灯りになる夏
避難には、思いのほか多くの鍋が必要だった。
子供と老人を南の高台へ運ぶことだけ考えればよいと思っていたが、そこへ行けば腹が減る。
水が要る。
夜には冷える。
母は薬と一緒に鍋を荷車へ積み、ミアは毛布の束へ紐を通した。
家を離れることに怒る老婆を、村長が怒らず説得していた。
俺の失敗で、こんなにたくさんの人が、自分の夜を失っていた。
トマは弟を背負って水車小屋から出てきた。
俺を見ると足を止めた。
口を開いて、閉じた。
弟が彼の首にしがみついていた。
「水車、置いてくの」
俺は聞いた。
聞くべきではないことは、たいてい口にしたあとで分かる。
「持っていけないだろ」
トマはそれだけ言って歩き出した。
アニは蜂箱の上に布を掛けていた。
全部は運べない。
彼女の父は残す箱の蓋を外し、蜂が逃げられるようにした。
夕闇の中で羽音が広がった。
家へ荷物を取りに戻ると、父が窓際の椅子を持ち上げていた。
ほかの家具はそのままだった。
「それも?」
俺が聞くと、父は椅子を見下ろした。
重いのか、腕の筋が浮いていた。
「分からん。でも、置いていくのが嫌なんだ」
母は何も言わず椅子の背に布を巻いた。
角が荷車の人を傷つけないように。
ミアがその下へ俺の練習帳を押し込んだ。
「濡らさないでね」
俺が言うと、彼女は初めて怒った。
「だったら帰ってきて、自分で見張って」
俺は頷いた。
灯台の床は、踏む場所によって濡れていた。
水が漏れているのではなかった。
靴を置くたび、石の上に波の薄い膜が現れ、次の瞬間に消えた。
オルネは戸口から灯室まで縄を通し、途中に何度も結び目を作った。
「目に映る道が変わっても、これを離すな」
エルナは結び目を数え、紙に記録した。
父は外で、最後の避難者を南道へ送っていた。
村に残る猟師たちは、獣が霧に追われて下りてくるのを防ぐ役だった。
全員が灯台へ来ても何も解決しない。
初めて俺は、大きな出来事にも別々の仕事があることを理解した。
俺の記憶は、昼の試験で適合した。
小さな検針へ触れるだけで、塔の揺れが止まった。
オルネは何処の帰路か尋ねた。
俺は遠いところ、と答えた。
嘘ではないという逃げ道を残した答えだった。
老人は深く聞かなかった。
「差し出したら、同じ体験としては二度と取り戻せない。記録を読めば、何があったか知ることはできる。知るのと帰るのは違う」
俺は黙っていた。
前世の家族旅行だった。
七歳の夏。
行きの車で蜜柑を食べ、浜で父にサンダルを買ってもらった。
覚えていたのは楽しい一日だけではない。
帰り道、俺は砂を落とさずに車へ乗り、父を怒らせた。
母は眠った俺の足を拭いた。
起きていたのに、俺は寝たふりをした。
その手が心地よかったからだ。
自宅の玄関で、母が鍵を落とした。
父が笑った。
俺はまだ抱いてほしくて、目を開けなかった。
何一つ立派ではない記憶だった。
そんな記憶を、俺は最後まで捨てられずにいた。
灯室で、エルナが紙と筆を差し出した。
「先に書く?」
俺は頷いた。
震える手で、蜜柑、砂、車、鍵、と書いた。
言葉を並べるほど、書けていないものが分かった。
母の手のひらの少し湿った温かさ。
父が笑うときに肩が揺れる間。
あの家の、閉める途中で一度引っかかる扉。
「もっと紙、いる?」
「足りない」
エルナは鞄へ手を入れた。
俺は首を振った。
何枚あっても足りないという意味だった。
彼女はしばらく俺を見て、それから筆が転がらないよう卓上に置いた。
塔が大きく軋んだ。
窓の外で畑が暗い水に沈んだ。
正確には水が畑を覆ったのではなく、畑と水が同じ場所を譲り合えず、互いを透かして見せていた。
麦の穂の間を白い魚影が通り、遠い森の根元へ波が打ちつけた。
オルネが俺を鉄台の前へ呼んだ。
指を置く。
冷たいと思ったのは最初だけだった。
すぐに温かい砂が足の裏へ広がった。
俺は七歳の子供として、父の背中を見ていた。
父はまだ若く、俺があとで嫌うようになる癖を、もう全部持っていた。
大きな声で人を呼び、欲しくもない食べ物を買い、母にたしなめられていた。
嫌だったところまで、急に愛おしくなるというのは卑怯だ。
失う直前に値を吊り上げるなんて、まともな商売ではない。
俺は手を離しかけた。
逃げたかった。
差し出すと言ったのは、できると思ったからで、本当にやるのとは違う。
別の記憶では駄目なのか。
俺が嫌いだった上司を十人でも二十人でもくれてやる。
人数を増やせば済むという話ではないことは、十分知っていた。
「ノア」
オルネの声がした。
「やめるなら今だ。君が怖がるのは当然だ」
責められなかった。
それが最後の逃げ道になりかけた。
下から父の声が聞こえた。
誰かを呼んでいる。
トマの父だった。
水路の向こうに残った家畜を逃がして戻る途中、霧で道を失ったらしい。
塔に灯りがあれば、位置が分かる。
俺は目を閉じた。
母の鍵が玄関の敷居に落ちる音を聞いた。
父が笑った。
俺は抱かれたまま、今度こそ目を開けようとした。
その瞬間を、灯りにした。
白く燃えたわけではなかった。
音もなく、記憶の奥行きがなくなっていった。
父の笑い声が意味へ変わり、母の腕の温かさが、温かかった、という一文になった。
砂が平らになり、家が名前になった。
俺は全部知っているのに、どこにもいられなくなった。
灯台が光った。
橙色の帯が硝子を抜け、麦畑を横切った。
光を受けたところから景色の重なりがほどけ、畑が畑として輪郭を取り戻した。
水は低い方へ引きながら、最後に一度だけ本物の波になった。
石壁を叩き、冷たい飛沫が窓の隙間から入った。
エルナが俺の手首を掴んだ。
止め目を閉じるよう言っていた。
俺は動かしたつもりだったが、指が曲がらなかった。
彼女の手が上から重なり、オルネが鉄台の脇の栓を引いた。
灯りが細くなった。
父の呼び声が、今度ははっきり聞こえた。
人が戻ってきた声だった。
俺は床に座り込んだ。
エルナが紙を持ってきた。
濡れた隅に、俺の字で蜜柑、と書いてあった。
読めた。
何を書くつもりだったかも分かった。
なのに、一文字も俺をあの車へ連れていかなかった。
声を上げて泣いた。
十一歳の身体で、四十二年分の見栄をどうにか保とうとしていたが、無理だった。
誰に見られるかも、褒められるかも、そのときだけはどうでもよかった。
エルナは背中を撫でなかった。
隣に座って、濡れないよう紙を持っていた。




