暗い方に人がいる
台車は、静かに動き始めた。
荷を積んだ木枠が一度揺れ、濡れた車輪が軌道を噛む。空の台車へ繋がる縄が張り、その先で暗いものがゆっくり上がってきた。
人が叫ぶ前に、俺は巻胴へ走った。
止める男は、既に梃子へぶら下がるように体重を掛けていた。濡れた革が巻胴を締めている。雨の中で焦げた匂いがした。
「止まらない?」
「重い。戻せ!」
誰へ言ったのか分からない声だった。
ヘドが梃子へ手を添えた。自分でも予想した速さではなかったのだろう。顔が白く、口を開けたまま力を込めている。
俺は巻胴の横を見た。
非常の爪がある。
歯へ落として回転を止める爪だったが、根元の留め具が曲がり、先が歯の端へしか掛からない。動くたびに横へ押し出され、鈍い音を立てて跳ねた。
「そこへ指を出すな!」
止め役の男が叫んだ。
出すつもりはなかった。ただし、別の方法が決まっていたわけでもない。
俺は道具袋から短い鉄棒を抜き、爪の背へ当てた。柄の端を木枠へ預け、身体を入れる。
爪が歯へ落ちた。
重い音が腹へ響いた。巻胴が止まり、張った縄が雨粒を弾いた。斜面の台車も一度前へ沈んでから止まった。
俺は息を吐いた。
すぐに鉄棒が軋んだ。
「楔。爪の横へ」
キナが木片を差し込み、石で打った。俺は力を抜きかけたが、爪が少し動いたので戻した。
下から悲鳴が聞こえた。
人の声だった。
ダナが桟道を下り始めていた。手灯を胸の高さへ下げ、片手で縄を掴み、一歩ずつ速く進む。途中で一度止まり、こちらへ顔を上げた。
「台車を動かすな! 足が挟まってる!」
ボルンだった。
荷台の下に彼の片脚が見えた。木枠が傾き、軌道を外れかけた車輪が、桟道の縁へ乗っている。彼は倒れた姿勢で上半身だけを起こし、手元の楔を車輪へ押し当てていた。
山の上で箱を押している時の、あの広い肩だった。
俺は鉄棒へ体重を掛け直した。
ヘドが手を離した。
「何をしてる!」
叫ぶと、彼は俺を見た。
「下へ知らせる。人を呼ぶ」
「ここを持って」
ヘドは動かなかった。
俺は初めて、彼が怖がっているのだと分かった。自分の言いつけたことが、荷札の外へ出ていた。巻胴の歯が、目の前で鉄を押している。そこへ手を戻すのが、怖いのだ。
「持て!」
止め役の男が怒鳴った。
その声で、ヘドは梃子へ戻った。
キナが俺へ顔を近づけた。
「下で、あの人がレールの留めを直してた。夕方までに済ませろって、ヘドが」
「戻れなかったのは?」
「灯りを先に片づけたんだ。夜荷の明かりが足りないから」
俺は斜面を見た。
ボルンは、仕事を終えて上へ戻ろうとしたのだろう。覚え直していた桟道の灯りが消え、上と下から荷の音がした。新しい靴で走るだけなら、彼は俺よりずっと速かった。それでも、どこへ走るかを決められなかった。
鉄棒が手の中で滑った。
俺は慌てて握り直した。
自分の考えに酔っている暇などなかった。
「キナ、下の空台車は、どこで止まってる」
「あのすぐ下。半分くらい来てる」
「上へ引く方へ、少し戻せる?」
「巻胴を回せば。でも、この爪を外す」
そうだ。
止めるために入れたものを、戻すためには一度外さなければならない。前へ落ちる重さが勝っているこの状態で、止め爪を抜く。
俺は自分の手の甲を見た。
雨が流れ、震えがある。寒さなのか、力の入れすぎなのか分からなかった。
下からダナの声が来た。
「二人いる! ボルンと荷止め役だ! 車輪を戻せば抜ける!」
二人。
俺はひとまず、それだけを頭に入れた。
「荷を軽くする」
キナが俺を見た。
「運んだ荷だよ」
「分かってる」
「人が下にいる。落とせない」
「脇へ。桟道の壁側に空けて、箱を開く。石を一枚ずつ下ろす」
ずいぶん遅い方法に聞こえた。
他に思いつかなかった。
キナは唇を噛み、俺の顔を一度見た。
「落ちたら、あんたに化けて出る」
「まだ僕を驚かす方法が足りない?」
彼女は笑わなかったが、鼻で短く息を吐いた。
籠も荷も持たず、斜面へ下り始めた。
俺はその背がダナの手灯へ届くまで、数を数えた。
何を数えたのか、途中から分からなくなった。




