花婿の手を洗う
結婚する日の朝くらい、粉屋も白い粉から離れられるのだろうと思っていた。
ところがトマは、婚礼の前日に水車小屋へ入り、留め具を替えていた。
雨の後から軸が鳴るようになったという。
祝宴に集まる人の数より、明日の粉挽きの順番の方が、彼の頭の中では切実らしかった。
「今日やらなくても」
俺が言うと、彼は薄暗い梁の下から顔を上げた。
「明日やる方が嫌だろ」
その通りなので、俺は手伝うことにした。
春の水は冷たかった。
樋から跳ねた滴が頬へ当たり、襟の中へ入る。
俺たちは欠けた古い木片を抜き、エドが切っておいてくれた替えを押し込んだ。
ぴたりと収まった時、トマは満足げに笑った。
生涯の伴侶を得る男としては地味な喜びだったが、明日以降も彼はこの水車と暮らす。
俺なら結婚を理由に、一週間くらい怠ける。
そう考えた後で、理由がなくても怠ける日があったことを思い出した。
婚姻という制度への評価に、自分の勤労意欲を混ぜるのはよくない。
小屋から出ると、アニが腕を組んで待っていた。
髪は普段と同じようにまとめていたが、耳の脇に一本、細い布が編み込まれている。
夕方にほどくと明日は緩く波がつくのだという。
トマはそれを見て、頭に何かついてる、と言いかけた。
俺は肘で彼を押した。
「綺麗にしてる途中なんだと思う」
「知ってるよ」
アニが答えた。
「あなたに聞いてない。トマ、手」
花婿は素直に両手を出した。
爪の隙間に油と黒い粉が入り込んでいる。
彼女は右手の掌を、傷のある自分の手で裏返した。
「これは落ちる?」
「落とす」
「明日、私の袖に付けたら、その後ずっと見せるからね」
「毎年?」
「毎回洗う時」
トマはそこでようやく、先延ばしのできない危機を理解した顔になった。
俺たちは家の裏の洗い場で、ぬるま湯と油を使って手を洗った。
アニは脇に腰かけ、婚礼の客の席を確認していた。
村の長椅子だけでは足りず、果樹園から板を借りてある。
海の向こうから来る客は、潮の都合で昼前に着く予定だった。
冬の救助の後も、往来は少しずつ続いていた。
定期便と呼ぶにはまだ欠航が多かったが、出る時期と、出られない時に何を知らせるかが決まってきた。
それだけで、届かなかったものを全部、海に奪われたのだと思わずに済む。
今回の便にはレクが乗っていた。
祝いの席へ錠前師を呼んだ理由を聞かれ、トマは荷箱が必要だからと答えた。
客を働かせるのか、と俺が言うと、祝いとは別に頼んだ仕事で、金も払うと言った。
俺の友人とトマの注文相手は、いつの間にか同じ人になっていた。
「鍵つきの箱を贈り物にすると、家から物を持ち出すなって意味になる所があるらしいよ」
俺は港で聞いた話をした。
アニの眉が動いた。
「贈り物じゃなくて注文品でしょう」
「そうなんだけど、見た人が」
「見た人に、そう言う」
彼女は席の紙へ何かを書き足した。
簡単そうに言ったが、簡単だからこそ、その場で言わなければ別の意味が育つのだろう。
俺は洗い終えた手を持ち上げた。
爪の端に、まだ黒いものが残っていた。
花婿より先に綺麗な手になってはいけない気がして、もう一度水へ浸した。




