勝ったら買うもの
まだ出来てもいない道具で、俺はエルナに新しい靴を買っていた。
頭の中で、である。
実際に財布を開けば、彼女の右足しか買えない。しかも紐は別売りなら諦める必要がある。その程度の資産しか持たない男の想像の中で、俺たちの道具は飛ぶように売れ、山の工房には俺の名が刻まれ、エルナは左右揃った靴を履いていた。
「図の端で、何を足してる」
イェトが聞いた。
俺は紙を半分折った。
「必要経費を」
「先に必要な線を引け」
作業台には、曲がった鉄の腕が一本置かれていた。俺が昨夜から刻線を引いている、保守具の試作である。先端に薄い舌がついていて、狭い隙間へ金具を差し込んだまま、短時間そこに留めておける。片手の入らない場所で、もう一人が来るまで指の代わりをしてくれる道具だった。
ただし、代わってくれる指には燃料が要る。
脇の小窓へ入れた、新しい試験用片の筋が、働いた分だけ減る。終われば止め目を閉じる。俺はその閉じる位置を、持ち手から少しずらそうとしていた。いまの形だと、厚い手袋の親指が角へ引っかかる。
山の荷継ぎ場が、冬の修繕に使う保守具を募集していた。
谷の入口から峠まで、宿場は八つ。戸の吊り金具、水桶の底を押さえる板、荷車の車軸を外す時の細かな支え。雪が積もれば、壊れる度に町の職人を呼ぶことはできない。そこで宿ごとに一本を置き、使い手を二人ずつ決めるという。
最初の注文は八本。ほかに荷場で使う分が四本。
十二本、と聞いた時から、俺の指は勝手に自分の取り分を計算していた。まだ引いていない線まで、実に気前よく売った。
「九日後だ」
イェトは壁の札を裏返した。
「前の日に持ち込む。持ち込めなきゃ試しもされん」
工房の外では、石畳へ雨が落ち始めていた。軒に吊った布が膨らみ、奥の火の匂いがこちらへ戻ってくる。入口の若い職人が窓を閉めると、削り粉の金属臭が急に濃くなった。
俺は鉄の腕を持ち上げた。
山で巻胴の爪を支えた時、相手を止める線は引けた。しかし、次に使う者の手まで道具にして持ち帰ったわけではない。俺の手で扱えるだけでは、八つの宿へ送れない。
その難しさが、いまは腹立たしいほど面白かった。
「勝てますかね」
「作ってから聞け」
「作る前にも、気持ちというものが」
戸が開いた。
雨のついた外套を払いもせず、一人の女が入ってきた。黒い髪を短く束ね、細い革紐を歯で噛んでいた。片手には長い箱、もう片方には焼き菓子の紙袋がある。箱は丁寧に台へ置いたが、紙袋は俺の図の上へ置いた。
油が、ゆっくり染みた。
「あ」
女は紙袋を持ち上げた。
「大事な線?」
「僕の将来に関わる線です」
「じゃあ、上から引き直せるね」
彼女は気にせず菓子を一つ齧った。丸い生地の割れ目から、甘い焦げた匂いがした。
カザだった。競争する相手だと紹介された時、俺は、もう少し知る前に嫌っても許されるのではないかと思った。
「例の線引き?」
カザがイェトへ聞いた。
「名がある。ノアだ」
「それは聞いた。昨日、三軒で聞いた。あんたが人を褒めると町の商売が止まるんだね。みんな振り向くから」
イェトは刃を拭き続けていたが、布を持つ指に力が入った。俺はカザへ少し好感を持ちかけた。俺を褒めたと知ったからである。敵を選ぶ基準が、早くも揺らいでいた。
箱が開いた。
中の道具は、俺たちの試作よりずっと細かった。黒く磨かれた柄へ銀色の刻線が沿い、長い先端は水鳥の嘴のように僅かに反っている。継ぎ目も隠れていた。俺たちの物は、目の前へ並べると、まだ運ばれている途中の部品に見えた。
カザは実演用に工房が買った小片を窓へ入れ、台の端へ置いた銅の輪を、道具で立たせた。
先端は触れていない。輪の影が細く揺れ、そのまま止まった。小窓の中で、封片の白い筋が端から透けていく。
「見せるだけで、そんなに使っていいんですか」
「少し使えば、九日間よく眠ってもらえるでしょう」
彼女は止め目を閉じた。輪が台へ落ち、涼しい音を立てた。
逆だった。
俺は今夜から眠れそうになかった。
「明日の下見、同じ荷場になる。こっちは午前の台を取った。そっちは午後ね。開始の合図だけは同じ装置を使うから、最後に一緒に合わせて」
用を済ませたカザは、紙袋をこちらへ押した。
「二つ余った」
「油のついた図と交換ですか」
「交換なら、もう少し上手な図をくれる?」
戸が閉まった後、俺は菓子を一つ取った。
うまかった。それが一番腹立たしかった。
夕方、宿の部屋へ戻ると、エルナは片足を椅子に載せ、濡れた靴の踵を指で押していた。こすれた皮膚はまだ赤かったが、朝より腫れは引いている。俺を見ると、足ではなく、鼻を動かした。
「甘いもの食べた?」
俺は紙の包みを出した。最後の一つだった。
「敵の菓子だけど」
「敵にも上手な菓子屋はあるでしょう」
彼女は端を小さく割り、口へ入れた。俺はその正確な推論に反論できず、椅子を引いた。
窓辺には、彼女が直している仕事帳が積まれていた。紙を継ぐ細い片に、乾く順の小さな印がついている。こちらの道具と同じように、途中では何になるか他人に分かりにくい仕事だった。
「もし採用されたらさ」
俺は言った。
「何か、欲しいものある?」
「薄い刃。先を丸く研いだ、紙を起こすもの」
彼女は即答し、それから俺の顔を見た。
「いま、靴って言ってほしかった?」
俺は黙った。エルナは焼き菓子を半分こちらへ返し、笑った。
「靴は自分でも選びたい。勝ったら、一緒に見に行こう」
勝ったら。
俺はその二文字に都合のよい力を感じ、明日は早く工房へ行こうと決めた。負けた場合については、菓子の残りを噛んでいる間だけ、考えないことにした。




