生まれた人の名
次の対岸便では、船酔いを少しだけ見栄なく申告できた。
少しだけ、というのは、出航前に自分から言えたのではなく、顔が悪いと指摘された時に、よくないと答えられた程度である。
エルナは俺の荷から水を取り、ユストは甲板の邪魔にならない場所を示した。
空は晴れていた。
晴れた海で気分が悪くなると、責める相手がいなくて困る。
俺は水平線を睨み、協定のために渡る責任ある人物という顔を諦めた。
エシュルでは、ディオルが新しい控えを用意していた。
全体の名簿ではない。
自分の記録を確かめることに同意した一人分と、公開してよいとされた様式の説明だった。
本人が来るまで紙を開かず、俺たちは部屋の掃除が済むのを待った。
来たのは、背の低い若い女だった。
ネイという名で、港の帆布を縫う仕事をしている。
肩にかけた袋は自分で繕ったらしく、異なる色の糸が縁に並んでいた。
椅子に座る前に、その背を一度揺すった。
「前に、ここで脚が折れたの」
俺が見ると、ディオルは申し訳なさそうに、新しくしたと答えた。
「分かってる。でも、座るのは私だから」
彼女は言った。
記録を見せる範囲も、同じように自分で確かめた。
仕事の契約、家族の現在の所在、外部体験の個々の内容は出さない。
出生の記載と、接続された記録の旧番号、その時に器がどの状態へ移されたか。
今回必要なのはそれだけだった。
俺がなぜ調べたいのかを説明すると、彼女は、自分をノアの似た人として紹介しないでほしいと言った。
「外から来た体験がある人、という括りは必要な時もある。でも、あなたの話の例として生まれたわけじゃない」
「分かりました」
俺は答えた。
分かったところから、もう一度聞く。
彼女の出生の控えは、記録庫の帳面だけでなく、その時に助産をした家の控えにも残っていた。
そちらは紙の質も筆跡も違い、母体の休養に用意した部屋や、代金を払った人の印があった。
保全番号を使って費用をまとめた紙ではない。
未出生、と書かれた古い欄の日付が先にあり、ネイがこの町で生まれたという記載が、その後にある。
接続が済んだ後、その番号は別の状態へ移されていた。
それ自体は、最初の渡航で聞いた説明と同じだった。
だが、説明だけを繰り返すのと、独立して残った二つの紙を本人の前で合わせるのは違う。
ネイの昔の欄は、これからネイという子供が生まれるという予告ではなかった。
まだこの岸の身体へ接続されていないものを、保管する側の言葉で数えていたのだ。
本人の許可した立会いのもと、旧容器の外側の記録も確認した。
中に暮らしている誰かへ語りかける部屋ではない。
移送後の容器は空で、残っているのは使用後の状態を示す痕と、扱いを記した札だった。
俺はガラスの向こうの静けさを見た。
日本で生きた俺は、ここにもう一人座って、今日の俺を見ているわけではない。
他の器の中の原本も、今この瞬間に退屈し、助けを待ち、俺たちの話を聞いている人ではない。
だから雑に扱ってよいわけではなかったが、目覚めさせれば全てに答えてくれる人として扱うのも違う。
ディオルは封じ目の劣化を調べる仕事と、雨漏りを防ぐ仕事を別々に示した。
どちらも必要で、どちらかを済ませれば他方が永久に不要になるわけではない。
ネイは早く部屋を出たがった。
「今日は持って来ないでいい物まで、背負って帰りそうになる」
廊下でそう言った。
俺は彼女を呼び止め、自分の過去を思い出す手がかりはないかと聞きたくなった。
同じ外部由来の人なら、何か感じるのではないか。
その考えに根拠がないことは、もう十分分かっていた。
「お時間をありがとう」
俺は言った。
「謝礼は、仕事を休んだ分と同じ窓口で?」
彼女はディオルへ聞いた。
彼が頷くと、ネイは控えを受け取った。
協力者として立派な顔をして帰るのではなく、午後の仕事へ戻る人の足取りだった。
俺の照会については、二系列の番号に対応する索引が届いていた。
現物が二つ、この机に揃ったわけではない。
保管場所が異なり、途中で移された記録もある。
片方の索引だけを見て、なぜ二つあるのかを決めることはできなかった。
先を知りたい、と胸の奥が鳴った。
それでも、その日の便に載せる控えは、先にネイへ確認してもらった。
自分の謎へ走るために借りた人の時間を、借りたまま置いて行かない。
それくらいは、今日の仕事に含まれていた。




