↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ潮の灯台守  作者: Tpump6957
山に眠る色
PR
93/196

日暮れの荷札

山へ上がる途中から雨になった。


大粒ではなかったが、風が強く、外套の裾から吹き込んだ。坂へ張りついた落葉が踏むたびにずれ、俺は二度、木の幹へしがみついた。前を行くキナは振り返らない。待ってほしいと言えば待ってくれるのだろうが、その時間に荷が進むと思うと、声を出せなかった。


息を吸うと喉の奥が冷たかった。


俺は、もっと怒っていられるつもりだった。


工房を出た時には、ヘドの襟を掴むくらいの気持ちでいた。今は坂が憎かった。靴の中へ入った小さな石も憎かった。その二つに気を取られるだけで、人間は目的をずいぶん容易く忘れそうになる。


「残り、どれくらい」


聞くと、キナは先の灯りを指した。


「あそこの横戸を抜ければ近い」


板塀の内側を通る、屋根付きの短い道だった。昨日、俺たちが乾燥小屋から下りた道でもある。荷のなくなった背中が、ようやく軽さに慣れてきたところで、キナが止まった。


戸に新しい閂が掛かっていた。


脇には、足場修理の札。


木は濡れていたが、札の字はまだ雨を吸っていなかった。


ダナが戸の隙間を覗いた。向こうで人が動く音がした。


「開けろ。上へ行く」


「正道へ回れって言われてる」


男の声が返った。


「誰に」


返事がなかった。


キナが戸を蹴った。


「昨日、私の籠を持って運んだだろ。あんた、その棚板もまだ返してない」


少しの間を置いて、閂を触る音がした。


「開けるな」


別の声がした。


ヘドだった。


俺は戸へ近づいた。


「荷を動かさないって、さっき言いましたよね」


「出せる分を別にしています。間に合うように仕分けるのも、こちらの仕事です」


「なら、その場を見せてください」


「危ない所へ人を通すことはできません」


ヘドはすぐには離れなかった。向こう側で俺たちを見ている気がした。


「昼間、ずいぶん気持ちよさそうでしたね」


小さく言った。


俺は言葉を失った。


「村で窓を拭いているより、立派な仕事に思えたでしょう。でも、あなたが帰ってからも、こちらには仕事が残るんですよ」


その言い方は、俺の胸の一番いやなところへ届いた。


実際、気持ちよかったのだ。


手元の小さな違いを見抜いて、人に認めてもらえた。俺が話すと皆が聞いた。今まで立派に働いてきた人間のように扱われた。それが嬉しくなかったと言えば嘘になる。


戸板を掴んでいた手を、俺は離した。


「気持ちよかったですよ」


向こうが静かになった。


「それで、石は乾きましたか」


返事の代わりに、足音が離れた。


キナが俺の袖を引いた。


「水切りの脇から回る。上へ出られる」


「足場は?」とダナが聞いた。


「毎月、掃除に入ってる。狭いけど崩れてはいない」


ダナは戸をもう一度見てから、頷いた。


水切りは斜面を斜めに横切る細い溝だった。脇の足場へ身体を横向きに入れると、濡れた草が膝へ貼りついた。キナが先を行き、俺が間、ダナが後ろ。手に持つ縄が少し緩むたび、俺は前の背を見失わないよう顔を上げた。


倉庫の裏へ出た時、空はもう灰色ではなかった。


屋根の向こうに、荷下ろし場の灯りが三つ見えた。木の台車へ箱を積み上げる人影が動き、山の上から下へ続く二本の軌道が、雨を受けて鈍く光っていた。


「こっちを使うのか」


キナが低く言った。


斜面の荷下ろし路は、重い台車を下へ降ろす力で、空の台車を上へ引き上げる仕掛けだった。二台を太い縄で結び、上の巻胴で速さを絞る。大荷を一度に運べるが、台車の脇には人が歩く細い桟道しかない。


普段は下の馬車へ継がず、石置場へ降ろす時だけ使う、とキナが囁いた。


「街道の荷車を、下の石置場へ回したんだ」


俺は一番上の箱を見た。


布の折り目に、赤が覗いていた。


脇に積まれた見本用の平箱は空だった。その中に、俺の選んだ鉤形の欠けのある一枚が、雑に落とされていた。


手を伸ばして取り上げる。ヘドが運ばせた箱から、消えていた石だ。


キナが濡れた布を一枚拾った。


「仕上がり見本を分ける布だ。赤を外へ出して、加工前と混ぜないようにする。まともなのだけ抜いて、包みを使い回したんだね」


彼女は荷台の方を見た。


「赤が見えてたら、見本がこんな数あるのかって聞かれる。だから裏へ隠して、出荷の札だけ付けた」


印を内側へ折った指が、目の前で見えた気がした。


俺は欠けのある石を外套の内側へしまった。濡れた冷たさが腹へ移った。


上の台車の方で、人が怒鳴った。


「ボルンがまだ下だ」


「鐘を鳴らした。戻る時間はあった」


ヘドの声だった。


ダナが走り出した。


その直後、巻胴の上で、鉄が跳ねる音がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。