帰り道の値段
霧は朝までに引いた。
麦は倒れず、道も濡れていなかった。
ただ、東の畑に埋めてあった石が一つ、丸い輪をつけて地面から突き出していた。
錆びた輪に縄の擦れた跡があり、誰もそれを埋めた覚えがなかった。
父と村長が石を調べているあいだ、俺は少し離れたところに立っていた。
言うなら今だと思った。
二人だけなら、村中へ知れ渡らずに済む。
だが、その計算をしているうちに人が集まり、俺はまた機会を失ったことにした。
村長は境標の増強を命じた。
隣の村から記録師を呼ぶ使いが出た。
父は弓を背負い、俺の肩に手を置いた。
「家にいろ。母さんの仕事を手伝え」
その手を振り払って逃げたくなった。
信頼されることが、こんなに苦しいとは知らなかった。
家で母は薬を小分けにしていた。
ミアは包帯を裂き、俺は壺に札を結んだ。
薬の名前を一枚書き間違え、母に直された。
いつもなら知っていたと言い返すところだったが、声が出なかった。
昼過ぎ、ミアが席を外すと、母が壺を置いた。
「何を隠してるの」
俺は反射的に首を振った。
母は俺を見ていた。
怒っている顔でも、事情を全て知っている顔でもなかった。
俺が口を開くのを待つ顔だった。
「境標を、少し」
言い始めると、少し、という言葉が何度も出た。
少し短くした。
少し削った。
最初は少し良くなった。
母は遮らなかった。
最後まで聞いたあと、持っていた札を卓上へ置いた。
「いつ」
「十日前」
「お父さんが見に行く前に、言えた?」
俺は頷いた。
涙が出てきた。
反省しているからだと思いたかったが、父が危険な場所にいることより、母がもう俺を賢い子だと思わないことのほうが怖かった。
母は外へ出てミアを呼び戻し、父に伝える使いを頼んだ。
それから俺を戸口へ連れていった。
「私に話せたのはよかった。でも、話しただけでは終わらない。村長にも話すの。私も行く」
「怒られる」
「怒ると思う」
慰めではなかった。
だから、信じられた。
村長の家では六人の大人が地図を囲んでいた。
俺が話すあいだ、誰も声を上げなかった。
その静けさが、どんな叱責よりも怖かった。
説明の途中で、父が図を持って帰ってきた。
聞いた瞬間に俺を殴ると思ったが、父は俺の顔を一度見ただけで、境標の図を卓上へ広げた。
「ここと、ここだな」
俺は頷いた。
「ほかには触ったか」
「ない」
「言い忘れてると、死人が出る」
「本当に、ない」
父はもう一度線を見た。
俺の名前を呼ぶときと違う目をしていた。
猟師の目だった。
俺が短くした道は、余った力を地中へ逃がすための迂回路だった。
石の中を何度も巡らせるのは、古い設備に一度に力を送らないためだったらしい。
父はそう説明しながら、自分にも全体は分かっていないと付け加えた。
「切り戻せば済むのか」と村長が聞いた。
「今は無理だ。向こうから来ている」
「向こうとは」
父は答えなかった。
その答えのない沈黙へ、灯台の音が重なった。
昼の明るい窓の外を、魚のような影が通った。
水のない空中を泳いだのではない。
窓の向こうに一瞬だけ、別の場所の水面が重なったのだった。
俺には、そう見えた。
オルネが到着したのは翌日の夕方だった。
村を離れていた彼が来られたのは、境標から定期の報告が届かなくなったためだという。
エルナも一緒だった。
泥まみれの裾を絞る暇もなく、二人は父と灯台へ入った。
俺は階段の下で待った。
エルナが降りてきて、小さな包みを俺に差し出した。
「食べて。持ってるだけだと邪魔」
固いパンだった。
彼女も一つ齧った。
横顔が疲れていた。
「僕が壊した」
「聞いた」
「直せると思った」
「聞いてない。それは」
棘のない言い方だった。
だから俺は、どれほど簡単に見えたか、水車を直したトマが羨ましかったこと、父に喜んでほしかったことまで話してしまった。
エルナは全部聞いた。
途中、パンの欠片を膝で受けた。
それを拾って口に入れてから言った。
「私も、お父さんの帳面を一度、直したことがある。間違ってると思って」
「どうなった」
「間違ってたのは私だった。お父さんが忘れた人の名前を、私の知ってる名前に変えてた。分からないって書いてあるのが嫌だったから」
彼女は手の粉を払った。
「紙の空いてるところ、勝手に埋めたくなるんだよね」
慰めではなかった。
仲間扱いでもなかった。
ただ、自分の嫌なところをこちらへ一つ置いた。
俺はそれをどう受け取ればよいか分からず、パンを噛んだ。
上からオルネが呼んだ。
彼女は立ち上がり、俺にも来るよう手を振った。
灯室の鉄台には、薄い光が溜まっていた。
窓の外の麦畑は、夕焼けの下で濡れて見えた。
オルネは刻線を指し、父と村長に説明していた。
「塔は火を燃やすものではない。場所を見つけ、こちらと向こうの境を保つものだ。境標の流れが、休ませてあった回路を起こした」
「何の境だ」
「今見えている土地と、そこから外された土地の境だろう。都市の古い修繕録に似た構造がある。私にも実物は初めてだ」
言い切らなかった。
そのことが、俺にはむしろ頼もしく思えた。
「閉じられるのか」
「完全には無理だ。今夜の膨らみを止めて、人を逃がす時間は作れる」
オルネは小さな銀色の札を並べた。
記憶を預けた封片だという。
持ち主が使う前に取り出して保存したものだから、開けば一度だけ使える。
他人の封片を通すには、余計な力が要る。
「十七片ある。これで下の回路は保てる。だが、最後に灯室で帰路を結ぶ体験が要る。家へ戻った、という形を持つ強い記憶だ。単に家の名を知っているだけでは足りない」
父が自分でやると言った。
オルネは首を振った。
「君は村の境を通した人間だ。ここへ繋ぐと、今いる村人まで一緒に引かれる危険がある。私にもこの地域の道を渡した仕事歴がある」
「私なら」とエルナが言った。
オルネは彼女を見た。
すぐに否定しなかった。
「候補にはなる。だが、君一人の蓄えでは短い。ほかの人を探そう」
俺は窓を見た。
遠い麦畑の端で、白いものが砕けていた。
波だった。
もう、言葉を間違えようがなかった。
俺には、家へ帰った記憶があった。
この土地にも、この世界の境標にも、繋がっていない帰路が。
言えば差し出すことになる。
言わなければ誰かが探し続ける。
まだ一人も死んでいない。
大人たちが何とかするだろう。
俺は子供なのだから。
そう考えたとき、エルナが父の分まで荷物を持ち直した。
彼女は俺より一つしか年上ではなかった。
「試してほしい記憶がある」
俺は言った。
声が裏返った。




