【番外】焼きたての言い訳
恋人に料理を振る舞う、と口にした時点では、俺はまだ洗い物のことを考えていなかった。
よく晴れた、秋の入り口の昼だった。
灯台の朝の当番を終えて家へ戻ると、台所には林檎が五つ並んでいた。果樹園から分けてもらったものだという。赤くなりきらない皮に細かな点が散り、一つだけ、横腹に浅い傷があった。
棚では、母が小さな帳面を押さえていた。林檎、五つ、と書いた上に、今日の日付がある。
「これとは別に、今日も五つ来るの?」
俺が覗き込むと、母は筆を止めた。
「昨日もらった分を、今、書いたの。夕飯のあとで書くつもりだったんだけどね」
昨夜、戸口の籠に入っていたのも、この五つだったらしい。
「じゃあ、十個になるわけじゃないんだ」
「どこから増えるの」
母は笑い、行の脇へ小さく、昨日、と書き足した。
俺が思い違いをした分まで、林檎が減ったような気がした。目の前には、最初と同じ五つがあった。
母は傷のある一つを俺の方へ転がした。
「そこを取って、今日のうちに食べてね」
俺は受け取り、指の腹で皮を擦った。手の中で向きを変えると、窓からの光が丸い艶になって滑った。
その午後はエルナと会うことになっていた。互いの仕事が昼までに終わるので、天気がよければ歩こう、とだけ決めてある。
行先を決めていないのは、彼女の希望だった。
俺は、何も考えていない男だと思われる心配をせず、何も考えなくて済む。その寛大な申し出を、たいへん好ましく受け取っていた。
ところが、林檎を持った途端、余計なことを考えた。
「これ、薄焼きにしたら美味しそうだね」
母が粉の壺の蓋を開けた。普段、彼女が余った果物を入れて焼く、あの平たい菓子を思い浮かべて言っただけだった。
「焼くの?」
「うん。エルナと食べようかな」
母は俺を見た。林檎を見た。それから、洗って伏せてある平鍋を見た。
「分量、教えようか」
「いつも見てるから、大丈夫だと思う」
見ている時の俺は、たいてい食べる順番を待っているだけだった。
それを料理の経験へ数え入れたのは、林檎を片手で軽く持ち上げた姿が、自分でも少し手慣れて見えたからである。
母は一度口を開き、また閉じた。
結局、粉を量る小さな器だけ、俺の前へ置いてくれた。
*
エルナが来た時、俺は林檎の皮をむいていた。
正確には、皮についた果肉が惜しくなり、むいた皮を食べていた。
「それ、お昼?」
開いた戸口に立つ彼女の向こうで、道端の草が風に倒れた。外の光を背負った髪の縁が明るい。薄い上着を腕へ掛け、もう片方の手で、戸に引っかかった鞄の紐を外していた。
「準備。少しだけ待って」
俺は皮を飲み込み、椀の中を見せた。
「林檎の薄焼き。持っていこうと思って」
「いい匂いがすると思った」
その一言で、だいぶ報われた。
まだ林檎を切っただけである。果樹園の人が聞いたら、自分にも礼を言えと思っただろう。
エルナは鞄を下ろして手を洗い、俺の隣から覗き込んだ。
薄いはずの林檎は、場所によって厚さが違った。よく切れた端の方だけ上へ寄せてみたが、彼女はその下も見た。
「この大きいの、もう少し切る?」
「食べごたえがある方がいいかなと」
「じゃあ、これはそのまま食べてもいい?」
彼女は一切れつまみ、さくりと噛んだ。
俺が見ていると、残りの半分を口へ入れる前に、少しだけ眉を上げた。
「食べごたえがある」
どうやら、今日は助けてもらえる日ではないらしかった。
もっとも、彼女が笑っているなら、それはそれで悪くない。
俺は残った厚い切れ端を細かくし、粉を入れた椀へ移した。卵を割り、水を足す。混ぜると、乾いていた粉が林檎の表面からゆっくり剥がれ、とろりとした薄黄色になった。
「いつも作るの?」
「母さんがね」
「ノアは?」
「今日は僕が」
エルナは唇を結んだ。笑うのを堪えた顔だったが、俺の方にも、質問には正しく答えたという言い分があった。
炉には昼の煮炊きの熾火が残っていた。炭を寄せ、油を引いた平鍋を載せる。柄を握って少し傾けると、底の細かな傷に沿って油が流れ、窓明かりを細く返した。
生地を匙の先から一滴落とすと、じゅ、と鳴った。
いい音だった。
料理はまだ、俺の味方をしていた。
俺は椀を傾けた。
「そんなに入れる?」
「大きく焼いて分けた方が、早いから」
林檎の入った生地は鍋の底を覆い、縁近くまで広がった。小さく焼くより、一度にたくさんできる。待ち時間も減るし、温かいうちに一緒に食べられる。
合理的だった。
裏返す時のことを除けば。
*
最初のうちは、かなりうまくいっていた。
林檎の酸っぱい匂いに、焼ける粉の甘さが混じった。ふつふつと浮いた泡が表面で弾け、薄い縁が鍋から離れて、わずかに反り上がる。
エルナが炉の前へ椅子を寄せた。
「これ、蜜をかける?」
「少しならあると思う」
棚から出した小瓶の底には、琥珀色が指一本ほど残っていた。俺はそれを確かめて、最後の飾りまで用意できた気分になった。
エルナは瓶を窓へかざし、傾けた。粘りの強い蜜が、随分ゆっくり底を離れた。
「時間がかかりそう」
「温かい所に置けば」
言いながら、俺は木べらを薄焼きの下へ差し入れた。
端は持ち上がった。
真ん中は、持ち上がらなかった。
慌ててもう少し深く差すと、見えている部分だけが器用に折れた。中からまだ柔らかい生地が流れ、今までなかった所で、じゅう、と勢いのいい音がした。
俺たちは黙ってそれを見た。
「折って食べるもの?」
エルナが尋ねた。
「そういう食べ方もある」
「何回くらい折るの」
「できれば、一回で」
俺は木べらを持ち替えた。
柄には、母の親指が当たる辺りに、つやの出た浅い窪みがあった。そこへ指を揃えると少し握りにくかったが、何百枚も焼いてきた場所には、相応の信用があった。
折れた所から向こうへ届かせようとすると、今度は別の所が裂けた。鍋の底で林檎の一切れが滑り、俺の助けを必要としない顔で焼けていた。
薄焼き全体は、俺を中心にまとまる気を失っていた。
「鍋、少し手前へ」
エルナが言った。
「そっちが焦げる」
見れば、奥の縁が茶色を通り越しかけていた。俺は平鍋を熾火からずらし、ばらばらになったものを順に返した。
一枚で済ませたはずなのに、いつの間にか七つを焼いていた。
しかも七つとも厚さが違うので、それぞれ別の面倒を見る必要があった。
「これ、もういいんじゃない?」
エルナが端の小さい欠片を指した。
俺はそれを木べらへ載せた。彼女が皿を差し出す。次の欠片を取るまでの間に、彼女は最初の一つを摘み上げ、指先で持ち替えながら息を吹きかけた。
「熱いよ」
忠告が終わる前に、彼女はもう噛んでいた。
薄い縁が、ぱり、と割れた。
エルナは口を閉じ、頷いた。
「美味しい」
何か言いかけた俺へ、もう一度頷いてみせた。熱くて続きが言えないらしい。
その顔を見ていると、格好の悪い七つの欠片にも、急に見込みがあるように思えてきた。
「でしょう」
俺は言った。
今のうちに、自分の手柄へ戻しておく必要があった。
*
少し水を足した残りの生地は、小さく焼くことになった。
決めたのは俺である。
最初から二通り試すつもりだった、と言うほどの勇気は、まだ残っていなかった。
「次、私が入れてもいい?」
エルナが匙を受け取った。
彼女は鍋の真ん中へ、控えめに生地を落とした。丸く広がるはずが、一切れだけ大きかった林檎に引っ張られ、端に小さな出っ張りができた。
「鳥みたい」
俺が言うと、彼女は匙の背で、出っ張りを少し伸ばした。
「こう?」
今度は首が長くなった。
さらに一滴足して頭を作ると、そちらが隣へ流れ、頭が二つになった。
「……増えた」
エルナは鍋を見つめた。
俺は笑った。笑うなと言われるかと思ったが、彼女も匙を持ったまま、肩を揺らしていた。
「ノアが鳥って言うから」
「二つにしろとは言ってない」
「こっち向きで見たら、一羽かもしれない」
彼女は椅子から腰を浮かせ、少し横へ回った。
俺も隣へ寄った。
二つだった。
俺たちはこれ以上、直さないことにした。
蜜の瓶は、炉から離れた石の上で少し温まっていた。エルナが皿の隅へ出そうと傾けると、さっきまであんなに動かなかった中身が、急に細い筋になって流れた。
「あ」
彼女は瓶を起こした。
皿には、二つ頭の鳥を十分に甘やかせる量の蜜ができていた。
「少し、出たね」
俺が言うと、彼女は瓶を置いた。
「たくさん焼けば薄まる」
「もう生地、あまりないけど」
彼女は椀を覗き、次に俺を見た。
「言わなくてもよかったのに」
叱られたのに、少し嬉しかった。
エルナの指に蜜がついていた。流れた所を受け止めようとしたのだろう。彼女は舐めてから、しまった、という顔をした。
俺は何も言わず、濡らした布を差し出した。
彼女はそれを受け取ったが、笑いを堪える俺の顔も、ちゃんと見ていた。
エルナが木べらを取った。俺が親指を押しつけていた窪みより、少し先を握っている。
二つ頭の鳥は、拍子抜けするほど簡単に裏返った。
「小さいからだね」
俺が言うと、彼女は、うん、と答えた。木べらへ謝らずに済んだ。
裏面は、ただの菓子だった。
少し寂しい気もしたが、皿へ取る頃には、香ばしさの方が勝った。
残りを二枚に分けて焼いて、ようやく鍋が空いた。椀の底を匙でさらっていると、戸口に影が差した。
母が洗濯籠を抱えて戻って来たのだった。
彼女は皿を見て、俺の顔を見た。
「大きく焼いたのね」
もはや一つも大きくないのに、どうして分かるのだろう。
母は欠片を一つつまみ、噛みながら鍋へ水を張った。じゅっと白い湯気が上がり、底についた小さな焦げが、黒い点になって浮いた。
「今のうちにふやかしておくと、後が楽よ」
それからエルナへ、美味しいでしょう、端が、と言った。
彼女はすぐに頷いた。
どうやら俺の失敗には、俺だけが知らない食べ方があったらしい。
*
持って出られたのは、最後の二枚だった。
二つ頭の鳥は、姿を失った後、俺たちの腹へ入った。最初の七つは味見のために減り、母の分を皿へ残すと、包むほどの量ではなくなった。
俺は鍋を洗い、エルナは使った皿を拭いた。
今から出れば、まだ十分明るい。
そう言ったのは俺だったが、急ぐと布包みの結び目が二度もほどけた。エルナが笑って、空いた方の手を差し出した。
「持つよ。上着、着て」
俺は菓子を渡した。
外へ出ると、炉の前にいた頬へ風が冷たかった。日なたの道は乾いていて、踏むたびに靴の下で砂が鳴る。塀の際には黄色くなった草が伏せ、どこかの家から、薪を割る音が間を置いて聞こえた。
エルナは包みを鼻の近くへ持ち上げた。
「まだ温かい」
「さっきまで、あんなに食べてたのに」
「歩くとお腹が空くから」
まだ家を出て十歩ほどだったが、俺にも異論はなかった。
行先を決めずに曲がった道は、結局、港の手前へ出た。荷車の邪魔にならない所に、日を吸った低い石塀がある。俺たちはその端へ並んで腰を下ろした。
入り江には穏やかな光が揺れていた。岸につながれた舟が、ごく小さく傾くたび、濡れた縄が石を擦った。潮の匂いに、布包みから上がる林檎の匂いが混じった。
その組合せは、台所で想像していたよりずっとよかった。
エルナが包みを開いた。
残しておいた二枚のうち、一枚には厚い林檎が多く入っていた。もう一枚は薄く広がり、縁が濃い茶色になっている。
俺は大きい方を彼女へ渡しかけ、少し迷った。
小さい方にも、端の香ばしそうな所がある。こちらを渡せば、小さい方を寄越したと思われるだろうか。
大きい方を渡せば、美味しい端だけ自分に残したと思われるだろうか。
菓子を二枚焼いただけで、こんなに立場が悪くなるとは思わなかった。
「半分ずつにする?」
エルナが言った。
俺はすぐ頷いた。
大きい方を割ると、柔らかい真ん中から、まだ少し湯気が出た。火の通った林檎は透けていて、甘い汁が指へついた。
エルナは端から齧った。焼き色の濃い所で、あの小さな音がした。
「そこ、好きなんだね」
「うん。少し硬い所」
彼女は持っている菓子を回した。
俺は真ん中の厚い所を食べた。温かい果肉が舌の上でほどけ、噛んだ後から酸味が残った。蜜をつけすぎた台所での味見より、林檎の味がよく分かった。
「僕はこっちも好き」
「知ってる。さっきから、林檎の多い所を取ってる」
見られていた。
俺は何となく、自分の半分をもう一度眺めた。公平に割ったつもりだったが、指で持っている端まで食べたくなり、すぐ口へ運んだ。
エルナが笑った。
「取らないよ」
「そういうことじゃなくて」
そういうことでは、少しあった。
小さい方はよく焼けていて、割ると幾つかの欠片になった。エルナは掌で受け止め、一つを俺へ差し出した。俺も食べてみた。
端には林檎がほとんど入っていない。その代わり、噛むたびに油と粉の香ばしさが出た。
彼女が大事そうに食べていた理由が、少し分かった。
「こっちも美味しいね」
「でしょう」
鍋の前で俺がしたのと同じ顔をして、彼女は言った。
俺たちはしばらく、何も話さずに食べた。彼女の靴先が時々石塀を叩き、俺は膝へ落ちた屑を指で拾った。
二人で座るには少し狭い場所だった。肩が触れたが、どちらもずれなかった。
「次は、もっと薄く切る」
最後の一口を食べながら、俺は林檎のことを言った。
「それだと、あなたの好きな所がなくなるよ」
エルナは布についた屑をまとめていた。
そう言われると、切り揃えるのも惜しくなった。
俺は彼女の横顔を見た。下を向いた頬に髪がかかり、風で一筋だけ唇へ触れる。彼女はそれを指の背で払ってから、こちらを向いた。
「何?」
「また作ってもいいかなって」
エルナは空になった布へ目を落とした。
「うん。今日の、美味しかった」
答えを聞くと、考えていた気の利いたことが、全部いらなくなった。
俺は自分の上着についた粉を見つけ、払った。払うと別の所に白い跡が広がった。隣でエルナが、今度は声を出して笑った。
彼女は手を伸ばしかけ、自分の袖にも粉がついているのを見つけた。
二人でしばらく、それを払う羽目になった。
*
家へ帰る頃には、俺は次に焼く大きさを考えていた。
小さい方が裏返しやすいのは、もう分かっている。
ただ、最初に砕けた七つのうち、一つだけ、端が幾重にも重なった所があった。あそこをエルナは、ずいぶん美味しそうに食べた。
同じものを、わざと作れるだろうか。
考え込んでいると、彼女に、まだお腹が空いてるの、と聞かれた。
「違う。作り方を考えてた」
「さっきの?」
「最初の、ぱりぱりになった所」
エルナは少し思い出す顔をした。
「あれは、また食べたい」
嬉しくなった俺の顔を見て、彼女は続けた。
「でも、失敗したのは知ってるからね」
秋の道で、俺は返事に困った。
つないだ手を離されなかったので、しばらく困ったまま歩いた。




