日暮れの荷札
山へ上がる途中から雨になった。
大粒ではなかったが、風が強く、外套の裾から吹き込んだ。坂へ張りついた落葉が踏むたびにずれ、俺は二度、木の幹へしがみついた。前を行くキナは振り返らない。待ってほしいと言えば待ってくれるのだろうが、その時間に荷が進むと思うと、声を出せなかった。
息を吸うと喉の奥が冷たかった。
俺は、もっと怒っていられるつもりだった。
工房を出た時には、ヘドの襟を掴むくらいの気持ちでいた。今は坂が憎かった。靴の中へ入った小さな石も憎かった。その二つに気を取られるだけで、人間は目的をずいぶん容易く忘れそうになる。
「残り、どれくらい」
聞くと、キナは先の灯りを指した。
「あそこの横戸を抜ければ近い」
板塀の内側を通る、屋根付きの短い道だった。昨日、俺たちが乾燥小屋から下りた道でもある。荷のなくなった背中が、ようやく軽さに慣れてきたところで、キナが止まった。
戸に新しい閂が掛かっていた。
脇には、足場修理の札。
木は濡れていたが、札の字はまだ雨を吸っていなかった。
ダナが戸の隙間を覗いた。向こうで人が動く音がした。
「開けろ。上へ行く」
「正道へ回れって言われてる」
男の声が返った。
「誰に」
返事がなかった。
キナが戸を蹴った。
「昨日、私の籠を持って運んだだろ。あんた、その棚板もまだ返してない」
少しの間を置いて、閂を触る音がした。
「開けるな」
別の声がした。
ヘドだった。
俺は戸へ近づいた。
「荷を動かさないって、さっき言いましたよね」
「出せる分を別にしています。間に合うように仕分けるのも、こちらの仕事です」
「なら、その場を見せてください」
「危ない所へ人を通すことはできません」
ヘドはすぐには離れなかった。向こう側で俺たちを見ている気がした。
「昼間、ずいぶん気持ちよさそうでしたね」
小さく言った。
俺は言葉を失った。
「村で窓を拭いているより、立派な仕事に思えたでしょう。でも、あなたが帰ってからも、こちらには仕事が残るんですよ」
その言い方は、俺の胸の一番いやなところへ届いた。
実際、気持ちよかったのだ。
手元の小さな違いを見抜いて、人に認めてもらえた。俺が話すと皆が聞いた。今まで立派に働いてきた人間のように扱われた。それが嬉しくなかったと言えば嘘になる。
戸板を掴んでいた手を、俺は離した。
「気持ちよかったですよ」
向こうが静かになった。
「それで、石は乾きましたか」
返事の代わりに、足音が離れた。
キナが俺の袖を引いた。
「水切りの脇から回る。上へ出られる」
「足場は?」とダナが聞いた。
「毎月、掃除に入ってる。狭いけど崩れてはいない」
ダナは戸をもう一度見てから、頷いた。
水切りは斜面を斜めに横切る細い溝だった。脇の足場へ身体を横向きに入れると、濡れた草が膝へ貼りついた。キナが先を行き、俺が間、ダナが後ろ。手に持つ縄が少し緩むたび、俺は前の背を見失わないよう顔を上げた。
倉庫の裏へ出た時、空はもう灰色ではなかった。
屋根の向こうに、荷下ろし場の灯りが三つ見えた。木の台車へ箱を積み上げる人影が動き、山の上から下へ続く二本の軌道が、雨を受けて鈍く光っていた。
「こっちを使うのか」
キナが低く言った。
斜面の荷下ろし路は、重い台車を下へ降ろす力で、空の台車を上へ引き上げる仕掛けだった。二台を太い縄で結び、上の巻胴で速さを絞る。大荷を一度に運べるが、台車の脇には人が歩く細い桟道しかない。
普段は下の馬車へ継がず、石置場へ降ろす時だけ使う、とキナが囁いた。
「街道の荷車を、下の石置場へ回したんだ」
俺は一番上の箱を見た。
布の折り目に、赤が覗いていた。
脇に積まれた見本用の平箱は空だった。その中に、俺の選んだ鉤形の欠けのある一枚が、雑に落とされていた。
手を伸ばして取り上げる。ヘドが運ばせた箱から、消えていた石だ。
キナが濡れた布を一枚拾った。
「仕上がり見本を分ける布だ。赤を外へ出して、加工前と混ぜないようにする。まともなのだけ抜いて、包みを使い回したんだね」
彼女は荷台の方を見た。
「赤が見えてたら、見本がこんな数あるのかって聞かれる。だから裏へ隠して、出荷の札だけ付けた」
印を内側へ折った指が、目の前で見えた気がした。
俺は欠けのある石を外套の内側へしまった。濡れた冷たさが腹へ移った。
上の台車の方で、人が怒鳴った。
「ボルンがまだ下だ」
「鐘を鳴らした。戻る時間はあった」
ヘドの声だった。
ダナが走り出した。
その直後、巻胴の上で、鉄が跳ねる音がした。




