二つ目の止め方
イェトが上がってきた時、俺の腕は、自分のものだと分かる程度にしか感覚が残っていなかった。
工房から人を二人連れてきていた。一人は太い縄を肩へ担ぎ、もう一人は楔を袋に詰めている。イェト自身は腰を曲げて息をし、顔を上げるなり、巻胴を見た。
「悪い爪だ」
「今、褒めなくていいから、直して」
「褒めてない」
言い返す声は、腹立たしいくらい普段通りだった。
彼は下の様子を聞き、縄を持った男を桟道へ送った。台車の後ろへ新しい縄を掛け、上の柱から仮の巻取り棒で引く。今の縄が切れても、そこで受ける。
イェトは非常の爪へ手を入れかけ、冷えた指を一度開いた。親指を柄の窪みから離し、少し深い位置へ当てる。握り方は不格好だったが、鉄棒の揺れが止まった。
「代われ」
俺はゆっくり手を離した。
指が自分の形へ戻るのが痛かった。掌を閉じようとすると、皮膚の下で細い筋が引かれる。
「保持具を出せ」
イェトが言った。
俺は外套の下から道具を出した。原片の一部が、雨明かりを透明に通した。工房の試験で使ったあと、残っている乳白色の筋は細い枝のようだった。
「爪の先を浮かせるんじゃないぞ。横へ逃げる根元だけだ」
イェトは顎で示した。
彼の言う通りだった。台車の重さを魔法で抱えようとすれば、この原片は一息で尽きる。鉄の歯へ重さを掛けたまま、爪が横へ外れる動きだけを止める。その間に二本目の縄を締め、新しい楔を深く打ち込む。
俺は道具の先を根元へ当てた。
しっくり来なかった。
ここで無理に力を流すと、押さえたい所の隣へ逃げる。工房で俺が消した枝の先が、細い溝の中で別の線へ繋がっている。交換する先端に合わせるには、もう一箇所、流れを狭める必要があった。
「まだ?」
誰かが言った。
俺は返事をしなかった。
細い針を取り出す。濡れた金属へ刃を滑らせ、曖昧だった曲がりを短く切る。光が足りない。
「灯り、右。もっと低く」
止め役の男が油灯を寄せた。
自分の手の影が薄くなった。
俺は息を止め、最後の一筋を削った。
父が灯台の窓の前で、よくしていた姿勢に似ていた。目が見えても、手の影が邪魔をするから、立つ位置を変える。いま要るものを一つずつ揃える。それだけのことに、俺は随分長くかかってきた。
「いける」
原片を開いた。
道具の先が、微かに温かくなった。強い光は出なかった。細い線を指で押さえ、狭めた流れが指定した場所へ収まるのを確かめる。
爪の横揺れが止まった。
イェトが鉄棒から少し力を抜いた。
止まっていた。
俺は初めて、下を見た。
キナが箱の蓋を外し、壁側へ石を渡していた。ダナともう一人が受け取る。濡れた布から、赤い印が一つずつ現れた。荷は軽くなっていたが、その分、台車の底でボルンの脚を押す角度が変わるらしく、彼の肩が時々跳ねた。
「あと一箱!」
キナが叫んだ。
原片の筋が、細くなっていく。
俺はそれを見た。
売った男が荷車の後ろで聞いた音を、俺は知らない。単調だった、と紙にあるだけだ。その時間の何処かに、彼が二度と思い返せなくなる風や、誰かの呼び声があったのかもしれない。
消費を止めれば、筋は残る。
止めれば、爪が動く。
俺は保持を続けた。
二本目の縄が張った。
上の柱へ巻取り棒を噛ませ、工房から来た男が両手を掛ける。イェトは手元の鉄棒を抜き、新しい楔を爪の根元へ打ち込んだ。
一度では入らなかった。
二度目に木が割れた。
俺は口を開きかけた。
イェトは割れた楔を蹴り出し、もっと短い物を取った。
「まだ持て」
言われなくても、持つしかなかった。
三度、鉄が鳴った。
短い楔が根元へ沈んだ。
「切れ」
俺は止め目を閉じた。
原片の最後の細い筋が、端に少しだけ残った。使えるかどうかを見る余裕はなかった。蓋を閉め、道具を腰へ下げる。
巻胴は動かなかった。
全員が、ほんの一息、黙った。
そこへボルンの声が来た。
「そっちが休むと、こっちは長いぞ!」
俺は笑いそうになり、息が詰まって咳をした。
*
台車を戻すため、非常の爪を一度上げることになった。
今は二本目の縄が重さを受けている。新しい縄を巻き取りながら主の巻胴を逆へ回せば、台車は手の幅ほど戻る。その間にボルンの脚と、反対側で手を挟んだ荷止め役を抜く。
言葉で聞くと、簡単だった。
下へ降りると、台車は俺の胸ほどの高さにあり、片輪の下の板が裂けていた。
その裂け目から黒い斜面が見える。
俺の胃が縮んだ。
ボルンの顔は雨より白かった。唇の端に、噛んだ血が薄く滲んでいる。靴は片方が木枠の下に消え、もう片方は桟道からはみ出していた。
「新しい靴、駄目になった」
俺を見るなり言った。
「次も高いのを買えるように、脚を抜こう」
「払ってくれるのか」
「ヘドに請求する」
ボルンは口の端だけを動かした。
俺は彼の脇へ膝をつき、木枠の下を覗いた。脚そのものではなく、靴の踵と足首の外側が挟まっていた。無理に引けば皮膚が裂ける。それに、抜いた途端、台車がどちらへ沈むか分からない。
「僕が引く時、上体をこっちへ」
「待て。その膝の板、乗るな」
ボルンが俺の服を掴んだ。
俺は動きを止めた。
足元の板には雨が溜まっていた。横の板より、わずかに深く。
「下の横木から外れてる。手前へ戻れ」
言われた通りにすると、板が薄く浮いた。俺の体重で折れなかったのは、運がよかっただけだった。
上でイェトが呼んだ。
ダナは反対側の男の身体を支え、キナは空いた布を縄の下へ巻いて擦れを防いでいた。
俺は足場を変え、ボルンの腋へ腕を通した。
彼の服は水を吸って重かった。濡れた羊毛の匂いと、石の粉の匂いがした。小さな歯が鳴っているのを見て、寒いのだと気づいた。俺も寒かったが、ここに挟まっている長さが違う。
「いくぞ!」
上の声に、ダナが応じた。
台車が揺れた。
ボルンの身体が硬くなる。俺は引かずに待った。
車輪が後ろへ動いた。
靴の上にあった木の角が、指一本分浮いた。
「今!」
ボルンが自分で言った。
俺たちは同時に動いた。彼が肘で身体を押し、俺が脇から引く。抜けた靴が台車の角へ引っかかり、一瞬、足が戻されそうになる。
俺は靴を押し込んで外し、ボルンごと後ろへ倒れた。
背中に硬いものが当たった。
息が抜けた。
台車が短く落ち、桟道が震えた。
ボルンの踵が、俺の腿の上にあった。
上にあった。
俺はそれを見つめた。
ダナが反対側の男を引き起こしていた。男は自分の手を抱え、声を出して泣いていた。
上で、ヘドの声がした。
「止めるはずだったんだ」
誰へ言っているのか分からなかった。
ボルンが、俺の肩越しに顔を上げた。
「鐘を、もう少し待ってくれればな」
彼はそれ以上言わず、俺の上から身体をずらした。
俺は雨を見上げていた。
胸が苦しい。
痛い。
生きていると分かるものが、一度にたくさん戻ってきた。




