の兵が、椀に水を汲んで、獅子の若い兵に、渡した。
若い兵は、両手で、受け取った。
飲む前に、縁に、指を当てた。
何も、言わなかった。
飲み干して、椀を、隣へ回した。
隣は、獅子の兵だった。
その次は、白い塔の兵だった。
椀は、名を訊かれないまま、列を、回っていった。
──三日目の朝、獅子の使いと、白い塔の使いが、同じ道を歩いてきた。
オルダが、先頭にいた。
手には、紐を持っていた。
焦げた袋と、並んだ兵を、順に見た。
何も、言わなかった。
メレクは、別の務めのため、代理を寄越していた。
──三つの印が、揃った。
封は、開いた。
山の水が育てた麦だった。
最初の麦の袋は、オルダが、自分の手で、一件ずつ配った。
袋には、青い獅子の印と、白い塔の印が、半分ずつ、押されていた。
その麦が、冬を越す粥になった。
◆◆◆
──冬至の前日、王都から、伝令が来た。
エーリクは、宿営の火のそばで、封を切った。
読み終えて、しばらく、動かなかった。
「……宰相ブルクハルトは、冬至の朝に、処される」
彼は、紙を、折った。
「宰相の、娘は」
隣にいた年嵩の兵が、言いかけて、やめた。
エーリクは、答えなかった。
紙の端を、指で、押さえていた。
──夜が、更けた。
セラは、火の向こうに、立っていた。
「記録には、私の名が、残ります」
エーリクが、言った。
炎を、見たままだった。
「穀倉を見つけた者として。三つの印を守った者として」
「はい」
「彼女の名は……、残りません」
「はい」
エーリクは、顔を上げた。
「……私が、覚えています」
セラは、うなずいた。
彼の手の関節は、もう、白くなかった。
◆◆◆
───その冬、穀倉の封は、三度だけ開いた。
オルダの紐は、冬の終わりに、見込んでいた長さの、半分で、足りた。
それでも、紐は、結び目で、膨らんでいた。
春、和約が結ばれ、三つの印が、ひとつの帳面に押された。
エーリクの掌から、ひとつ。
メレクの襟元から、ひとつ。
オルダの襟元から、ひとつ。
三つの青銅は、同じ色をしていた。
蝋の上に、同じ形の窪みが、三つ並んだ。
エーリクは、自分の青銅と、あとの二つを、見比べた。何も言わなかった。
──それが、いつから、誰の手に渡り続けてきたものなのかを、口にする者は、いなかった。
獅子の印。白い塔の印。そして、谷の長の印。
オルダは、その脇に、自分の手形を、押した。
名を書かない者の、約束の形だった。
最初の頁には、分け合う麦の量が記された。
次の頁には、来年の種として残す量が記された。
食べる麦と、蒔く麦は、別の袋に入れられた。
谷の民の冬の麦と種は、先に取り分けられた。
余りがあれば、両国へ回る。
その順番は、手形を押す前に、オルダが、頁を指で二度叩いて、確かめた。
荷車には、両国に共通の印が付けられた。
その印のある荷を、兵が取ってはならなかった。
それでも、足りなかった。
畑のいくつかは、まだ耕せなかった。
牛も、戻らなかった。
今年の麦が、冬を越すだけ実るかどうかは、誰にも、分からなかった。
──それでも、帳面は、閉じられなかった。
足りない分は、三者で確かめることになった。
誰かが勝手に持ち去ったときは、三者の前で、理由を問うことになった。
最後の頁の隅に、オルダは、字の書ける者に頼んで、一行を書き添えさせた。
『水を請うた者には、水を。食を請うた者には、まず、足りるかどうかを、確かめること。』
誰も、それを和約には加えなかった。
けれど、誰も、消さなかった。
その翌朝、オルダは、帳面を抱えて、井戸端へ出た。
獅子の荷車には、刃を研ぎ直した鋤が、積まれていた。
白い塔の荷車には、塩の袋と、麦を湿らせずに運ぶための、油を引いた布。
「足りないね」
オルダは、帳面を開いた。
「足りない分を、次に何で埋めるか。そこまで、書いておきな」
使いたちは、黙って、荷を下ろした。
その日、牛のいない谷の畑が、ひとつ、耕された。
◆◆◆
──春の朝、セラは、井戸端で、ルカを待っていた。
ルカは、桶を二つ提げて、やってきた。
水を汲み終えても、何も言わなかった。
「ルカ」
「はい」
「故郷へ、帰りなさい」
桶を持つ手が、止まった。
「……ここを、離れるんですか」
「あなたには、話しておくことが、ある人がいるでしょう」
ルカは、すぐには、答えなかった。
「弟のこと、ですか」
「ええ」
「今さら、何を話せばいいのか、分かりません」
「分からないままで、よいのではありませんか」
ルカは、水面を、見ていた。
「あのとき、俺は、正しいことを、言ったつもりでした」
「私も、そうでした」
セラは、それだけを、言った。
ルカは、顔を上げた。
「先生は、谷を離れるんですか」
「いつかは」
「それまで、俺は、一緒にいたほうが」
「谷には、オルダがいます。メレクも、エーリクも、ヨナも、います」
セラは、ルカの顔を、見た。
「あなたがいなくても、谷は続きます」
──きつい言い方だったかもしれない、と思った。
けれど、取り消さなかった。
「それでも、ここにいたいのなら、それは、あなたが決めることです」
ルカは、長い間、黙っていた。
遠くで、鍬を打つ音がした。
牛のいない畑を、人が、耕している音だった。
「……弟に、会いに行ってみます」
「はい」
「話せるかどうかは、分かりません。聞いて、もらえないかもしれません」
「それは、弟さんが、決めることです」
セラは、言った。
「聞いてもらえなくても、話しに行くことは、できます」
ルカは、うなずいた。
うなずいてから、唇を噛んだ。
セラは、井戸端に置いてあった革袋を、取った。
メレクが、岩の上に置いていった、あの革袋だった。
桶から水を注ぎ、口を結んだ。
「持っていきなさい」
「これは」
「借りた水は、名を告げずに、返すものです。返す相手は、貸した人でなくてもいい」
セラは、革袋を、両手で、差し出した。
「道で、水を請う人に会ったら、渡してください。名は、聞かずに」
ルカは、革袋を、両手で、受け取った。
口を、上にして、持ち直した。
「……先生」
「はい」
ルカは、何かを、言おうとした。
唇が、開いて、閉じた。
セラは、待った。
「……いえ」
「はい」
「また、水を、請いに来ます」
「ええ」
セラは、言った。
「井戸は、逃げませんから」
ルカは、笑った。
目が、赤かった。
馬は、連れていかなかった。
ルカは、自分の足で、谷の入口へ歩いていった。
一度だけ、振り返った。
セラは、手を、振らなかった。
ただ、立っていた。
ルカは、何も言わず、また、歩き出した。
その背中が、道の曲がりに、見えなくなるまで、セラは、井戸の縁に、手を置いていた。
縁は、冷たかった。
もう、氷は、張っていなかった。
◆◆◆
──数十年が過ぎた。
年代記には、この和約が記されている。
王ライナルトの名。書記官ヨナの名。白い塔の使節メレクの名。穀倉の位置と、それを見つけた将軍エーリクの名。
封に押された三つの印。調印の日付。
宰相ブルクハルトの名は、罪人として、一行だけ、記された。
娘のことは、書かれなかった。
帳面のことは、一行しかない。
『三者の帳面は、のち、数十年、用いられた』。
三つの印のうち、ひとつが、誰の手から渡されたものであったかは、記されていない。
使節団に、顔の半分が動かない女が同行していたことは、どこにも記されなかった。
◆◆◆
──王ライナルトの死後、遺品の中から、折りたたまれた紙が、一枚、見つかった。
王は、ヨナの手から返されたその紙を、死ぬまで、懐から離さなかった。
折り目は、擦り切れていた。
何度も、開かれた跡があった。
侍従は、紙を、そのまま、王の棺に納めた。
◆◆◆
──ある村の、冬の夜。
老人が、炉の前で、孫に話をしていた。
老人は、孫の椀に、水を注いだ。
注ぐ前に、縁に、指を一本、当てた。
「昔な、顔の半分が動かない人がいてな」
「その人、何をしたの」
「水を、くれと言ったそうだ」
「それだけ?」
「それだけじゃ、ないはずなんだが」
老人は、炉の火を見た。
「名前を、忘れた」
老人は、椀の中の水を見た。
「……聞かなかったのかもしれん。水を請うた人に、名は聞かんものだったから」
外では、雪が降っていた。
──昔、村の外れの麦畑に、首のない案山子が立っていた。
その上に、いつ誰が載せたのか、藁を編んだ丸い頭が、ひとつ、ちょこんと載っていた。
春になれば、鳥が、麦の穂をついばみに来るだろう。
案山子は、何も言わず、そこに立っていた。
〈完〉
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
『言葉の鍵穴』は、これで完結となります。
誰かを救う言葉が、別の誰かを追い詰めることもある。
正しいことを伝えたつもりでも、その言葉が誰かの逃げ道を塞いでしまうこともある。
セラは、そのことを知りながら、それでも人と向き合い続けました。
この物語で描きたかったのは、ひとりの人間がすべてを救う姿ではありません。
水を渡す人。
麦を守る人。
名を帳面に記す人。
そして、名を残さずに去っていく人。
誰かの行動が、別の誰かの手に渡り、少しずつ明日へつながっていく。
そのような物語になっていれば嬉しく思います。
最後までお付き合いくださった皆さまに、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。m(_ _)m
追記|´・ω・`)<いただいたご感想への返信を書いていたら、セラの過去編を書きたくなったので、追加しました(笑)




