道を知っていた男
坑口の朝は、町よりずっと寒かった。
山の腹から流れてくる空気が袖口へ入り、濡れた石と鉄の匂いが肺の奥に残る。外には日が差しているのに、穴の中では灯りが濡れたように小さかった。
案内役のボルンは、まず俺の靴を見た。
「君で、今月三人目」
「何の三人目ですか」
「その靴で大丈夫だと言う人」
まだ言っていなかったので、俺は少し腹を立てた。
ボルンの靴は新しかった。ただし、俺のものより底が厚く、泥の入り込む隙間を油で塞いであった。彼はその靴先を軽く石へ当て、具合を確かめた。
「これは高かった。履いていて分かるくらい高かった」
「いいですね」
「毎朝そう思う。家の屋根も直した。戸を閉めるたび、前より良い音がする」
何かの景気のいい話が始まるのかと思った。
ボルンは手灯を上げた。
「道を売った金だ」
俺は返事をし損ねた。
彼はそれを待たずに、坑道へ入った。
肩が広く、歩幅はさほど大きくない。腰へ吊った木の楔が、数歩ごとに腿を叩く。俺とダナはその後を進んだ。壁の低い所を水が走り、時々、頭上から冷たいものが首へ落ちた。
「全部を売ったんですか」
「この奥を歩いて、戻ったところ。長く働いたから、同じ道を何度も持っていた。それなりの値がついた」
「今は?」
ボルンは自分の手灯を少し上げた。
「書いて覚えた」
柱へ白い印が塗ってあった。その隣に、爪で引いたような細い線がある。
「俺の印。派手に塗ると邪魔だと言う奴がいる」
坑道の奥で、人の怒鳴り声がした。
曲がり角の先で荷車が斜めになり、片側の車輪が石の溝へ落ちていた。二人の男が押しているが、押すたびに荷が傾く。ボルンは灯りを俺へ渡すと、車輪の前へしゃがんだ。
「そこを持ち上げるな。中の石が落ちる」
彼は木の楔を差し、支点にした。男たちの力を一度抜かせてから、短く合図する。
車輪が、重い息をつくような音と一緒に溝から上がった。
俺には、どうして一度力を抜く必要があったのか、見ていてようやく分かった。ボルンは楔を腰へ戻し、手灯を受け取った。
「迂回へ行く」と片方の男が言った。「こっちは床を直す」
奥の横道へ通された。
二本目の柱の前で、ボルンが止まった。
灯りを左へ向けた。右へ向けた。柱には濡れた布が巻かれ、壁際には昨日運び込んだらしい新しい木材が積んである。
「灯り、前はどこだ」
誰へともなく言った。
後ろから来た男が、邪魔だと身を捩って通り過ぎた。
ボルンはもう一度、左の暗がりへ手灯を向けた。明かりが丸い水溜まりへ映った。その先には支柱があった。右にも、よく似た支柱があった。
俺は荷から、入口でもらった見取図を出した。
「今、ここですね。迂回なら右へ」
ボルンは足を動かさなかった。
「右です」
聞こえていないのかと思って、もう一度言った。
「分かった。少し待て」
声は低かった。俺は口を閉じた。
ボルンの掌で、手灯がかすかに揺れている。目の前の道を、自分が知っているものにしようとしている。その間に通り過ぎる人々の足音が、全部、彼の背中を押していた。
ダナが後ろへ向き、来る男を手で止めた。
俺は図を折り、ボルンの隣へ立った。
「僕が先に行って、次の柱を見る。あなたは、僕の後ろで岩を見てくれますか」
彼は俺を見た。
「岩?」
「さっきから、僕には全部、濡れてる石です」
少しの間があった。
「それは、ずいぶん危ない」
ボルンはそう言って、俺の肩へ手を置いた。
次の柱へ着く手前で、その手に力が入った。
「そこを踏むな」
床の薄い石が、俺の足の半分ほど先で浮いていた。水の流れ方が違うのだと、あとで教わった。その時は、ボルンに引かれた通り横へ寄った。
石の端が崩れ、下の暗い穴へ落ちた。水音が、一拍遅れて返った。
俺は新しい靴を見下ろした。
靴の良し悪しで済む場所ではなかった。
*
乾燥小屋の戸を開くと、温かい空気に埃が混じって流れ出た。
棚が何列も並び、薄く切った石が板の上へ寝かせてある。日付の札は梁から下がっていた。俺は日数を見てから、棚の奥の石へ手を伸ばした。
冷たかった。
入口の方の石は、表まで温かい。
キナが奥の棚から空箱を抜き、俺の顔を見た。
「そこのは昨日上げた」
札には、七日前の日付があった。
俺は棚を見上げた。キナは箱の底へ残っていた湿った砂を、掌へ落とした。
「棚は前からある。荷は替わる」
俺の頭に、台所の林檎が浮かんだ。
昨日もらった五つを、今日の帳面へ書いた母。あの時、俺は林檎が十個になったと思った。今ここで増えているのは、石が乾いたことになっている日数だった。
「荷ごとの日は、どこに」
「柱の裏。夜番が書いてる」
柱の裏へ回ると、板へ細い字で、箱の数と入れた時刻が残してあった。新しい字の上に、まだ消し損ねた古い字が薄く浮いている。
ヘドが戸口へ現れた。
「そこは見学用に整えていなかったのですが」
俺は柱から離れず、彼を見た。
「昨日の荷ですね」
「日を当てる前に、別で乾かしています」
「どこで?」
「下の部屋です。順にご案内します」
ヘドの笑顔は変わっていなかった。
キナだけが、持ち上げた空箱を、床へ少し強く置いた。




